第四部 返却された人間
坂本から聞いた話は、高城の中に、これまでとは違う種類の恐れを植えつけていた。
銀行が、単に人を隠す組織ではなく、人間の人生そのものを別の人間に受け渡す仕組みだとすれば――「保留」という状態の裏には、想像したくない現実が横たわっている。
だが高城は、まだそれを断定できずにいた。噂は噂に過ぎない。確かめるには、実際に銀行を経験した人間たちの言葉を、もっと集める必要があった。
高城は、坂本のリストと、これまでの調査で得た情報を突き合わせ、接触可能と思われる「返却済」の元預金者を三人、絞り込んだ。
一人ずつ、会いに行くことにした。
二 一人目――救われた女性
最初に会ったのは、高城が第二部ですでに話を聞いた女性、「E」だった。彼女には、もう一度、より踏み込んだ話を聞かせてほしいと頼んだ。
「銀行に入る前と後で、何が一番変わりましたか」
女性はしばらく考えてから、静かに答えた。
「怖くなくなったことです」
「怖く」
「あの人から逃げていたとき、私はずっと、いつか見つかるんじゃないかっていう恐怖の中で生きていました。名前を変えても、住む場所を変えても、心のどこかで、追いつかれる予感が消えなかった」
「銀行は、それを消してくれたんですね」
「はい。銀行を通したことで、私という人間の痕跡そのものが、一度完全に途切れました。戸籍上の記録はそのままでも、生活のすべて――住所、勤務先、交友関係、携帯電話の番号まで、根こそぎ作り直されました」
「それは……合法的な仕組みなんですか」
女性は初めて、困ったように笑った。
「合法とは言えないと思います。でも、あのとき私を守ってくれた法律は、どこにもありませんでした」
彼女は、コーヒーカップを両手で包むようにして続けた。
「銀行のおかげで、私は今の人生をやり直せました。誰にも見つからず、誰にも脅かされず、静かに生きています。だから私にとって、銀行は――救いです。それ以外の言葉が見つかりません」
高城は、その言葉に嘘がないことを感じた。少なくとも、この女性にとって、銀行というシステムは、確かに一つの命を救っていた。
三 二人目――人生を奪われた男
二人目に会ったのは、四十代の男だった。仮に「F」としておく。
Fは、かつて多額の借金を抱え、取り立てから逃れるために銀行に自分を預けた過去を持つ。半年の契約期間を終え、彼は元の生活に戻った。
だが、その顔には、Eのような穏やかさは見当たらなかった。
「戻ったとき、家族はもう、別の人生を始めていたんですよ」
Fは、乾いた声でそう言った。
「妻は、俺が消えたことを、家族への裏切りだと受け取っていました。俺が『半年で戻る』つもりだったことなんて、伝える手段がなかった。銀行との契約では、預入期間中は一切の連絡が禁じられていましたから」
「連絡が、禁じられていた?」
「そうです。それが契約の絶対条件でした。半年後、俺は元の住所に戻りました。でも、そこにはもう、俺の家族はいませんでした。妻は別の男性と暮らし始めていて、子供たちも、もう俺を『お父さん』とは呼びませんでした」
Fの目には、隠しきれない苦さがあった。
「借金からは、確かに逃げられました。でも、代わりに、家族という、もっと大事なものを失いました」
「銀行を、恨んでいますか」
Fはしばらく沈黙し、それから力なく首を振った。
「恨んでいいのかどうかも、わからないんです。銀行は、俺が望んだことをやってくれた。俺を、借金取りから完全に消してくれた。ただ――俺が消えているあいだに、俺のいない世界が、勝手に前へ進んでしまった。それだけの話です」
彼は最後に、こう付け加えた。
「銀行は、俺にとって――人生を奪った場所です」
同じ仕組みが、ある人間には救いを与え、別の人間からは、かけがえのないものを奪っていく。高城は、その落差の重さに、しばらく言葉を失った。
四 三人目――必要悪という言葉
三人目に会ったのは、かつて犯罪組織に属していたという、初老の男だった。仮に「G」としておく。
Gは、組織を裏切る形で足を洗い、報復を恐れて銀行に自分を預けた過去を持つ。無期限に近い長期の預け入れを経て、組織そのものが解体された後、ようやく「返却」された人間だった。
「銀行を、どう思いますか」
高城の問いに、Gは煙草の煙を長く吐き出してから答えた。
「あれは――必要悪だ」
「必要悪、というと」
「俺みたいな人間を、法律も、警察も、守っちゃくれない。組織を抜けた人間は、いつまでも命を狙われ続ける。逃げ場なんて、どこにもない。銀行みたいな仕組みがなけりゃ、俺はとっくに死んでいたよ」
「でも――」高城は、Fから聞いた話を思い出しながら言った。「その仕組みのせいで、別の誰かが人生を壊されているとしたら」
Gは、しばらく高城を見つめた。それから、静かに言った。
「どんな仕組みにも、傷つく人間はいる。警察にも、法律にも、俺たちが生きているこの社会そのものにもだ。銀行だけを特別扱いして、悪だと決めつけるのは……ちょいと、フェアじゃない気がするな」
Gは煙草を消し、立ち上がりながら、最後にこう付け加えた。
「あんたが本当に知りたいのは、銀行が善か悪か、なんて話じゃないだろう。もっと違うことを、探してるんじゃないのか」
その言葉に、高城は答えられなかった。
五
事務所に戻った高城は、三人の証言をノートに並べて書き出した。
救い。 奪われた人生。 必要悪。
同じ「銀行」という言葉から、まったく異なる三つの現実が浮かび上がっていた。単純な正義感で断罪できるような組織ではない。それは高城にとって、これまでのどんな事件よりも扱いの難しい対象になりつつあった。
だが、三人の証言に共通する一点があった。
いずれも、自分の意志で銀行に預けられていたということだ。
Eも、Fも、Gも、自らの判断で、自らの人生を、一時的に銀行へと委ねた。そこには、確かに彼らなりの切実な事情があった。
だとすれば――。
宮村篤志の場合はどうだったのか。彼は、本当に自分の意志で消えたのか。
そして、二十六年前の三崎紗季は。
高城はノートに、もう一度あの疑問を書き足した。
預けるのは、常に本人の意志なのか。
その答えを探すために、高城は次に、坂本から得たリストをさらに深く掘り下げることを決めた。「返却済」の記録の向こう側――本人の同意なく預けられた者たちの痕跡を、探すために。




