第三部 預金者名簿
その情報屋の名は、坂本といった。
高城が警察官だった時代から付き合いのある男で、表向きは古物商を営んでいるが、実際には裏社会のあらゆる噂を右から左へと流すことで生計を立てている。もう七十に近い年齢で、この街の裏の歴史を知る、数少ない生き証人の一人でもあった。
「銀行、ね」
坂本は、高城が事務所代わりにしている質屋の奥の部屋で、茶をすすりながら言った。
「あんた、危ないところに首を突っ込んでるよ」
「知ってるのか」
「知ってるも何も……この街で三十年商売してりゃ、嫌でも耳に入ってくる話さ。ただ、俺が知ってるのは、噂の輪郭だけだ。中身までは知らない」
「輪郭でいい。教えてくれ」
坂本はしばらく黙って茶をすすった後、声を落として語り始めた。
「銀行ってのは、要するに、人間を一時的に社会から消す仲介屋だ。表の金融機関が金を預かるみたいに、人間そのものを預かる。期間が来れば、返す。それだけの話――のはずなんだが」
「はずなんだが?」
「最近、妙な噂を聞くようになった。返ってこない預け入れがある、ってな」
「返ってこない?」
「契約期間が過ぎても、戻ってこない人間がいる。銀行の中でも、そういうケースは特別な扱いを受けるらしい」
「特別な扱い、とは」
坂本は首を振った。
「そこから先は、俺も知らない。ただ、もしあんたが本気で調べる気なら、一つだけ手がかりをやれる」
坂本は、古びた木箱の奥から、一枚の紙片を取り出した。それは、コピーを重ねてかすれた、リスト状の記録だった。
「これは?」
「銀行の顧客名簿の一部だ。どこからどう流れてきたのか、俺も詳しくは知らない。裏社会じゃ、こういう情報が時々、金と一緒に人の手を渡り歩くのさ」
高城はその紙片を受け取った。目を落とした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
そこに並んでいたのは、人間の名前ではなかった。
二
紙片には、こう記されていた。
A-031 預入期間:6か月 状態:返却済 A-032 預入期間:3か月 状態:返却済 B-089 預入期間:1年 状態:返却済 B-114 預入期間:2年 状態:返却済 C-007 預入期間:無期限 状態:保留 C-008 預入期間:無期限 状態:保留
延々と続くリストの中に、名前は一つもなかった。あるのは、番号と、期間と、そして状態を示す短い言葉だけ。人間の存在が、まるで倉庫に保管された荷物のように、無機質な記号へと還元されている。
高城は「返却済」という言葉の意味を、坂本に確認した。
「契約通り、期間が終わって元の生活に戻された、ってことだろうな」
「じゃあ、『保留』は」
坂本は答えなかった。ただ、渋い顔でリストを見つめた。
「俺の想像だが……期間が来ても、戻されなかった、あるいは、戻すつもりのない人間、ってことじゃないのか」
高城はリストを何度も見返した。「保留」の文字がついた番号は、決して少なくない。数十件のリストの中に、十件近くの「保留」が混じっている。
三
事務所に戻った高城は、夜を徹して作業に取りかかった。過去に閲覧を許された失踪事件の記録と、坂本から受け取ったリストを、可能な限り照合する作業だった。
番号だけのリストから個人を特定するのは、本来なら不可能に近い。だが高城には、一つ手がかりがあった。「返却済」となっている番号の中には、失踪期間や、発見された時期が、過去の失踪事件記録と一致するものがいくつか見つかったのだ。
たとえば、A-031。預入期間六か月。これは、以前調べた「半年後に戻ってきた失踪者」たちの記録の中に、時期的に一致する事件が存在した。無論、確証はない。だが、偶然と片付けるには、あまりに符合しすぎていた。
高城は震える手で、リストの「保留」の項目に対応する事件を探し始めた。
そして、気づいてしまった。
「保留」とされている番号の多くが――今も行方不明のまま、警察の記録に残っている未解決の失踪事件と、時期的に一致していたのだ。
高城は椅子の背にもたれ、しばらく天井を見上げていた。
これまで高城は、銀行を「人を隠す組織」として捉えていた。依頼人が誰かを一時的に消し、期間が来れば元に戻す――そういう、ある種の逃避のためのサービスだと。
だが、「保留」の存在は、その理解を根底から覆すものだった。
戻すつもりのない預け入れが、存在する。
つまり、銀行は単に人を隠しているだけの組織ではない。
何かを、恒久的に、消し続けている。
四
高城は翌朝、坂本のもとを再び訪ねた。
「保留になってる連中は、どうなるんだ」
坂本は、今度ばかりは本当に何も知らないというように、首を振った。
「俺が知ってるのは、ここまでだ。これ以上は、俺の手に負える話じゃない」
「教えてくれ。頼む」
坂本は、しばらく高城の顔を見つめてから、ため息をついた。
「昔、一つだけ聞いたことがある噂話をしてやる。信じるかどうかは、あんた次第だ」
「聞かせてくれ」
「銀行が扱ってるのは――人間を隠すことだけじゃない、って話だ」
「どういうことだ」
坂本は声を、さらに低くした。
「誰かが消えると、その人間がいた場所に、空白ができるだろう。仕事、住まい、信用、人間関係……その空白を、別の誰かが埋める。そういう仕組みが、銀行の裏にはあるって噂だ」
高城は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
「つまり――」
「人間の人生そのものが、銀行を通じて、別の人間に渡っていく。俺が聞いたのは、そういう話だ」
坂本の声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
「あんた、もう引き返せる場所にいないと思うぞ」
高城は、手の中のリストをもう一度見つめた。
C-007。無期限。保留。
その番号のどこかに、二十六年前に消えた、あの少女の記録が紛れているかもしれない――そんな予感が、初めて高城の中で明確な形を取り始めていた。




