第二部 銀行
「銀行」という言葉を、高城は最初、都市伝説の一種だと思っていた。
裏社会には、その手の噂話がいくらでも転がっている。地下格闘技、臓器売買、記憶を消す薬――どれも実際に調べてみれば、実体のない噂か、せいぜい小規模な詐欺の温床でしかないことがほとんどだった。だから高城は、古い伝手を辿りながらも、半分は徒労を覚悟していた。
だが、聞き込みを重ねるうちに、様子が違うことに気づき始めた。
裏社会の人間たちは、「銀行」という言葉に対して、一様に口を閉ざす。それも、知らないから話さないのではなく、明らかに知っていて、それでも話さない態度だった。高城が長年つきあってきた情報屋の一人は、電話口でその言葉を口にした瞬間、それまでの軽口をぴたりと止め、こう言った。
「その名前を、俺の前で二度と言うな」
そして電話は切れた。
高城はその夜、行きつけの小さな酒場で、旧知の新聞記者と会った。事件記者を三十年やっている男で、表に出ない噂話を拾い集めることにかけては、警察よりも詳しいこともある。
「銀行、ね」
記者はグラスを傾けながら、しばらく考え込んだ。
「都市伝説としては、俺も昔から聞いたことがある。人間を、金みたいに預ける組織があるって話」
「実在すると思うか」
「わからない。ただ――」記者はグラスを置いた。「妙なんだよ。過去三十年の失踪事件を洗い直したことがあるんだが、ある共通点に気づいた」
「共通点?」
「失踪者の一定数が、決まって半年後に戻ってきてるんだ。しかも、戻ってきた後、みんな口を揃えて、失踪していた期間について話そうとしない」
高城の中で、何かが繋がる音がした。
二
高城は、過去の失踪事件のデータベースを洗い直すことにした。警察を辞めて十八年経つが、まだ何人か、当時の伝手が残っている。元同僚の一人に頼み込み、過去三十年分の失踪事件の記録――正確には「発見された失踪事件」の記録を、こっそりと閲覧させてもらった。
結果は、記者の言葉を裏付けるものだった。
失踪して半年前後で発見された事件の多くに、共通する特徴があった。発見時、本人に外傷はほとんどない。健康状態も良好。にもかかわらず、失踪していた期間の記憶について、本人はほとんど何も語らない。「覚えていない」「思い出したくない」「もう終わったことだから」――理由はさまざまだが、口を閉ざす、という結果だけは共通していた。
そして、その多くが、警察の捜査線上から完全に姿を消していた時期があった。まるで、捜索網の外側に、あらかじめ移されていたかのように。
高城は、この共通点を持つ事件の一つを選び、当事者に直接会いに行くことにした。
三
女性の名は、仮に「E」としておく。本名を出すことを、彼女自身が拒んだからだ。
高城が会いに行ったのは、郊外の小さなカフェだった。三十代後半に見える女性は、静かにコーヒーを頼み、しばらく高城の顔を見つめてから、ようやく口を開いた。
「あなたが調べているのは、たぶん、私が知っていることと同じだと思います」
「教えていただけますか」
女性は、まず自分の過去を語り始めた。かつて彼女は、ある人物から長期間にわたる暴力を受けていたという。警察に相談しても、法的な保護には限界があった。加害者は執拗に彼女の居場所を突き止め続け、彼女は文字通り、逃げ場を失っていた。
「そんなとき、ある人が教えてくれたんです。『あなたを、半年だけ、社会から消せる場所がある』って」
「それが、銀行、ですか」
女性は小さく頷いた。
「私は逃げたんじゃありません。預けたんです」
その言い方に、高城は違和感を覚えた。逃げると預けるは、意味合いが違う。逃げるのは自分の意志と行動そのものだが、預けるという言葉には、自分の存在を、一時的に自分の手から離すという含意がある。
「銀行に、何をされたんですか」
「詳しいことは話せません。契約で決まっているので」
「契約?」
「はい。預けるときに、契約書のようなものを交わします。期間、条件、そして――話さないこと」
「なぜ、自分自身を、そこに預けようと思ったんですか」
女性はしばらく沈黙した。窓の外を見つめ、それから静かに答えた。
「他に、方法がなかったからです。あの生活のまま存在し続けていたら、私はいずれ死んでいたと思います。名前も、住所も、顔も、すべてを一度、誰にも見つからない場所に置いてくること。それだけが、私にとっての生き延び方でした」
「今の生活は」
「幸せです。名前も変わりました。もう、誰にも見つかりません」
彼女は初めて、微笑んだ。
「だから、私にとって銀行は――救いでした」
四
高城はその足で、事務所に戻り、女性から聞いた話をノートにまとめた。銀行という組織の輪郭が、少しずつ像を結び始めていた。
金融機関のような契約書。期間の設定。守秘義務。そして「預け入れ」という独特の言葉遣い。まるで本物の銀行が、金の代わりに人間そのものを扱っているかのような、奇妙に整然としたシステム。
だが、女性の証言だけでは、まだ全体像は見えてこない。彼女にとって銀行は救いだった。だが、宮村篤志のケースはどうだろうか。妹に「半年だけ」と言い残して消えた男。彼は誰かから逃げるために、自らの意志で銀行に預けられたのか。それとも――。
高城は、寺内の言葉を思い出していた。
「その人は死んだんじゃない。預けられただけだ」
寺内は、宮村篤志が自分の意志で預けられたとは、一言も言っていなかった。
高城はノートに、一つの疑問を書き留めた。
預けるのは、常に本人の意志なのか。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いていた。高城は、次に訪ねるべき場所――もっと深く、銀行の内部構造そのものに近づくための手がかりを探し始めた。
まだこの時点では、その手がかりが、番号だけが並ぶ一枚の「顧客名簿」という形で自分の手元に転がり込んでくることを、高城は知らない。




