第一部 預けられた男
雨の匂いがする日は、決まって古い記憶が戻ってくる。
高城恒一は、駅から歩いて十二分の雑居ビル、その三階にある小さな事務所で、コーヒーの残りが冷めていくのも構わずに、窓の外を眺めていた。空はまだ降り出してはいない。だが灰色の重みが、街全体に蓋をするように垂れ込めている。
事務所のドアには「高城調査事務所」とだけ書かれた曇りガラス。開業して十八年になるが、看板を大きくしようと思ったことは一度もない。派手にする必要のない仕事だった。訪ねてくる人間は皆、静かに、人目を避けるようにしてやってくる。
高城恒一、五十二歳。
警察官だった年月より、辞めてからの年月のほうが、もうとうに長くなっていた。所轄の刑事課で九年働き、それから――ある事件をきっかけに、警察を辞めた。
警察を辞めてからの八年間、高城は定職に就かなかった。探偵事務所の見習いのような仕事を転々とし、時には工事現場の警備員として日銭を稼ぎながら、失踪事件に関する独学の知識だけを、静かに蓄え続けていた。誰かに頼まれたわけでもない。ただ、紗季を見つけられなかった自分に、他に何ができるのかが、わからなかっただけだ。
三十四歳のとき、知人の紹介で請け負った、ある家出人捜索の仕事がきっかけとなり、高城は「高城調査事務所」の看板を掲げた。それから、もう十八年になる。
デスクの引き出しの一番奥に、色褪せた一枚の新聞の切り抜きが眠っている。高城はもう何百回も読み返して、文面をそらんじられるほどになっていた。それでも時々、こうして手に取ってしまう。
《市内の高校一年生・少女、下校途中に消える》
三崎紗季。当時十六歳。
失踪から、二十六年。
彼女はまだ、見つかっていない。
二
ノックの音がしたのは、その日の午後三時を少し過ぎた頃だった。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、三十代半ばに見える女性だった。仕立てのいいベージュのコートを着ているが、その下から覗く手は、指輪を絶えず回している。緊張している人間特有の癖だ、と高城は無意識のうちに観察していた。長年の刑事としての癖は、辞めた後もそう簡単には消えない。
「あの……こちらで、人を探していただけると聞いて」
「どうぞ、おかけください」
女性は名を宮村由紀と名乗った。年齢は三十六歳。都内でアパレル関係の仕事をしているという。
「兄を探してほしいんです」
「お兄さんが、いなくなったと」
「はい。三週間前から、連絡が取れません」
高城はノートを開いた。「お兄さんのお名前は」
「宮村篤志です。三十九歳です」
「警察には相談されましたか」
「しました。でも……『成人男性の自発的失踪の可能性が高い』と言われて、それ以上は動いてくれませんでした」
無理もない、と高城は思う。この国では、大人が自分の意思で姿を消すことは犯罪ではない。借金でも、家庭の事情でも、単なる人間関係の疲弊でも――理由が何であれ、警察が本腰を入れて捜索するのは、事件性が疑われる場合に限られる。だからこそ、こうして高城のような人間のところに、行き場を失った依頼が流れ着く。
「失踪される前に、何か変わった様子はありましたか」
由紀は、しばらく黙っていた。指輪を回す指の動きが、いっそう速くなる。
「一つだけ、気になっていることがあるんです」
「聞かせてください」
「兄は、いなくなる三日前に、私にこう言ったんです。『半年だけ、俺はいなくなる』って」
高城のペンが、ノートの上でわずかに止まった。
「――半年だけ、と」
「はい。冗談だと思っていました。でも本当に、それきり連絡が取れなくなって」
「その言い方に、心当たりは」
「まったくありません。だから怖いんです。まるで、自分がどこかに――決まった期間だけ、預けられることを知っていたみたいな言い方で」
預けられる。
由紀自身は何気なく口にした言葉だったが、高城の中では、その一語だけが妙な質感を持って残った。
「会社は辞められているんですね」
「はい。失踪の一週間前に、突然辞表を出しています。上司も驚いていました。真面目に働いていた人だったので」
「携帯電話は」
「新しい番号に変えていて、古いスマートフォンは自分の部屋に置いたままでした。中身はすべて初期化されていて」
計画的な失踪。高城は静かにそう記録した。だが「半年だけ」という期限つきの言葉が、単なる衝動的な蒸発とは違う何かを示唆していた。
「お兄さんが、最近親しくしていた人物に心当たりは」
由紀はまた少し黙り、それから絞り出すように言った。
「一人だけ、思い当たる人がいます。最近、兄がよく会っていた人で……名前は、寺内、だったと思います。兄の部屋の郵便物に、その名前の名刺が残されていました」
高城はその名刺の写真を受け取った。「生活再建コンサルタント 寺内」と印字されている。住所は繁華街の外れ、雑居ビルの地下一階。
「調べてみます」
「見つかりますか、兄」
「まだわかりません。ただ――」高城は名刺を見つめたまま言った。「調べる価値のある違和感が、今の話の中に一つありました」
三
寺内という男の事務所は、名刺の住所どおり、繁華街の外れにあるビルの地下にあった。金融相談の看板を出しているが、その看板の下に漂う空気は、高城には馴染み深いものだった。表社会と裏社会、どちらの言葉も使いこなし、どちらの側にも完全には属さない人間特有の目つき。
「宮村さんね。ああ、知ってますよ」
寺内は最初、高城を訝しむように見た。四十歳前後、灰色のスーツに、指先だけが妙に神経質に動く男だった。高城が元警察官であることを、あえて隠さずに匂わせると、寺内の態度がわずかに変わった。恐れではない。品定めするような視線だった。
「今、宮村さんはどこに」
「さあね。俺はただ、紹介しただけの人間だから」
「紹介、というと」
寺内は煙草を取り出し、火をつけた。しばらく黙って煙を吐き出してから、ようやく口を開いた。
「人生に行き詰まった人間に、逃げ場を紹介する仕事――とでも言っておこうか」
「宮村さんは、死んだのか」
質問というより、確認だった。寺内は意外そうに眉を上げ、それから低く笑った。
「死んだ? まさか。あの人は死んじゃいないよ」
「じゃあ、どこに」
寺内はしばらく沈黙した。灰皿に灰を落としながら、視線を宙にさまよわせる。それから、独り言のように、ぽつりと漏らした。
「――預けられただけだ」
「預けられた?」
「そう。それだけだ。それ以上は、俺の口からは言えない」
「誰に預けられた」
寺内は答えなかった。灰皿に煙草を押しつけて消しながら、初めて高城の目をまっすぐに見た。
「あんたも、探偵なんだろう。だったら、そのうち嫌でも耳にするさ」
「何を」
「――『銀行』の話をな」
その言葉を最後に、寺内はそれ以上何も語ろうとしなかった。何を聞いても「知らない」「俺には関係ない」と繰り返すだけで、やがて高城を追い返すように立ち上がった。
四
その夜、事務所に戻った高城は、しばらくデスクの前から動けずにいた。
「預けられた」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。人間を、預ける。まるで金か、貴重品のように。
これまで高城が追ってきた失踪者たちは、皆、それぞれの理由で自分の足で姿を消していた。借金から逃げる者。暴力から逃げる者。犯罪の証人になることを恐れる者。理由はさまざまでも、それは「逃亡」であり「失踪」であって、誰かに「預けられる」ようなものではなかったはずだ。
だが寺内の口ぶりには、迷いがなかった。まるでその言葉が、業界内では当然のように流通している符牒であるかのように、ごく自然に口をついて出ていた。
高城は引き出しを開け、あの新聞の切り抜きを取り出した。
三崎紗季。
二十六年前、この街で消えた少女。
自分が刑事として、最後まで見つけられなかった、たった一人の少女。
彼女の事件のとき、周囲の誰もが「自発的な家出」を疑った。だが高城だけは、最後までそれを信じられなかった。少女の部屋には、荷物一つ持ち出された形跡がなかった。友人関係も、家庭環境も、家出をするような要因は見当たらなかった。
――「半年だけ、俺はいなくなる」
宮村篤志が妹に残したという言葉が、なぜか二十六年前のあの少女の記憶と、静かに重なって聞こえた。理由はまだわからない。二つの事件のあいだに、直接のつながりがあるとは思えない。
それでも高城の中で、長いあいだ錆びついていた何かが、久しぶりに軋みながら動き出していた。
窓の外では、とうとう雨が降り始めていた。
高城はコートを羽織り、もう一度事務所を出た。今度は、寺内にではなく、街の中に散らばる、もっと古い伝手を頼るために。
「銀行」――その言葉の正体を、確かめなければならなかった。
このときの高城は、まだ知らない。
その先に待っているのが、単なる裏社会の隠語などではなく、自分自身の二十六年間そのものに触れる何かであることを。




