第十七部 追跡者
隠れ家に着いたのは、日付が変わる直前のことだった。
廃業した旅館は、山の斜面に沿って建てられており、正面からは一本道でしか近づけない造りになっていた。高城がこの場所を選んだのは、その地理的な条件によるものだった。誰かが近づけば、必ず一本道を通らなければならない。
篤志を奥の部屋に落ち着かせた後、高城は玄関脇の畳部屋に腰を下ろし、外の様子に神経を張り巡らせた。眠るつもりはなかった。
「あなたも、休んでください」
篤志が、部屋の襖越しに声をかけてきた。
「心配いりません。慣れています」
高城は、そう答えながら、内心では、二十六年前の記憶を静かに反芻していた。あのときも、こうして夜通し、少女の行方を案じながら、事務所で過ごした夜が何度もあった。だが今は、探すのではなく、守る番だった。
二
夜が明ける頃、高城のスマートフォンに、記者から短いメッセージが届いた。
「動きがある。今日中に、こちらに来られるか」
高城は、篤志を隠れ家に残したまま、単独で市内へと戻ることにした。篤志には、旅館の裏手に隠しておいた自転車と、緊急時の連絡手段を渡し、決して外には出ないよう、強く言い含めた。
市内に戻る道すがら、高城は、車のバックミラーを何度も確認した。尾行されている様子はない。だが、長年の刑事としての勘が、どこかで警鐘を鳴らし続けていた。
記者と落ち合ったのは、以前とは違う、別の喫茶店だった。
「宮村さんの持っていた資料、専門家に見てもらった」記者は、真剣な表情で言った。「本物だ。用地買収に関わる不正な支払いの記録が、複数、裏付けと共に残っている。振込先の一つが、あの政治家の関係会社の口座と一致した」
「これで、動けるのか」
「動ける。ただ、向こうも、もう感づいているはずだ。昨日の夜、うちの社に、妙な問い合わせがあった。『最近、宮村という人物についての取材をしているか』とな」
高城の背筋が、冷たくなった。
「誰からの問い合わせだ」
「名乗らなかった。だが、聞き方が、明らかに探りを入れるものだった。おそらく、向こうは、宮村がすでに保護されていることを、察知し始めている」
三
高城は、隠れ家へと急いで引き返した。
一本道に差し掛かったとき、高城は違和感に気づいた。道の脇に、見慣れない黒いセダンが、エンジンを切った状態で停まっていた。
高城は、車を旅館の手前で止め、徒歩で慎重に近づいた。旅館の敷地に、争った形跡はない。だが、玄関の引き戸が、わずかに開いたままになっていた。
「宮村さん」
声をかけても、返事はなかった。
高城は、奥の部屋へと急いだ。篤志の姿は、そこになかった。
畳の上に、篤志が持っていたはずの鞄が、投げ出されたように残されていた。中身は空だった。証拠となる資料――そのすべてが、消えていた。
高城は、その場に立ち尽くした。
守ると誓った。だが、また、間に合わなかったのか。
四
高城が旅館の周囲を調べていると、裏手の茂みの奥から、かすかな物音がした。
自転車が、木の陰に隠すように倒されている。高城が篤志に渡した、緊急時のための一台だった。
「宮村さん!」
声を張り上げると、少し離れた雑木林の中から、篤志の弱々しい声が返ってきた。
「――こっちです」
高城が駆けつけると、篤志は、木の根元にうずくまるようにして、身を潜めていた。腕に、擦り傷がある。だが、それ以外に大きな怪我はないようだった。
「何があったんですか」
「男が二人、来ました。あなたが出て行ってすぐのことです。玄関を突破されて……とっさに、裏から逃げました」
「資料は」
篤志は、力なく首を振った。
「奪われました。抵抗しようとしましたが、多勢に無勢で……申し訳ありません」
高城は、拳を握りしめた。だが、篤志を責める言葉は、一つも浮かばなかった。
「あなたが無事なだけで、十分です」
五
高城は、篤志を伴い、旅館を離れることにした。もはや、この場所は安全ではない。
車を走らせながら、高城は記者に電話をかけた。
「資料が奪われた。だが、宮村さんは無事だ」
電話の向こうで、記者は、しばらく黙り込んだ後、こう言った。
「原本は失われても、専門家がすでに分析を終えている。写しも、うちの社の金庫に保管してある。証言としての宮村さん本人の話も、まだ生きている」
「それだけで、足りるのか」
「完全な勝利にはならないかもしれない。だが、記事にはできる。そして、記事が出れば、検察も動かざるを得なくなる」
高城は、ハンドルを握る手に、力を込めた。
「頼む」
「ああ。ただ――高城、お前も宮村さんも、これからはもっと危険になる。証拠を奪った以上、向こうは、口を封じにかかる可能性がある」
電話を切った後、高城は、助手席に座る篤志の横顔を見た。疲労と恐怖の色が、まだ濃く残っている。
「大丈夫ですか」
篤志は、弱々しく頷いた。
「怖いです。正直、逃げ出したい気持ちもあります。でも――」
篤志は、窓の外を見つめながら、続けた。
「祖父の無念を思うと、ここでやめるわけにはいかない気がするんです」
高城は、その言葉に、二十六年前の自分自身の姿を、重ねずにはいられなかった。
見つけられなかった少女への償いを、この二十六年間、抱え続けてきた自分自身の姿を。
「大丈夫です」高城は、静かに言った。「今度は、俺が最後まで守ります」
車は、雨上がりの街道を、次の隠れ場所へと向かって走り続けた。
そして高城の脳裏には、一つの確信が、はっきりと形を成しつつあった。
この事件を終わらせるためには、もはや、証拠だけでは足りない。
あの政治家自身に、直接、対峙する必要がある。




