第十六部 三日間
------------------------- エピソード16開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
第十六部 三日間
【本文】
女と別れた翌朝、高城は真っ先に、あの新聞記者に連絡を取った。
行きつけの酒場ではなく、あえて記者の自宅近くの喫茶店を指定した。用心のためだった。誰かに見られている、あるいは聞かれているという確証はまだない。だが、これまでの調査で見えてきた「向こう側」の周到さを思えば、迂闊な行動は取れなかった。
「随分と、深いところまで行ったみたいだな」
高城が語る内容を聞き終えた記者は、しばらく黙り込んでから、そう呟いた。
「証拠は、まだ本人の手の中にあるはずだ。宮村篤志という男が、それを持っている」
「本物だと、確認は取れているのか」
「まだだ。だが、これまでの調査の符合を考えれば、まず間違いない」
記者は、コーヒーを一口飲んでから、真剣な目で高城を見た。
「もし本物なら、これは、うちの社だけで抱えられる話じゃない。他の全国紙、あるいは検察にも、同時に情報を渡す必要がある。中途半端に一社だけで持てば、握りつぶされる危険がある」
「時間は」
「三日じゃ、そこまでの態勢は組めない。だが――」記者は、手帳を開いた。「最低限、複数の記者に、事前に情報を共有しておくことはできる。宮村という男が無事に保護された時点で、一斉に動けるように」
「頼めるか」
「ああ。だが高城、お前も覚悟しておけ。この規模の話になれば、お前自身の身元も、遅かれ早かれ表に出る。今の穏やかな生活が、続けられるとは限らない」
高城は、静かに頷いた。
「二十六年間、俺はずっと、あの少女を見つけられなかった過去を、抱えて生きてきた。今更、平穏な生活に未練はない」
二
宮村由紀への報告は、慎重な言葉を選んだ。
「お兄さんは、生きています。そして、近いうちに、無事にお会いできる可能性が高い」
由紀は、その言葉を聞いた瞬間、崩れ落ちるように泣き出した。
「本当、ですか」
「まだ確実とは言えません。ですが、私は全力を尽くします」
「兄は、どうして――」
「詳しいことは、お兄さん自身の口から聞いてください。ただ一つだけ、今、お伝えできることがあります」
高城は、由紀の目をまっすぐに見た。
「お兄さんは、誰かから逃げていたのではありません。誰かのために、闘おうとしていたんです」
由紀は、その言葉の意味を、すぐには理解できないようだった。だが高城は、それ以上の説明を、あえてしなかった。すべては、篤志本人が、自分の言葉で語るべきことだった。
三
三日間、高城は、篤志を保護するための準備に費やした。
安全な場所の確保――これまでの調査で使ってきた事務所は、すでに寺内を通じて、向こう側に把握されている可能性が高かった。高城は、旧知の伝手を頼り、市外れにある、廃業した旅館の一室を、一時的な隠れ家として確保した。
さらに、記者から紹介された、信頼できる弁護士にも接触した。証拠となる資料を、法的に正しい手続きで保全し、告発の実効性を高めるための準備だった。
一つ一つの手配を進めながら、高城の頭の中には、常に一つの疑問が渦巻いていた。
三崎紗季のときには、間に合わなかった。
なぜ、今度は違うと思えるのか。
答えは、単純だった。あのときの高城は、事件の全体像を、何一つ知らなかった。だが今の高城は、この二十六年間、闇に隠され続けてきた構造の輪郭を、確かにつかんでいる。
知ることは、力になる。
その確信だけが、高城を支えていた。
四
三日目の夜、約束の時間に、高城は再び工場跡地へと向かった。
雨が降っていた。あの日、寺内の事務所を初めて訪れた日も、こんな雨だった。
工場跡地に着くと、そこには、これまでとは違う緊張感が漂っていた。女の姿が見当たらない。高城は、暗がりの中で、周囲に目を凝らした。
やがて、一台の古びたワンボックスカーが、音もなくヘッドライトを消したまま、敷地内に滑り込んできた。
車から降りてきたのは、女ではなかった。見知らぬ男が二人。その背後から、痩せた男が一人、よろめきながら降りてきた。
高城は、その顔を見た瞬間、確信した。
宮村篤志だった。
「宮村さん」
高城が声をかけると、篤志は、疲れきった表情のまま、高城を見つめた。
「――あなたが、妹の依頼した調査員ですか」
「そうです。高城といいます。ここまでは、無事に」
「はい。ですが……」篤志は、後ろを振り返った。「向こうも、もう気づいています。今夜のうちに、この場所を離れないと」
見知らぬ男の一人が、高城に近づき、短く告げた。
「女からの伝言です。『時間がない。ここから先は、二人で』」
そう言うと、二人の男は、ワンボックスカーに乗り込み、瞬く間に姿を消した。
五
工場跡地に残されたのは、高城と篤志の二人だけだった。
「行きましょう」
高城は、篤志を促し、あらかじめ用意していた自分の車へと向かった。走り出した車の中で、篤志は、ようやく落ち着いた声で語り始めた。
「あの資料を見つけたとき、正直、怖くなりました。でも、見なかったことにはできなかった」
「なぜ、公表しようとしたんですか」
篤志は、しばらく窓の外を見つめてから、静かに答えた。
「祖父が、あの再開発計画の被害者だったんです。土地を、不当に安く買い叩かれた地権者の一人でした。祖父は最後まで、その悔しさを、忘れずにいました」
「それで――」
「自分の手元に、その証拠があると気づいたとき、これは、祖父の無念を晴らすためだけじゃない、もっと大きな話なんだと、直感しました。だから、逃げるんじゃなく、闘う方法を探したんです」
高城は、ハンドルを握りながら、その言葉を静かに受け止めた。
宮村篤志と三崎紗季。二人は、まったく異なる形で、同じ「銀行」という仕組みに触れていた。片方は、闘うための時間を稼ぐために。もう片方は、命を守るために。
そして、その両方の根っこに、二十六年前から続く、同じ闇があった。
「これから、どうなるんですか」高城の車が、隠れ家へと向かう道を走りながら、篤志が尋ねた。
「あなたが持っている証拠を、正しい形で世に出す準備を進めています。数日のうちに、複数の記者が動きます」
「危険は」
「あります。だからこそ、私が、あなたを守ります」
高城は、バックミラーに映る、遠ざかっていく工場跡地の灯りを、一瞬だけ見つめた。
雨は、まだ降り続いていた。
だが高城の中には、これまでにない確かな手応えが、静かに広がっていた。
三崎紗季を救うことは、できなかった。
だが、宮村篤志は――今度こそ、守り抜く。
その決意を胸に、高城は、隠れ家へと続く夜の道を、車のヘッドライトで照らしながら、走り続けた。




