第十五部 再評価
工場跡地の女に接触する手段は、限られていた。高城が持っているのは、以前の連絡に使った、ある転送用のメッセージ経路だけだった。
高城は、これまでのように悠長な言葉は選ばなかった。
「宮村篤志の、C-007としての再評価を止めてほしい。彼は証人であって、消される理由のある人間ではない」
短いメッセージを送り、返信を待った。
返事は、翌日の深夜に届いた。今度は座標ではなく、一つの短い文面だった。
「あなたには止められません。あなたが今から知ろうとしていることは、私たちの領分をも超えています。それでも会う必要があるなら、明日の夜、同じ場所に」
二
翌夜、工場跡地に現れた女は、以前よりも硬い表情をしていた。
「宮村篤志の再評価について、話を聞かせてください」
高城が切り出すと、女は、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「あなたの想像通りです。宮村さんが持っていた資料は、ある人物にとって、致命的な意味を持ちます」
「その人物とは」
「県政に大きな影響力を持つ、現職の重鎮です。二十六年前、まだ若手議員だった頃、その再開発計画に深く関わっていました」
「三崎恒之さんを脅した男は、その人物の指示で動いていたのか」
女は、小さく頷いた。
「当時から、その人物は、自分の政治生命に関わる不正を、あらゆる手段で隠蔽してきました。三崎紗季さんの件も、桐山という刑事を使った情報操作も、すべて、その人脈の中で行われたことです」
高城は、拳を握りしめた。二十六年という歳月を経てなお、同じ人間が、同じ手段で、同じ罪を隠し続けている。
「宮村さんを、助けることはできないんですか」
女は、しばらく高城を見つめた。
「銀行の運営は、今、一枚岩ではありません。苑田さんが作った当初の理念を、まだ守ろうとする人間と、それを利益のための道具として使い続けたい人間とのあいだで、内部の対立が、静かに続いています」
「あなたは、どちら側なんですか」
女は、初めて、はっきりとした表情を見せた。
「私は、苑田さんの理念の側です。だからこそ、あなたにここまで話してきました」
三
「もし、あなたの側が、宮村さんを保留から救い出そうとすれば、どうなりますか」
高城の問いに、女は、重い口を開いた。
「内部の対立が、表面化することになります。今の銀行の運営を実質的に握っているのは、利益を優先する側です。私たちの側が動けば、報復として、私たち自身が『処理』される危険がある」
「それでも、動いてくれますか」
女は、長い沈黙の後、静かに頷いた。
「宮村さんの資料が持つ意味の大きさを考えれば、これは、動く価値のあることです。ただ――」
「ただ?」
「私たちだけでは、力が足りません。銀行の内部から、宮村さんを『保留』のまま外に出すことはできても、それだけでは、彼の安全は保証できない。彼を保護し続ける、外部の力が必要です」
高城は、その言葉の意味を理解した。
「私が、その役目を担う、ということですね」
「はい。そして――もう一つ」
女は、高城をまっすぐに見た。
「宮村さんが持つ証拠を、正しい形で公にする必要があります。中途半端な形で表に出せば、握りつぶされて終わりです。確実に、その政治家を追い詰めるだけの、周到な準備が必要です」
四
高城は、この夜、自分がこれまで単独で進めてきた調査を、初めて誰かと共有する必要性を感じていた。
かつての新聞記者――第二部で会った、あの旧知の男の顔が浮かんだ。事件記者を三十年続けてきた彼なら、この情報を、正しい形で世に出すための、確かな判断力を持っているはずだった。
「三日後、同じ時間に、宮村さんの身柄を、この場所の近くまで運びます」女は言った。「そこから先は、あなたの責任で守ってください」
「わかった」
「一つ、警告しておきます」女は、去り際に振り返った。「この動きは、必ず向こう側に察知されます。あなた自身にも、危険が及ぶことを、覚悟してください」
「これまでも、覚悟の上で調べてきた」
女は、かすかに笑ったように見えた。
「二十六年前も、あなたはそう言って、事件を追っていたんでしょうね」
その言葉に、高城は何も返せなかった。
女の姿が、暗闇の中に消えていく。
高城は、その場にしばらく立ち尽くした後、コートの内側から、あの記録カードのコピーを取り出した。
三崎紗季。返却済。
そして今、彼の手の中には、もう一つの名前がある。
宮村篤志。保留、から救い出されようとしている男。
二十六年前には、間に合わなかった。
だが今度こそ――。
高城は、雨の匂いのする夜の中で、静かに拳を握りしめた。
三日後の夜に向けて、動き出さなければならない。
新聞記者への連絡。宮村由紀への報告。そして、篤志を保護するための、安全な場所の確保。
やるべきことは、山積していた。だが高城の中には、これまでの調査人生の中で、久しく感じたことのなかった、一つの感情があった。
まだ、間に合うかもしれない。
その小さな希望が、高城の足取りを、事務所へと急がせていた。




