第十一部 間違った捜査
二十六年前の捜査資料を、高城はもう一度、最初から読み返すことにした。
当時、若手刑事だった高城は、この事件の主任ではなかった。捜査の中心にいたのは、当時の上司――桐山という名の、ベテラン刑事だった。高城は、桐山の指示のもと、聞き込みや現場検証といった、地道な作業を担当していた。
事件発生から数日間、捜査は迅速に進められていた。目撃情報の収集、周辺の防犯カメラの確認、紗季の交友関係の洗い出し――当時の技術と体制の中では、できる限りの捜査が尽くされていたはずだった。
だが、捜査は初動から一週間ほど経った頃から、奇妙に停滞し始めていた。
高城は当時の捜査日誌を読み返しながら、記憶の中に眠っていた違和感を、少しずつ掘り起こしていった。
二
「桐山さん、これ以上の聞き込みは、必要ないと思います」
当時、上司からそう告げられたことを、高城はぼんやりと思い出した。まだ捜査が終わっていない段階での、その言葉に、若手だった高城は違和感を覚えながらも、上司の判断に従わざるを得なかった。
「なぜ、そう思われたんですか」
当時、高城はそう尋ねた記憶がある。桐山の答えは、こうだった。
「上からの指示だ。これ以上、この地域を掘り返すな、と」
「上、というのは」
「それは、お前が気にすることじゃない」
当時の高城は、その言葉を、単なる組織内の政治的な配慮――再開発計画に関わる地元有力者への配慮のようなものだと解釈していた。だが今、あらためて振り返れば、その解釈自体が、あまりに浅かったことに気づかされる。
高城は、当時の捜査資料の中から、桐山が受けたという「上からの指示」の出所を、可能な限り辿り直そうとした。だが、当時の記録には、そうした指示の存在を示す公式な文書は、一切残されていなかった。
記録に残らない指示。
それは、正規の指揮系統を通じたものではなかった、ということだ。
三
高城は、当時の同僚たちに、あらためて連絡を取った。多くはすでに退職し、あるいは他界していたが、数人とは、まだ連絡が取れた。
その中の一人、当時、鑑識課に所属していた元同僚は、高城にこう語った。
「あの事件、途中から、妙に情報が漏れやすかった記憶がある」
「漏れやすかった、とは」
「捜査会議で決まった聞き込みの予定が、翌日には、なぜか対象者側に知られているようなことが、何度かあった。まるで、俺たちの動きが、先読みされているみたいにな」
高城の背筋に、冷たいものが走った。
「誰かが、内部から情報を流していた、ということですか」
「わからない。ただ、あのときは、単に情報管理が甘かっただけだと、皆、思っていた。今にして思えば……妙な符合だな」
高城は、この証言を、これまでの調査結果と重ね合わせた。銀行が、証人となった人間を「消す」際に、対象者の動向を事前に把握し、警察の捜索網より先回りして移動させるという手口を使っていたことは、すでに他の事例からも見えてきていた。
もし、この事件においても、同じ手口が使われていたのだとすれば――警察の捜査情報そのものが、銀行側に流れていた可能性がある。
四
高城は、震える手で、当時の捜査記録の中から、紗季の目撃情報に関する記述を、もう一度洗い直した。
事件発生から三日目、ある目撃者から、紗季らしき少女が、市の北部にあるバスターミナルで目撃されたという情報が寄せられていた。当時、捜査本部はこの情報をもとに、北部一帯を中心に、集中的な捜索を展開した。
だが、結果は空振りに終わった。
高城は今、あらためてこの目撃情報の信憑性を検討し直した。もし、この目撃情報自体が、捜査を誤った方向に誘導するために、意図的に流された偽情報だったとしたら。
つまり――紗季は、警察が捜索していた北部ではなく、まったく別の場所に、すでに移されていたのではないか。
高城は、坂本のリストにあった記録カードの日付を、もう一度思い出した。
預入日は、事件発生の翌日。
もし、この日付が正確なら、紗季は事件発生から二十四時間以内に、すでに警察の捜索網の外側――銀行の管理下に、完全に移されていたことになる。
その後の、数ヶ月にわたる懸命な捜索は――最初から、的外れな場所を捜し続けていたということになる。
五
高城は、当時の自分自身と、当時の同僚たちの努力を思い返し、複雑な感情に襲われた。
自分たちの捜査が、無能だったわけではない。手を抜いたわけでもない。誰もが、懸命に、紗季を見つけ出そうとしていた。
だが、その懸命な努力そのものが、最初から、誰かによって出し抜かれていた。
俺たちは、失敗したんじゃない。
最初から、負けるように仕組まれていたんだ。
高城は、当時の上司・桐山の存在を、あらためて意識せざるを得なかった。桐山は、今どこにいるのか。彼が受けたという「上からの指示」の出所は、いったい誰だったのか。
高城は、桐山の消息を調べ始めた。だが、調べを進めるうちに、思いがけない事実にたどり着いた。
桐山は、事件から五年後、すでにこの世を去っていた。死因は、病死と記録されている。
高城は、その死の真相にまで疑いの目を向けるべきかどうか、しばらく迷った。だが今は、それを確かめる術がなかった。
わかっているのは、ただ一つ。
二十六年前、この街のどこかで、警察の捜査能力をはるかに上回る、周到な力が働いていた、という事実だけだった。
その力の中心にいたのは、誰だったのか。
そして、少女は――今、いったいどこにいるのか。
高城は、次に踏み出すべき一歩を、静かに定めていた。
紗季自身を、見つけ出すこと。
それが、この長い調査の、最後の、そして最も困難な段階になることを、高城は覚悟していた。




