第九話 勇者くん、聖女様に褒められて嬉しそうだね?
俺は勇者だ。褒められることは、まあ、たまにある。
例えば、魔物を倒した時。落とし物を拾った時。子どもを助けた時。壊れた荷車を押した時。
ただし、隣にミゼルがいる時の褒め言葉は、命に関わる可能性がある。
主に俺の。
◇
教会からの依頼は、聖遺物の点検だった。
アステルベル大聖堂の奥にある『慈愛の聖環』。昔、災害や魔物の襲撃から人々を守るために使われた結界具らしい。
それが最近、誰も触れていないのに淡く光ることがあるという。
迎えに出てきたのは、見覚えのある聖女だった。
以前、俺が呪いを受けた時、治療を申し出てくれた人だ。あの時はミゼルに戸をぴしゃりと閉められていた。
聖女はその件を根に持つでもなく、柔らかく頭を下げた。
「お久しぶりです、勇者様。リリアと申します。先日はきちんとお力になれず、申し訳ありませんでした」
「いや、あれは俺の呪いが特殊だっただけです。来てくれて助かりました」
リリアは、ほっとしたように微笑んだ。
「そう言っていただけると救われます。勇者様は、本当にお優しいのですね」
横で、空気が薄く凍った。やっぱりな、と思った。
礼拝堂の燭台の火が、心なしか少し細くなった気がする。
ミゼルが俺の袖を引いた。指先の動きは静かだが、握力の主張は静かではない。
「今、少し嬉しそうだったね。私が褒めても、全然そんな顔しないよね」
「お前の褒め方は、だいたい毒が混じるからな」
ミゼルは本気で心外そうな顔をした。
「例えば?」
「『生きてて偉い。普通なら死んでたよ』とか」
「褒めてるじゃん。生存を評価してる」
「発想が物騒なんだよ、それ」
ミゼルはリリアをちらりと見た。
リリアは事情を察して、困ったように笑っている。善人だ。こういう善人は、ミゼルの前ではだいたい苦労する。
「聖女様はいいよね。何を言っても綺麗に聞こえて」
「綺麗かどうかじゃなく、言い方とか実績の問題だ」
「じゃあ私も言い方を変える。勇者様は本当にお優しいのですね」
ミゼルはリリアの声色を真似た。似ていなかった。
底知れない何かを感じる。
「……」
「ほら。私が言うと怖いんだ」
「違う。お前はたぶん……声に殺気が混じるからだ」
「混ぜてないよ。勇者くんに警告してるだけ」
「余計悪いよ」
リリアが小さく咳払いした。
勇者パーティーが聖女に気を遣わせるとは。世界を救う前に、礼儀を救ったほうがいいかもしれない。
◇
聖遺物……慈愛の聖環は、礼拝堂の中央に置かれていた。
人の背丈ほどの銀の輪で、内側に古い聖句が刻まれている。近づくと、暖かいような、眩しいような魔力が肌を撫でた。
「善き者を守れ、という祈りが込められています」
リリアが説明した。
「災害や魔物の襲撃時、避難者を結界内に保護するためのものです」
「善き者だけを?」
「記録では、悪意ある者を外へ弾くとされています」
ミゼルが片眉を上げた。
「へえ。悪意、ね」
「お前、今ちょっと試そうとしただろ」
「してないよ。聖遺物の判定基準に興味があるだけ」
「目が勝負師のそれなんだよ」
その時、礼拝堂の端で、見習いの少年が花瓶を倒した。
たいした音ではなかった。
だが、聖環がそれに強く反応した。
銀の輪が白く発光する。
床を這った光が礼拝堂いっぱいに走り、次の瞬間、俺とリリア、それから祈りに来ていた子どもたち数人を囲んでいた。
息をする間もなく、光の壁が立ち上がる。
ミゼルは、その外側にいた。正確には、結界がミゼルだけを外へ弾いていた。
一瞬、礼拝堂が静まり返った。
ミゼルは自分の足元を見た。それから結界を見て、最後に俺を見た。
笑っていなかった。
怒っているというより、自分だけ俺と違う側に分けられたことが気に入らない顔だった。
「これは完全に閉じ込められてるな。……ミゼル以外」
「……私、弾かれたんだけど」
「落ち着け。たぶん悪意判定じゃない」
「今、悪意って言った?」
「言ってない。言ってるにしても、俺じゃなくて聖遺物のほうだ」
リリアが内側で子どもを抱き寄せた。場を落ち着かせる手つきが早い。
ミゼルは光の壁を見上げた。
「いい。あとで壊すから」
「聖遺物を私怨で壊すな」
結界の内側で子どもが泣き出した。
リリアがすぐに膝をつき、優しく背を撫でる。
俺は聖環へ近づこうとした。
輪の奥から光の鎖が伸び、床に突き刺さる。
同時に、礼拝堂を囲う光の壁が、わずかに内側へ動いた。
長椅子の端が壁に触れ、木材が軋んだ。
「結界が縮んでる?」
俺は剣を抜き、光の壁へ横向きに押し当てた。
重い。
ただの光ではない。巨大な岩壁に押されているような圧力だった。
「リリア、子どもたちを聖環から離してくれ。俺が支える」
「はい。ですが勇者様、その腕が」
聖環から伸びた鎖が、俺の前腕をかすめていた。薄く血が出ている。
リリアは反射的に俺の手を取った。淡い治癒の光が傷を包む。
「すみません。痛みますか」
「このくらいなら平気だ」
「それでも、誰より先に皆さんを庇われました。やはり勇者様は、お強くて、お優しい方です」
結界の外側の気温が三度下がった。
光の壁越しでもわかるのが怖い。
ミゼルが結界へ片手を当てていた。笑っている。目は笑っていない。
「聖女様。治療は必要なことだから、今は何も言わない。私も同じことをしただろうから。でも『お優しい』を二回言ったことは覚えたから」
「え、ええと……申し訳ありません?」
「謝らなくていいです。記憶してるだけなので」
「それが一番怖いんだよ」
◇
結界は、じわじわと狭まり続けていた。
俺が光の壁を押し返している間、ミゼルは外側からずっと聖環の文字を読んでいた。
さっきまで嫉妬で凍っていた顔が、だんだん魔女の顔になっていく。
こういう切り替えは本当に早い。
面倒だが、優秀なのだ。
「レオ、その聖環、説明にあったような善人を選んでるんじゃないよ。別の条件で駆動してる」
「じゃあ、何を選んでるんだ?」
「自分を、後回しにする人だと思う」
リリアが、はっと顔を上げた。
「古い聖句には、『己を捨てて隣人を守る者を囲え』とあります。でも、それは尊い献身を守るための祈りで――」
「おそらく、その聖句を選別の条件にしたんでしょうね。祈りとしては綺麗です。術式としては、雑すぎるけど」
ミゼルの声は冷静だった。
「この結界は、守る対象を聖環の近くへ集めるように作られてる。危険が強いほど、守る範囲を狭くして、壁を厚くする仕組み」
「外には何もいないぞ」
「中の人が怖がってる。誰かを守らなきゃって思ってる。それを聖環が『まだ危険がある』って受け取ってるの。恐怖の感情にすごく敏感」
ミゼルは光の壁を指先で叩いた。
結界が、まるで嫌がるように揺れた。
「守ろうとするほど壁が強くなって、壁が強くなるほど内側が狭くなる。狭くなれば、もっと誰かを守ろうとする」
「止まらないのか」
「中にいる人が、自分を後回しにするのをやめない限りはね」
俺は思わず聖環を見た。
俺も、リリアも、たぶん同じことを考えていた。
子どもたちを守る。怪我人を出さない。自分は後でいい。
その思いが全部、結界の巨大化につながっている。
「子どもたちは?」
「保護対象。結界からしたら、あなたと聖女様が巨大化の燃料ね」
「最悪だな」
「最悪だよ。善意だけで作った檻」
光の壁がさらに迫った。
剣を押し当てた俺の靴底が、床を削る。
押し返そうと力を込めるほど、聖環の光が強くなった。
「俺が支えてるのも駄目なのか」
「子どもたちのために、でしょ」
「ああ」
「じゃあ餌」
「善意だけで作った圧搾機だな」
「設計した人が生きてたら、一度説教したい。こんなことも想定できなかったのかと」
ミゼルは結界の表面へ爪先を近づけた。
光が彼女を拒むように波打つ。
「だから私が入れない。私、今、全然尊くないことを考えてるから」
「何を考えてるんだ」
「レオを返して」
ためらいはなかった。
礼拝堂で口にするには、だいぶ私欲の強い言葉だった。
リリアが目を丸くし、それから少し笑った。
責める笑いではなかった。羨ましがるような、眩しがるような笑いだ。
「それも、祈りではありませんか」
「違います。独占欲です」
「ご自分で言い切るんですね」
「術式に善人判定されると困りますから」
ミゼルは杖を構えた。
結界の光が、彼女をどう分類するべきか迷っているように揺れる。
ただ一人を返せという、重くて個人的な願い。
この雑な聖遺物には、たぶん一番理解できない感情だった。
「レオ。聖環の下にある聖句、見える?」
「『己を捨てて隣人を守る者を囲え』か」
「その中の、『己を捨てて』の部分だけ削って」
「物理的にでいいのか?」
「そこが術式の燃料を選ぶ部分だから。私からは干渉できない。削れば、聖環は誰の願いを受け入れたらいいのかわからなくなる」
「その後は?」
「空いたところに、私の願いを流す」
「お前の願いは、燃料にならないんだろ」
「ならないよ」
ミゼルは、まっすぐ俺を見た。
「私は、世界のためにあなたを助けたいんじゃない。私が、あなたを返してほしいだけだから」
「ずいぶん聖遺物と相性が悪そうだな」
「だから壊せるのよ」
リリアが苦笑いした。
「私から教会へ説明します。勇者様、お願いします」
「聖女公認なら遠慮なく。聖遺物破損はさすがに独断ではできないからな」
「今ちょっと嬉しそうだった」
「ミゼル、今はそこじゃない」
「今もそこだよ。でも後でにする」
後でが怖い。
俺は聖環へ踏み込んだ。
光の鎖が腕と足へ絡みつく。結界は俺を止めようとしているが、力勝負なら押せる。
ただ、押すだけでは足りない。
外側から、ミゼルの魔力が結界の表面を走った。
聖環に絡む光の鎖が、一筋だけこじ開けられる。
俺の目の前に、剣一本ぶんの隙間ができた。
荒く、強引だ。
けれど、俺の位置だけは絶対に外さない。
俺はその隙間へ剣を差し込み、聖句の『己を捨てて』という部分を削った。
銀の輪が、悲鳴のような音を立てる。
聖環の光が乱れた。
何を守るべきか。
誰の願いを受け入れるべきか。
術式が答えを失い、激しく明滅する。
その迷いへ、ミゼルの魔力が流れ込んだ。
同時に、ミゼルが叫ぶ。
「返して!」
短い言葉だった。
誰かのために自分を捨てる祈りではない。
世界を救う願いでもない。
俺を、自分の隣へ返せという、ただそれだけの願い。
聖環は、それを理解できなかった。
結界が、ばきりと割れた。
◇
光の壁が消え、礼拝堂に空気が戻った。
子どもたちもリリアも無事だ。
聖環は一部を削られたが、完全には壊れていない。
長椅子が二脚ほど潰れていた。あとで請求先を聞かれたら、俺は聖環を指さすつもりだ。
リリアは聖環の前で深く頭を下げた。
「ありがとうございました。勇者様、ミゼル様。私たちは、善意を信じすぎていたのかもしれません」
削られた聖句へ、静かに目を向ける。
「誰かを守る祈りが、誰かに自分を捨てさせる檻になるなんて」
「聖女様が悪いわけじゃないです」
ミゼルは少し言いにくそうにした。
「でも、次からは『自分も一緒に逃げる』って意味の聖句を足してください。善人を閉じ込める聖遺物とか、運用が怖すぎるので」
「はい。必ず」
リリアは素直にうなずいた。
やはり善人だ。
それから、俺を見た。
「勇者様も、どうかご自分を後回しにしすぎないでください。ミゼル様が、とても心配なさいますから」
ミゼルが一瞬、変な顔をした。
「私は別に、心配とかじゃ」
「違うのか?」
俺が聞くと、ミゼルは視線をそらした。
「違わないけど、聖女様に代弁されるのは違うの」
相変わらず、面倒くさい。
だが、気持ちはわからなくもない。
礼拝堂では、削れた聖環の応急処置が始まっていた。
修繕係が銀の粉を溶き、リリアが新しい聖句の候補を紙に書く。ミゼルはその横から、容赦なく赤ペンを入れていた。
「『己を捨てて隣人を守る者を囲え』は残しすぎです。囲うから問題になったんです」
「では、『己も隣人として逃がせ』ではどうでしょう」
「かなり良いです。聖女様は反省が早いですね」
リリアは少し笑った。
「ミゼル様に褒められると、背筋が伸びますね」
「褒めています。怖がらせてはいません」
ミゼルは赤鉛筆をこちらへ向けた。
「勇者くんは、聖女様に褒められた時だけ素直に受け取るから問題なの」
またそこへ戻るのか。
俺は修繕中の聖環を見た。
銀の輪には、さっき俺が削った跡が残っている。
すぐ返すと、たぶんまた変なことを言う。
なので、リリアが次の聖句を書き終えるまで待った。
「嬉しくないわけじゃない」
ミゼルの赤鉛筆が止まる。
「でも、綺麗に磨かれた褒め言葉をもらうと、少し落ち着かないんだ」
「私のは?」
「たまに刺さる」
ミゼルが目を細めた。
「褒めてないよね、それ」
「最後まで聞け」
俺は続けた。
「痛い時もある。でも、お前の言葉は、俺が立ってる場所までちゃんと棘として届く。俺はその方が嬉しい」
礼拝堂の空気が、一拍だけ止まった。
リリアが静かに紙を裏返した。
気を遣われている。
「お前は、俺がどこにいるかを間違えない。絶対に」
ミゼルは赤鉛筆を握ったまま、俺を見なかった。
代わりに、聖句案の端へ必要以上に小さな丸をつけた。
「……それ、褒めてる? 性的嗜好を暴露されたのかと、思った」
「性的嗜好ってなんだよ。褒めてるよ。かなり」
「しょうがないから、今日はそれで許してあげる」
少し間を置く。
「聖女様の件は、記録だけ残すけど」
「結局残るのか」
「消したら、次に同じことが起きた時に困るでしょ」
「教会より怖い記録を持つな」
――こうして今日も、聖環は少し削れ、教会の聖句は少し現実的になり、世界は救われなかった。
魔王は今日も、勇者を閉じ込めた聖遺物が魔女の独占欲に割られたことも知らず、元気にしているらしい。




