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第五話 勇者くん、私が他の男を助けても平気なんだ?

 その依頼は、俺ではなくミゼルに来た。

 

「魔女ミゼル殿を指名で。難しい呪いの解呪を頼みたいそうです」

 

 受付でティナが言った。いつも俺宛ての依頼を読み上げる時よりも少しだけ声が慎重だった。

 ミゼルは依頼書を受け取り、内容を一通り読んだあと、口元だけで笑った。

 

「ふうん。指名。まあ当然よね。解呪なら私がこの街で一番だもの」

 

「依頼人はオーバーンさん。ミゼルさんの、魔法学院時代のご旧友だとか」

 

  その名前を聞いた瞬間、ミゼルの目が少しだけ懐かしそうになった。

  俺はその顔を見たことがなかった。

 

「オーバーン……まだ生きてたんだ」


「旧友への第一声がそれでいいのか」

 

「魔法学院の同門なんて生きてるだけで上出来だよ。危ない実験を面白がる人ばかりだったから」

 

 ティナが苦笑いしながら依頼書の補足を読む。

 

「婚約式を控えているそうで、その前にどうしても呪いを解いてほしい、と」

 

 婚約式。

 つまり恋愛の気配は最初から別方向に向いているわけだ。ミゼルに向けてのものではないだろう。

 

「行ってこいよ。お前なら楽勝だろ」

 

 言った途端、ミゼルの得意げな顔が止まった。

 彼女は依頼書を畳み、俺のほうをじっと見る。

 

「平気なの?」

 

「何が?」

 

「私が他の男の依頼を受けて。しかも昔の知り合いで。二人きりで解呪するかもしれないのに」

 

「お前を指名してきた仕事だろ。困ってる人を助けてやれよ」

 

 ミゼルの眉がぴくりと動いた。なんか不正解だったらしい。

 俺は急いで言葉を足した。

 

「それに、婚約式を控えてるんだろ。相手がいるなら変な話にはならない」

 

「そこまで冷静に整理されると、逆に腹が立つんだけど」

 

「なぜだ……」

 

「私が聞きたいのは、依頼人の安全性じゃないから」

 

 それは難しい。

 安全性以外に何を確認すればいいのか、俺にはまだわからなかった。

 ティナが受付台の上で、そっと別の書類を整え始めた。目の前で整える必要はない書類だった。

 この街の受付嬢は逃げ場を作るのがうまい。

 

  ◇

 

 オーバーンの家は貴族街の手前にある古い研究棟だった。

 石壁には蔦が絡み、窓辺には乾燥した薬草が吊ってある。中に入ると、インクと薬草と焦げた羊皮紙の匂いがした。魔法使いの部屋だ。ミゼルの荷物からもたまに同じ匂いがする。

 

「久しぶりだな、ミィ」

 

「……オーバーン。その呼び方やめてって、昔から言ってるでしょ」

 

 ミィ。

 俺の知らないミゼルの呼び名だった。

 ミゼルは嫌そうな顔をしていたが、本気で嫌がっている時の目ではなかった。昔から何度も同じ文句を言って、何度も流されてきた顔だ。

 オーバーンは細身の男だった。俺より頭一つ低く、左腕に黒い紋様が絡みついている。呪いはその腕から肩口まで伸び、皮膚の下で細い糸みたいに動いていた。

 だが本人はやたら明るい。

 

「いやあ、助かったよ。来月の式までにこの腕をどうにかしないと、彼女が心配して泣いてしまう」

 

「彼女?」

 

「婚約者だ。見てくれこの肖像画。可愛いだろう」

 

 オーバーンは机の引き出しから小さな肖像画を取り出した。

 聞いていない。聞いていないが、見せ方があまりに迷いなく幸せそうだったので俺は受け取った。

 

「可愛いな」

 

「だろう!」

 

「そこで盛り上がらないで」

 

 ミゼルが低く言った。

 オーバーンは気にせず、婚約者の好きな菓子、最近覚えた髪飾りの選び方、式で緊張しないための呼吸法まで語り始めた。

 要するに、ただの幸せな旧友だった。色恋の気配は一ミリも感じられない。

 ないはずなのに、俺はミゼルが昔の呼び名で呼ばれるたび、胸の奥に小さな砂が増える感じがした。

 砂だ。

 たぶん。

 嫉妬などという大げさなものではない。勇者は自分の感情に名前をつけるのが苦手なのだ。

 

  ◇

 

 解呪は見ているだけでも大変な仕事だった。

 オーバーンにかけられた呪いは、古い契約書に残っていた魔術の残滓らしい。婚約式用の古物を整理していたら、封じてあった紙片をうっかり開いたそうだ。

 

「うっかり、で腕まで呪われるな」


「ミィなら解けると思って」


「そういうとりあえず私を呼べばいいみたいなの、昔から腹が立つ」


 ミゼルはそう言いながら、手は止めなかった。

 床には銀粉で描いた円があり、円の外に呪符がある。窓際には乾燥薬草を燃やす小皿。オーバーンの腕から伸びる黒い糸が、時々ぴんと張ってミゼルの術を弾く。

 俺の仕事は、重い棚を動かすことと、薬草の皿が倒れそうになったら支えることと、黙っていることだった。

 最後が一番難しい。

 

「そこの結界、ちょっとだけずれてる」

 

「わかってる。お前こそ手元見てろ」

 

「昔もそう言って、右の小指を焦がしただろ」

 

「今その話いる?」

 

 二人は聞いたこともない専門用語を当然みたいに投げ合っていた。

 俺は横で水差しを持ちながらそれを眺める。

 ミゼルが優秀なのは知っている。怖いほど知っている。

 それでも、俺の知らない場所で、俺の知らない呼び名で、俺の知らない癖を誰かと共有しているのを見るのは、妙に落ち着かなかった。

 退屈ではない。退屈なら、もう少し眠くなるからだ。

 俺は全く、眠くなかった。

 

  ◇

 

 二日目。

 ミゼルはなぜか、オーバーンと昔話を多めにした。

 なぜか、というより、俺の反応を見ていた。今ならわかる。あの女は俺の顔を読む時、魔導書を読むよりも丁寧な目つきになる。

 

「ねえオーバーン。昔さ、二人で禁書庫に忍び込んだの、覚えてる?」

 

「覚えてるとも、ミィ。お前が本に夢中で見張りをサボって、二人まとめて叱られた」

 

 ミゼルが声をあげて笑った。それから、ちらりと俺を見る。

 

「勇者くんは、私のこういう昔の話、聞いても平気なの?」

 

「へえ。お前、昔から本の虫なんだな」

 

 ミゼルは一瞬だけ口を開けた。

 何か言いかけたが、オーバーンが笑っているのを見て、途中でやめる。

 

「……いい。今のは私が聞き方を間違えた」

 

「質問は難しいな」

 

「あんたの答え方もね」

 

 明らかに俺の反応をうかがっていた。

 だが、俺はなんとも思わなかった。

 オーバーンは婚約者一筋だし、ミゼルは旧友と楽しそうだし、困っている人は助かる。いいこと尽くめじゃないか。

 そう考えているのに、ミゼルがオーバーンの腕に呪符を巻く時だけ、俺は水差しを握る手に力が入った。

 銀の取っ手が少し曲がった。オーバーンが気づいて、気まずそうに笑う。

 

「勇者殿。水差しが、勇者殿の握力に負けている」

 

「すまん。これは古いのか」

 

「昨日買ったばかりだ」

 

「余計悪いな」

 

 ミゼルがこっちを見た。少しだけ、機嫌がよくなった顔だった。

 なぜ水差しを壊しかけると機嫌がよくなるのか。魔女の基準は難しい。

 

  ◇

 

 三日目の夕方、オーバーンの家の玄関先で荷物をまとめている時だった。

 ミゼルがすねたように言った。

 

「私が他の男に『ミィ』って呼ばれても。肩を叩かれても。昔話で二人で笑ってても。平気なんだ」

 

「お前の昔の友達だろ」

 

「……ふうん。そう。平気なんだ。へえ」

 

 それきりミゼルは黙ってしまった。

 俺はまた何か間違えたらしいことだけわかった。何を間違えたかは、やっぱりわからなかった。

 ただ、その夜は少し寝つきが悪かった。

 オーバーンは悪い奴ではない。

 むしろ、いい奴だ。婚約者の話をする時の顔は、放っておいても勝手に幸せになりそうな顔だった。

 それなのに、ミゼルがあいつに笑っていた場面だけ、やけに鮮明に残る。

 笑っていた。俺に向ける時の、怖くて甘くて面倒くさい笑いではない。

 もっと軽い、昔から知っている相手に向ける笑いだった。軽いなら問題ないはずだ。

 問題ないはずなのに、胸の奥の砂はまだ消えなかった。

 

  ◇

 

 四日目。最後の解呪の日。

 仕上げの儀式には、呪われた本人と、術者と、魔力を受け流す支え手が必要だった。

 本来なら、オーバーンがミゼルの手を取り、二人の魔力を合わせるらしい。

 理屈はわかる。わかるが、納得は別だった。

 

「では、ミィ。昔みたいに頼む」

 

「その呼び方はやめて」

 

 ミゼルは文句を言いながらも、術式の中央に立った。オーバーンの指が、ミゼルの手に触れようとする。

 その寸前。

 俺の腕が動いた。考えるより先だった。

 気づいたら二人の間に、俺の腕が割り込んでいた。オーバーンの手を遮るように。

 場がしんとした。

 

「……勇者殿?」

 

 オーバーンがきょとんと俺を見る。俺自身もきょとんとしていた。

 なんで腕が出たんだ。

 

「あ。……悪い。なんか勝手に動いた」

 

「勝手に?」

 

「いや、その。支え手が必要なら、俺がやる。俺は魔力の扱いは細かくないが、受け止めるくらいならできる」

 

 言ってから、少しだけ納得した。言い訳ではある。

 だが、完全な嘘でもない。

 黒い呪いの糸は、支え手の腕にも絡む。普通の魔法使いなら痛みで集中が切れるかもしれない。俺なら耐えられる。

 オーバーンは俺とミゼルを交互に見た。それから、なぜか納得したようにうなずいた。

 

「なるほど。勇者殿がそういう顔をするなら、任せたほうがよさそうだ」

 

「どういう顔だ」

 

「婚約者の肖像画を人に預けたくない時の顔に似ている」

 

「え、マジ?」

 

「似ている」

 

 ミゼルが両手で口を押さえていた。

 顔が真っ赤だった。目が爛々と輝いていた。さっきまでのすねた顔は、もうどこにもなかった。

 

「勇者くん。今の、もう一回言って」

 

「解呪中だぞ。あとにしろ」

 

 ミゼルは不満そうにしたが、術は止めなかった。

 俺はオーバーンの代わりに、術式の外側へ腕を差し出した。黒い糸が俺の手首に絡む。冷たい。針で血管を撫でられるような嫌な感覚だった。

 ミゼルの指先が、俺の腕の少し上で止まる。触れない。

 けれど、魔力だけが薄く重なった。

 

「痛い?」

 

「このくらいなら平気だ」

 

「勇者くんは平気の幅が広すぎるから、わかんないよ」

 

「今日はそれで助かるだろ」

 

 ミゼルは少しだけ眉を寄せた。怒っているというより、困っている顔だった。

 

「助かる。でも、あとでしっかり怒るから」

 

「なぜだ」

 

「私が他の男に触られるのは嫌なのに、自分が呪いに触られるのは平気、みたいな顔をするから」

 

 返す言葉に困った。

 困っている間に、呪いの糸がほどけた。

 ミゼルの呪文が低く響き、オーバーンの腕から黒い紋様が剥がれる。剥がれた糸は俺の手首を一度だけ締め、灰になって床へ落ちた。

 オーバーンの腕から、呪いの色が消えていく。

 解呪は成功した。

 水差しは少し曲がり、俺の手首には赤い跡が残り、ミゼルの機嫌はなぜかかなり回復していた。

 

  ◇

 

 ギルドへ報告に戻る途中、ミゼルはずっとにやにやしていた。

 

「ねえ勇者くん。さっきの、なに?」

 

「何が」

 

「腕。なんで出たの?」

 

「知らねえよ。勝手に動いたんだよ」

 

「ふうん。勝手に。へえ。勝手にねえ」

 

 一生擦る気だ。この顔は。

 オーバーンにもらった礼の菓子箱を、ミゼルは大事そうに抱えていた。婚約者おすすめの焼き菓子らしい。あいつは最後まで婚約者の話をしていた。

 たぶん、いい奴だ。いい奴だからこそ、俺の腕が勝手に出た理由が、余計にわからない。

 

「私が他の男に触られるの、嫌だったんだ?」

 

「そんなこと言ってねえだろ」

 

「でも勇者くんの腕はそうだって言ってたよ」

 

「腕はしゃべらねえよ」

 

 ミゼルはスキップでもしそうな足取りで、俺の半歩前を歩いていた。鼻歌まじりだった。

 その鼻歌がいつもより少し軽いのが、少し腹立たしかった。たぶん、今のこいつの周りは気温が3度上がっている。

 

「……楽しそうだな」

 

「べつに。依頼が成功しただけ」

 

「そうか」

 

「あと、勇者くんの腕が正直だっただけ」

 

「腕に人格を作るな」

 

 ミゼルは振り返らないまま、菓子箱を抱える腕に力を込めた。

 

「今日のこと、忘れないから」

 

「呪いの記録か?」

 

「違う。私の記録」

 

 俺は聞き返さなかった。聞き返すと、たぶん負ける気がした。

 

  ◇

 

 その夜。寝る前に、ミゼルはもう一回聞いてきた。

 布団の中から、こっそりと。

 

「ねえ。なんで腕、出たの?」

 

「しつこいぞ」

 

「一回だけ。ちゃんと言って。一回だけだから」

 

 一回だけ、という言葉をミゼルが守った試しはあまりない。

 だが、今日はなぜか声が小さかった。

 俺は天井を見た。しばらく考えた。

 考えても、うまい言葉は出てこなかった。ノンデリな俺にわかるのは、いつだって事実と、ほんの少しの推測だけだ。

 

「……あいつがお前に触るのが嫌だった。それだけだ。理由は知らん」

 

 ミゼルが布団の中で固まったのがわかった。

 それからずいぶん経って、こもった声でちいさく言った。

 

「……知ってる。私は最初から、ずっとそれなの」

 

「あ?」

 

「なんでもない。おやすみ」

 

 布団を頭までかぶってしまった。

 耳だけが赤いのが見えた。

 魔王は今日も、勇者の腕が本人より正直だったことも知らず、元気にしているらしい。

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