第十章 群衆
宿の従業員がテーブルを拭いた。俺は口を拭いた。
「そんなに驚きますか、先輩」
「驚くに決まってるわ。学院の街って、獣人に対して入学条件が厳しかっただろ」
「それも二年前に変わったんですよ……ある悪魔討伐者の提案で。獣人の本性解放を戦力として活用できるって言ったらしくて。」
本性解放を戦争の武器にする、か。
「誰なんだそいつ、古い人間なら俺も知ってるはずだ」
アカシじゃない、あいつにそんな頭はない……ムラはあの頃まだ二年生だった。アオ——。
……あり得なくはない。
「誰なんですかね。聞いても毎回『名前は言えない』って。」
「名前を言ったら何なんだ、学院が爆発するのか。」
「あ、あの……そこまで獣人を受け入れたくないなのですか?」
しまった。フェオに余計な圧をかけた。
「そういうわけじゃない。ただ、色々と変わりすぎて驚いてるだけだ。」
「急に変わったわけじゃないんです先輩、ここまで来るのに色んな積み重ねがあって。」
「そう……?」
俺がいない間に、どれだけのことが動いていたんだ。フェオを見ると、遠くを見つめていた。目の端が光っている。
「フェオ、詫びにひとつ提案がある。俺とアンも学院の街に帰るところだ、一緒に来るか。」
「え!?」
「どうしたアン。」
「昨日は散々渋ったのに、フェオにはあっさり言うんですか。」
あ……個別に誘うべきだったか。フェオが大きく目を見開いて、何度も頷いた。
アンが顎を手に乗せて、横を向いた。
「よ、よろしくお願いします、キイル先輩、アン先輩」
アンがぱっとフェオを向いた。
「今なんて言った?」
「よ、よろしくお願いします、キイル先輩。アン先輩」
アンの瞳が大きくなった。
「最後のもう一回。」
「アン先輩」
先輩と呼ばれたいだけか、まあ一年生だしな。
「もう一回」
「アン先輩」
「もう一回」
二人を残して港へ向かった。三人分のチケットを買いに。
行列が長い。なぜ湖の方向に向いているんだ、窓口はこっちだろう。
窓口を覗き込むと、係員が誰もいない。振り返って人込みを見た。
「ちょっと、係員はどこ——」
「黒い旗……あの船に憑かれたやつがいる」
憑かれた?
人込みを割ろうとしたが、隙間がない。ポータルを開くしか——
シュッ。
何かが頭上を掠めて飛んでいった。
「先輩……」
振り返るとアンが息を切らして追いついてきた。
「フェオが……船に飛んでった。」
フェオか、まずい、あいつ一人じゃ持たない。
「風よ、群衆の隙間に入り込み、静かに左右へ押し広げろ」
風が人込みをゆっくり割り、俺とアンの前に通路ができた。
船から人が次々と飛び込んでいる。甲板にフェオが見えた——誰かに首を絞められていた。肩に黒い影が滲んでいる。
やはり。
「アン、飛び込んだ人の救助を頼む。俺はフェオを助ける」
「わかりました」
俺は湖に跳んでポータルを開き、出口を船の甲板へ。
飛び出し、フェオを絞めていた人物の腕を掴んで床に叩きつけた。暗黒がクリスタルに吸われていく。フェオが大きく息を吸った。
「雷よ、撃て。」
「火よ、燃やせ。」
「風よ、吹き飛ばせ。」
三方向から呪文が飛んでくる。三対のポータルを開き、出口を術者たちに向けた。魔法がそれぞれ自分に返った。
ポータルを割いて一人ずつ右手で触れると、暗黒が次々と吸い込まれた。
「先輩、後ろ」
フェオが上から飛び込み、背後の人物を組み敷いた。俺がすぐに触れて浄化する。
「風よ——」
「キャンセル」
正面の術者の魔法を弾いて踏み込み、首筋に手刀を入れた。暗黒が手に吸い込まれた。
「こっちです先輩。」
フェオが三人を同時に踏んでいた。三人とも起き上がれず、床を這いずり回っている。
「意外と重いな、フェオ。」
フェオの足元の体に手を伸ばしたその瞬間——
ガツッ。
額に激痛。顔面が甲板に貼り付いた。ゆっくり上を見ると、フェオが俺の頭を踏んでいた。
「なんで俺も踏むの?」
右手をフェオの足元の体に伸ばした。フェオは頬を膨らませて何も答えない。
……本性解放の副作用か。
「暗黒よ、ここにあるもの全てを飲み込め」
船内から呪文が聞こえた。黒い液体が床と壁を這い上がってくる。
くそ……さっき別の魔法を弾いたばかりだ、次に使えるまで二十五分かかる。
フェオを引っ張って船から離れようとしたが、暗黒が足に絡みついて引き下ろしてくる。フェオが俺の腕を挟んで翼を懸命に動かすが、上がれない。
倒れていた人間が中央に引き寄せられ、血の匂いが漂った。フェオが手を離して飛び込んでいく。
「行くな、フェオ。」
術者に体当たりで乗り込み、自分の魔法に沈めようとした——が、フェオが横に弾き飛ばされ、暗黒に飲まれ始めた。
俺はしゃがんで右手を暗黒に触れさせた。
吸える。魔法の暗黒も吸えるのか。
そのまま突っ込んだ。
「風よ——」
「光よ。」
「キャンセル」
風魔法を弾かれた。左手を前に向けた。
「その光で、浄化しろ。」
光魔法が暗黒の術者の核心を貫いた。吸い込みは止まらないが、黒い液体が少しずつ引き始める。
すぐにフェオを抱えて安全な場所に放り投げ、残りの人間を一人ずつ引っ張り出した。
全員救出後、錨を掴んで湖に投げ込んだ。
「最初からこれでよかったな。」
前を見ると、港がとうに見えなくなっていた。
「……今、どのくらい流された?」
小舟が何艘か救助に来て、俺とフェオも連れ戻された。フェオは港に着くまでずっと俺の腿の上で意識を失っていた。
岸に着くと、アンも青白かった。飛び込んだ人間たちを引き上げるのにマナを使い過ぎたらしい。アンが最後の一人を岸に引き上げ、荒く息をついた。
フェオを抱えて陸に上がり、アンに近づいた。アンが俺を見て、ゆっくりと歩いてきた。
「先輩……」
崩れ落ちた体を受け止め、もう片方の肩に腕を回した。
「お疲れ、我が後輩たちよ」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
キイルの帰り道、思ったより賑やかになってしまいましたね。
後輩たちとの旅はまだ続きます。学園都市まで、果たして無事にたどり着けるのか、続きもどうぞよろしくお願いします。
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