事件部小噺②:たぬき準備中、エスプレッソラージサイズ
――それは、シノが事件部に来る少し前の話。
昼下がりのヒタカミタイムス事件部には、
いつものようにタイプライターの音と、印刷機のかすかな振動と、コーヒーの香りが満ちていた。
アグサのデスクの上には、空になったカップが三つ。
それぞれ中身の違う“絶望色”のシミがついている。
「……ふぅ。今日のはちょっと圧力下げすぎたかしら」
自家製の携帯ポットから注いだ四杯目を味わっていると、
気送管が「ぽんっ」と軽い音を立てた。
飛び出してきた封筒には、編集部印と『人事連絡』の文字。
「ん?」
アグサが開封すると、数行の文字が目に飛び込んだ。
《事件部に新人一名。面接通過。来週付入社予定。
配属先:事件部。担当:アグサ》
「……新人、ねぇ」
コーヒーをひと口啜りながら、静かに読み進める。
事件部に新しい人が来るのは、自分が入って以来だ。
つまり――この十年間、ずっと“最若手”はアグサのままだった。
(十年分、“末っ子”だったのに……いきなり担当、ね)
苦笑いしようとしたところで、次の一文が目に入る。
《なお、当人は“獣人”であること、事前共有のこと。
種別:タヌキ》
「…………」
カップの縁に口をつけたまま、アグサの動きが止まった。
「タヌキ?」
そのとき、背後から声が飛んだ。
「おーい、事件部のカフェインジャンキー。人事通知見たか?」
ハヤマが新聞を片手に近づいてくる。
三本目の煙草を指で弄びながら、ニヤリと笑った。
「見ましたけど、“ジャンキー”は名誉毀損ですよ」
「十年ぶりだぞ、新人。しかもタヌキの獣人だとさ。
いやぁ、世も末だな。事件部にタヌキ。ムジカさんの紹介だってよ」
「世も末って何ですか。……しかし、ムジカ先生、あの人本当に何でもやってますね」
アグサは書類にもう一度目を落とし、じっと文字を見つめた。
「……タヌキですか。タヌキって、あのタヌキ?」
「他にどのタヌキがいるんだよ。看板娘にキツネでも来て欲しかったか?」
「いえ別に、耳と尻尾がついてるなら種別は問わな……なんでもないです」
「今、さらっと本音漏れたけど?」
ハヤマがじろりとアグサの三白眼を覗き込む。
アグサは咳払いして書類を整えた。
「とにかく。十年ぶりの、はじめての後輩、ですか」
「おう。お前担当だとよ。指導係。
よかったなぁ、“飲む睡眠”哲学も後進に受け継げるじゃねぇか」
「変な名前つけないでください。
……でも、そうですね。きちんと教えないと」
アグサはこめかみを指で押さえ、何かを考え込むような顔をした。
「タヌキ……。タヌキの生活、習性、栄養状態、感情の動き……」
「急に何のリサーチ計画だよ」
「当然の事前準備です。指導する以上、後輩のバックグラウンドは把握しておかないと。
獣人としての特性、ニュース現場でのリスク、配慮事項、全部」
「いや、そこまでガチでやらなくても……」
「ハヤマさんは新人指導を“感覚”でやるタイプでしょうけど、
私は“資料”でやるタイプなんです」
アグサはカップを一気に飲み干し、きっぱり言い切った。
「――本日より、“タヌキ調査”を開始します」
「こわっ」
* * *
数日後。
ヒタカミ中央図書館・閲覧室。
高い書架が並び、静寂の中を蒸気式換気装置の低い唸りだけが流れている。
「飲食禁止」の立て札が、アグサの携帯ポットを出しかけた手を無言で制止した。
「……今日は資料が主食ってことで我慢するか」
その一角、動物関連の棚の前で――
「……タヌキ。タヌキ。
“主に夜行性”“雑食”“冬は太る傾向にある”……。冬は太る、ね……他人事じゃないわね……」
アグサが分厚い図鑑の行を指でなぞりながら、手元のノートに蛍光ペンで線を引きつつ、真顔でメモを取っていた。
ノートには几帳面な字で、びっしりと書き込みがある。
・タヌキは臆病だが、慣れると人里にも出る
・群れというより“ゆるい家族単位”で行動
・しっぽはふわふわ。縞模様はない。※重要
・たぬき寝入り=「死んだふり」ではない諸説あり
・「たぬきうどん」にタヌキは入っていない(※なぜ)
「……“たぬきうどんにタヌキは入っていない”って、何この注釈。
そんなの当たり前でしょ……いや、都市育ちで知らない子もいるかもしれない……メモしておくか」
ページの端に小さく書き足す。
・食堂で“タヌキ=揚げ玉”と知らない可能性 → 事前共有?
「……『タヌキの民俗学』? へぇ、そんな本まであるのね」
別の棚から薄い専門書を引き抜き、ぱらぱらとめくる。
「“タヌキは昔話の中でしばしば騙す側に描かれ、
一方で“憎めない存在”としても愛されてきた”……」
アグサはそこだけ声に出して読んだ。
「……“騙す側”。“憎めない”。
――なんか、先にイメージだけ押し付けられたら嫌かも」
少しだけ眉をひそめ、静かに本を閉じる。
「新人本人を見てからにするか。
たぶん、“タヌキだから”じゃなくて、“その子自身”の性格があるはず」
そう呟き、民話コーナーへと視線を移す。
そこに、童話集の背表紙が並んでいた。
「……“かちかち山”。タヌキが出てくるやつ、ね」
アグサは一冊を引き抜き、ぱらりと目次だけを確認した。
「内容は、帰ってから落ち着いて読むか。ここに長居しても仕方ないし」
カウンターで貸出カードに名前を書きながら、小さく息をつく。
(とりあえず“予習”。返却期限は厳守)
貸出スタンプの音が、小さく響いた。
* * *
その夜。
アグサの部屋では、ラジオからミチルの声が流れていた。
『――今日も一日、おつかれさま。
新しい出会いを控えたあなたにも、やさしい音が届きますように。
ミチル・ウィステリアでした』
その声が終わると、アグサはラジオのつまみを名残惜しそうに指で撫でた。
「……終わっちゃった」
仕事の顔に戻る前の、ほんの数秒だけ。
アグサは息をひとつ吐いて、カップを片手に、机の上の本をぱらぱらめくる。
そこには、昼間図書館で借りてきた“かちかち山”。
「“かちかち山”……。
うーん。たぬきのイメージ的には、これは事前に読んでおくべきなんだろうけど」
ページを開き、最初から最後まできちんと読み進める。
悪さをするたぬき。罰を受けるたぬき。泥舟。
結末まで目を通し、長い沈黙。
「…………」
コーヒーをひと口。
「……これはそのまま渡したら泣かせちゃいそうね」
アグサは本を閉じ、少し考え込んだあと――
「でもまあ、“知ってる前提で話される”よりはマシか。
いつか、“自分の物語”を書き換えたくなったときに、
材料になればいい」
ラジオから流れる余韻のノイズの中で、
アグサのカップから立ちのぼる湯気が、静かに揺れた。
「タヌキの後輩、ね……。
ちゃんと、いい記事書ける子だといいけど……あと、コーヒー嫌いじゃないといいんだけど」
その顔には、クソ真面目な先輩の顔と、素の自分の顔が、まだらに残っていた。
* * *
それから数日後の昼休み。
アグサは中央図書館のカウンターに、“かちかち山”をそっと差し出した。
「返却をお願いします」
「はい。ありがとうございました。またご利用ください」
貸出カードには、きっちり期限内のスタンプが並んでいる。
(……借りた本は、ちゃんと返す。これは社会人としての最低限の矜持)
図書館を出た足で、そのまま本屋に向かった。
「すみません、この“かちかち山”、同じ版って置いてます?」
「在庫ありますよ。少々お待ちください」
少しして、図書館と同じ表紙の童話集が差し出される。
「……はい、これください」
レジで包まれた本を抱えながら、アグサは小さく息を吐いた。
(分析用と、いつか“渡す用”は、こっち。
図書館本は、また別の誰かの手に渡ってもらいましょ)
図書館でしか読めない専門書はノートに写す。
手元に置きたい一冊だけ、自分の財布で買う。
――それがアグサなりの線引きだった。
* * *
さらに数日後。
ヒタカミ動物園・小獣コーナー。
「……本当に来たんだな、お前」
休憩中のベンチに座ったハヤマが、紙コップを片手に呆れたように言った。
「ハヤマさんだって来てるじゃないですか。付き添いありがとうございます」
「編集長に“誰か止めに行ってこい”って言われたんだよ。
“アグサがタヌキの研究に本気になってる”って噂になってな」
「失礼な職場ですね……。……ほら、見てください、あれ。
あの丸っこいフォルムに、ふさふさの尻尾。耳。目の周りの模様。
資料で見るより、実物の方がずっと……」
言いかけて、アグサは言葉を飲み込んだ。
「ずっと?」
「……可愛いですね」
「言い切ったな」
タヌキたちは、日陰で丸くなって眠ったり、
水場の近くでのそのそ歩いたりしている。
そのたびに、アグサの三白眼がわずかにきらきらしていた。
「ほら、あの子。ちょっと起きた。
……あ、また寝た」
「お前、さっきからそれしか言ってないぞ」
「行動パターンの観察です。これは研究です」
アグサは真顔でメモ帳を取り出し、走り書きする。
・眠そうにしている時間が長い → 朝の勤務は苦手かも?
・動き出すときは一気にテンションが上がる → 取材でスイッチ入りやすい?
・警戒すると耳がぴくぴく動く → 不安のサイン
・尻尾はシマシマじゃない。※二度書いても足りない
「ハヤマさん」
「なんだよ」
「私、決めました」
アグサはタヌキたちを見つめながら、小さく息を吸った。
「――新人が来たら、“怖がらせない先輩”になります」
「は?」
「事件部って、“怖い大人”多いじゃないですか。
取材先も、上司も、世間も。
だからせめて、配属されたところくらいは、
“この街のこと一緒に見に行こうか”って言ってあげたいんです」
ハヤマは一瞬、言葉に詰まった。
「……お前なぁ。そういうことサラッと言うから、胃が痛くなるんだよ。
新人の頃から真面目すぎんだよ、お前は」
「そうですか?」
「そうだよ。……まあ、嫌いじゃねぇけどな。そういうの」
ハヤマはカップの残りを飲み干し、立ち上がった。
「いいか、アグサ。
新人に“全部わかってます”みたいな顔した先輩のフリすんのは、
悪いことじゃない。安心させてやれるからな」
「はい」
「でも、お前自身はちゃんと覚えとけよ。今日ここで、
“わからないことだらけの先輩が、一生懸命タヌキを勉強してた”ってこと」
「……はい」
「十年ぶりの増員だ。気合入るのはわかるけどよ。
そのうえで、堂々と“頼れる先輩”の顔してればいい。
どうせすぐバレるけどな。“ミーハーでコーヒージャンキーな人”って」
「余計な一言を足さないでください」
アグサはこめかみを押さえ、しかしすぐに笑った。
「でも、そうですね……。
今日のことは、私の中だけの“準備運動”にしておきます」
金網の向こうで、タヌキが一匹、大きくあくびをした。
その口の形が、どこか「ポン」と笑っているようにも見えた。
* * *
そして、一週間後の朝。
事件部の時計の針は、始業時刻を少し過ぎていた。
アグサのデスクの上には、きれいに整理された資料と、
“新人用・事件部ガイド”とタイトルのついた手書きのメモ束。
隣の空いた机には、新しいマグカップと、予備のメモ帳。
「……初日は、少し早めに来るって聞いてたんだけど」
コーヒーをひと口。
(緊張して早く来て、ドアの前で固まってるパターン、かな)
そんなことを考えていた、そのとき――
「うわぁぁぁぁっ!? 曲がりきれないぃぃぃ!! 止まって止まって止まってーっ!!」
廊下から、なにか金属が壁を擦る音と、盛大にスリップする音がした。
次の瞬間――。
ガンッ、と鈍い音とともに、事件部のドアが内側にわずかにしなった。
ドアノブのあたりに、真鍮のフックとワイヤーが食い込んでいる。
そこから伸びたワイヤーの先で、タヌキの耳がぴょこんと揺れた。
「お、おはようございますっ!! きょ、今日からお世話になります、シノですっ! すみません遅れましたぁぁ!!」
勢いよく転がり込んできた少女は、膝丈のブーツをカツカツ鳴らして必死に踏ん張りながら、
左腕の義手の巻き取り弁をがちゃがちゃ回していた。
「と、止まって……止まってぇぇ……あ、止まった……!」
ワイヤーがようやく巻き取られ、ドアノブから外れる。
ノブは少し曲がり、義手の真鍮部分にはうっすら擦り傷。
関節からは、まだ細い蒸気が「しゅう……」と漏れている。
「……」
アグサは、一瞬だけ口を閉ざした。
(“主に夜行性”“眠そうな時間が長い”……。
――やっぱりタヌキは、朝が弱いのかな)
図鑑で引いた線と、目の前の現物がぴたりと重なるのを感じながら、
こっそり机の引き出しに触れた。
中には、
図書館で写した『タヌキの民俗学』のメモ束と、タヌキの体格や習性を書き込んだノート、
それから、本屋で買ったばかりの『かちかち山』――そして、携帯ポット用の濃縮エスプレッソの小瓶。
誰にも気づかれない程度の小さな深呼吸をひとつしてから、
いつもの“頼れる先輩の声”で言う。
「落ち着いていいわよ。――事件部へようこそ、シノ。アグサよ。
まずは、コーヒー……は後にして、椅子に座って、深呼吸から始めましょうか」
「は、はいっ!」
タヌキの耳がぴくんと動く。
その裏で、
動物園と図書館と本屋で積み上げた小さなメモの山が、
静かにこの出会いを支えていることを、
このときのシノはまだ知らない。
事件部小噺② 了




