第6話 容疑者・タヌキちゃん
朝のヒタカミは、空より先に“決まり文句”が流れる。
霧がやわらかく街を包み、配管の唸りが低く一定で、歯車が「今日も正常です」と言い張る音を立てる。
『――おはよう、ヒタカミ。
今日の街は少しだけ騒がしいでしょう。
けれど、騒がしさは悪いことではありません。
不安が生まれたら、深呼吸を。
いつも通りの音に耳を澄ませてください。
――ミチル・ウィステリアでした』
ジングルの余韻に、短いノイズが混ざる。
それを“いつものBGM”として飲み込む街の中で、事件部の朝だけは、別の意味で騒がしかった。
ヒタカミタイムス編集部。
シノは机に突っ伏したまま、ペンを握って眠りかけていた。徹夜の仕上げ。原稿用紙の端に、芋の落書きが増えている。
肩の上では、カエル型ロボットのカジカがランプを明滅させながら、眠気のない声で言う。
「シノ。よだれ、落ちる。インクが滲む」
「んにゃ……だいじょうぶ……。芋は滲んでも……」
「記事は滲むと怒られるよ」
そのとき、義手の“耳”が、ぴくりと震えた。
遠くの廊下――靴音がいつもより硬い。金属の擦れる音。緊張の匂い。
次の瞬間、編集部の扉が、がつんと開いた。
「ヒタカミ中央警察だ。事件部、タヌキの嬢ちゃんいるか」
トレンチコートに帽子。胸のバッジは“刑事課”。
タキシタだった。背後に、制服の若い隊員が二人。
空気が一段冷える。コーヒーの香りまで、きゅっと固くなる。
「……おはようございます、タキシタさん」
シノは反射で背筋を伸ばしたが、尻尾が遅れて膨らんだ。
「おはようで済めばいいんだがな」
険しい顔を崩さず、タキシタが言う。
「タキシタさん。朝から刑事が三人で新聞社って、圧が高いわね」
奥のデスクから、赤髪ポニーテールが現れる。
目の下のクマを誇らしげに携えた、事件部の社畜先輩・アグサだ。
「今日は、圧どころじゃねぇ。盗難だ。しかも――蒸気レンズ塔絡みだ」
その一言で、シノの義手がまた小さく震えた。
蒸気レンズ塔。
あの取材の日に見た“白飛び”と、“同じ角”と、“見せられている”感覚。
そこに「盗難」が乗るのは、嫌な予感しかしない。
タキシタは紙束を取り出し、机に置いた。
荒いスケッチ。目撃証言を元にしたラフ。
そして、その中央に――尻尾のあるシルエット。
「昨夜、蒸気レンズ塔の地下倉庫から“記録板”がごっそり消えた。
見回りの隊員が一人、姿を見たって言ってる」
「姿?」
「尻尾。耳。あと、左腕が光ってたとよ」
事件部の空気が、ゆっくりシノに向かって寄ってくる。
机に突っ伏していた記者たちが、目だけ開ける。印刷明けの眠気が、興奮に変わる。
「……え?」
シノの口が、間抜けに開いた。
「おいおい、まさか」
「また記事より先に事件起こしたのか」
「“空飛ぶタヌキ記者”の次は“盗むタヌキ記者”か?」
「ちがいます!!」
シノが勢いよく立ち上がり、椅子がぎぎっと鳴った。
「私、昨夜は編集部で……!ほら、原稿!ずっとこれ書いてて!」
「証拠が原稿とは、事件部らしい言い訳だな」
タキシタの目は冗談めいているが、声は硬い。
「嬢ちゃん。冗談じゃ済まねぇ。
いまのところ、条件一致率が……」
「九十七パーセント」
横からカジカが淡々と追い打ちをかけた。
「カジカぁ!!」
タキシタが短く鼻を鳴らした。
「……一致してる“ように見える”ってだけだ。特徴が珍しいほど、誤認も起きる」
アグサがカップを机に置き、低い声で割り込む。
「タキシタさん。うちの新人はポンコツだけど、犯罪するようなポンコツじゃないわ。……たぶん」
「“たぶん”を付けないでください!」
「付けないと事件部じゃないでしょ」
タキシタは一度息を吐き、紙を指先で叩いた。
「とにかく形式だ。嬢ちゃん、一緒に来てもらえるか。参考人扱いで話を聞く。カエル、お前も来い。ログがあるなら提出だ」
「ログは平坦」
「平坦でも出せ。平坦なのが不自然な時もある」
その言葉が、シノの胸に刺さる。
“平坦”。
誰も気づかない“ずれ”。
同じ絵を同じ時間に焼き付ける塔。
見守るふりをして、見せる街。
タキシタは続けて、低く言った。
「勘違いすんな。塔は封鎖してる。別班が張り付いてる」
「……じゃあ、なんでここに?」
「順番だ。まず“お前の口”を押さえる。噂が走る前に、事実を取る」
「口……?」
「参考人扱いで話を聞く。それだけだ。――現場の説明は、あとでまとめてする」
アグサが鼻で笑う。
「要するに“このタヌキは放牧すると危ない”ってことね」
「放牧しないでください!」
義手の“耳”が、また微かにざらついた。
【――被疑者の協力を要請します。】
声。耳の外じゃない。内でもない。
別の層から、淡々と。
(……やだ。今の、私だけ?)
シノは唾を飲み込んで、タキシタの背中を追った。
* * *
警察署の詰所は、新聞社より空気が乾いていた。
机は整然とし、壁には“正常の手順”が貼られている。
けれど、そこに座る人間の目だけは、眠気ではなく疲労で曇っていた。
「悪いな。じゃあ名前、所属、昨夜の行動を確認させてくれ」
「名前はシノ、ヒタカミタイムス事件部、新人記者です。
昨夜は編集部で……徹夜で原稿を書いてました。芋の落書きはしました」
「いらねぇ情報だ」
タキシタが紙に書きつける。
シノは一呼吸置いて、バッグを膝の上に置いた。
そして、自分でファスナーを開ける。
「……任意で、見せます。仕事道具しか入ってないので」
内ポケットの布包みを、自分の指で取り出した瞬間、心臓が跳ねた。
小さな銀色の欠片。
事故現場で拾った記録合金。ムジカの工房で青く瞬いた、“異物”。
若い隊員の視線が止まる。
タキシタのペン先も止まる。
「……あの。これ、何ですか」
「それは、取材資料で……」
「ふむ。取材資料が、塔から盗まれた“記録板”と同系統の素材だとしたら?」
タキシタの声が、少し低くなる。
そこでカジカが、机の上にぴょんと飛び乗った。
「その欠片は、市場の事故現場で拾ったもの。ムジカの工房で調査済み。
塔の盗難と関連があるかは未確定。関連があるなら、むしろ重要証拠」
「……お前、賢いな」
「相棒、だからね」
タキシタはペンを置き、シノの目を真っ直ぐ見た。
「嬢ちゃん。正直に教えてくれ。塔の中、昨日も行ったか」
「行ってません。行ったのは……塔の異常を取材した日だけです」
嘘じゃない。
でも、塔に触れた記憶が、まだ指先に残っている気がする。
“見せられている”感覚が、皮膚の裏に。
タキシタが鼻で笑うように言った。
「お前は“目立つ”。
目立つ奴は、犯人にもなれる。
――そして、犯人に“される”こともある」
シノの背筋が冷えた。
「……タキシタさん。私、犯人じゃないです」
「わかってる、とは立場上言えん。だから――協力してくれ。
俺は“捕まえる”のが仕事だ。お前は“見つける”のが仕事だろう」
シノは息を吸う。
「……やります。私、ちゃんと、見ます」
タキシタは立ち上がり、帽子をかぶり直した。
「よし。まずは塔だ。行くぞ、参考人タヌキの嬢ちゃん」
「その呼び方やめてください!」
* * *
蒸気レンズ塔は、霧の中で今日も“瞳”のふりをしていた。
塔の入口には黄黒のロープと、簡易の立入禁止札。
制服の警備と、警察の別班が二名、無言で張り付いている。
「……封鎖、ちゃんとやってるじゃないですか」
「言ったろ。別班が張ってる。俺は“お前”を回収してから戻ってきた」
受付のカウンターには、名札“コマキ”。
寝不足の目が、すでに限界の向こう側で乾いている。
机の上には、未処理の書類束と、半分冷めたカップ。
「……来たか。今度は刑事付きで」
コマキは吐くように言った。
「昨夜からずっとだよ。上は“正常”って言い張るくせに、現場には“異常”だけ増える。
こっちは睡眠が盗まれてる」
「盗難だ。記録板が消えた」
「知ってるよ。知ってるに決まってるだろ。
夜中に警備が走り回って、朝には“紙の報告書を増やせ”だ。
塔は目が多いくせに、肝心なところは見えてない」
コマキは疲れた指で、地下への通路を示した。
「地下倉庫はこっち。……穴もある。見たらわかる」
地下へ降りる通路は、空気がひんやりしていた。
蒸気の匂いが薄くなり、代わりに土と油の匂いが混ざる。
(……土?)
シノの鼻が、ぴくんと動いた。
ここは金属の腹の中なのに、“新しい土”の匂いがする。
倉庫に入った瞬間、シノは息を止めた。
床板の一部が、内側から割れている。
そこから、黒い土が盛り上がっていた。
まるで地面が、塔の中にまで伸びてきたみたいだった。
「……掘ったのか」
タキシタが顔をしかめる。
「ブラス・バジャーの得意技だ。穴掘り。
だが、塔の床を抜くには相当だぞ」
コマキが床を指で弾く。
「床下の補強材まで切られてる。爪みたいな工具だな。ほら、これ」
拾い上げられたのは、爪の先みたいに湾曲した真鍮の破片。
端には、黒い塗料がついている。
「フェイスペイントのやつか?」
「たぶんな。……尻尾も落ちてた」
棚の影から引っ張り出された毛束。
ふわふわの尻尾――に見える。
けれど、根元の縫い目が見えた。
シノの尻尾が、びくんと跳ねた。
「……つけ尻尾。これ、作り物です!」
「そのようだな。お前の尻尾は本物だ。縫い目がないし、取れないだろう」
「取れないの強調しないでください!」
カジカが床に降り、センサーを伸ばす。
「掘削痕、爪型工具。土の粒径、湿度……
うん。塔の外周の地盤と同じ。外から“繋げて”きてる」
「外周の地盤……?」
義手の“耳”が、ざわりと鳴った。
床の下――小さな振動。
今、この瞬間にも、どこかで土が動いている。
しかも、土の匂いが“新しい”。昨夜の残り香じゃない。今朝、掘り返された匂いだ。
タキシタが小さく舌打ちする。
「別班が上で塞いでる。……下の道は、逃げ道じゃなくて“通路”だったか」
「……来る」
「え?」
「下。動いてる。今――」
そのとき、蒸気の唸りが、ふっと遠のいた。
耳の中が一瞬だけ空白になる。
その空白に――床の下の気配だけが、近づいてきた。
どん。
床が小さく跳ね、土がふわりと浮き、鼻先に土臭さが刺さる。
「下がる!」
シノは反射でワイヤーを撃った。梁に絡む。身体が横に引かれ、床板の縁を蹴る。
次の瞬間、穴の縁が割れ、黒い影が飛び出した。
――白いフェイスペイント。黒い帯。
そして、金属の爪。
影は一人じゃない。二人、三人。
アナグマの面みたいな顔で、つけ尻尾を揺らし、爪で床を掴んで這い上がる。
ブラス・バジャー怪盗団。
誰かの背中には布袋。揺れるたび、角張った金属が複数ぶつかった。
盗難が「昨夜だけ」じゃない。――追加で運び出すつもりだったのか、置き忘れを回収しに来たのか。
いずれにせよ、封鎖の上を見上げる気配もない。最初から“下”の道を使うつもりだった。
「いたぞ!」
タキシタが叫び、隊員が飛び出す。
だが怪盗団は、土の匂いを残して散った。棚の影へ。通路へ。配管の隙間へ。
封鎖で上が塞がれたせいか、動きがやけに“軽い”。――逃げ道を変えたのだ。
「嬢ちゃん! 追うな、単独は――」
「追います! 私、噂の中心にされてるんで!」
「だからその理屈は――!」
シノは走った。
義手の“耳”が逃げる振動を拾い、道を指すみたいに震える。
角を曲がった先、非常階段の踊り場。
そこに、ひときわ軽い足音。
影が振り返る。
フェイスペイントはしていない。けれど、耳と尻尾。狼の形。
金色がかった琥珀色の目が、楽しそうに細まった。
「やっぱり来たか。タヌキちゃん」
「……アオさん!!」
昨日の列車の“往復”、どこにも行っていない景色、引っかかった名前。
全部が胸の奥で一本の糸になる。
「あなたが、ブラス・バジャー……!?」
「さあね」
アオは笑って、手を軽く上げた。爪型の装備が袖の下で一瞬だけ光る。
「でも、面白い噂は聞いたよ。
“タヌキの記者が犯人らしい”って」
「面白くないです!!私、犯人じゃない!!」
「うん。知ってる」
さらっと言い切る声が、軽い。
軽いのに、その言葉だけが妙に真っ直ぐで、シノは一瞬言葉を失った。
「じゃあ、どうして……!」
「街が勝手に“見せる”からさ」
アオは階段の手すりにもたれ、指で空をなぞる。
「塔の“目”は便利だろ?
都合のいい絵を貼り付ければ、みんな納得する。
目撃も記録も、安心の材料になる」
背筋が冷える。
義手の奥で、あの“別の層”が息をひそめた気がした。
「……あなた、何を持ち出したんですか」
「持ち出すって言い方、やめてよ。
オレらは――取り返してるだけ」
アオの目が、一瞬だけ遠くなる。
その奥に、見えない痛みがちらりと覗く。
「……ミズキが、いなくなった“あと”の話だ」
アオはそこで、ちらりとシノの肩――カジカを見る。
「前に言ったのは、そっちのカエルくんにだけだったかな」
「……っ」
シノの胸が、きゅっと縮む。確かに、列車で聞こえたのは“ミズキ”という名前だけだった。
アオとミズキの間に何があったのかなんて、何も知らない。
シノは、言葉を探して――でも、出てきたのは、決めていた短い一文だけだった。
「……私も、そう。だから……」
それ以上は言えなかった。
アオはほんの少しだけ目を見開いて、そして笑った。
からかう笑いじゃない。どこか、同じ高さで頷くみたいな笑い。
「……タヌキちゃん、ほんと厄介だな」
「厄介って何ですか!」
「こっちの都合、見抜くから」
アオは手すりを蹴って立ち上がり、踊り場の影に足を滑らせた。
そこに、霧と同じ色の“隙間”が、薄く口を開けている。
階段の裏側――本来、何もないはずの場所。
「待って! 逃げないで!」
「逃げるよ。だってオレ、怪盗だし」
軽口のまま、アオは振り返って言う。
「タヌキちゃん。――鼻が利くなら、土の匂いを覚えときなよ。
あと、“安心”の音の下。そこ、穴がある」
「……穴?」
「そ。街の下には、道がある」
そう言って、アオはすっと沈んだ。
狼の尻尾だけが、最後に一度揺れて――影の裂け目が閉じる。
残ったのは、土の匂いと、ほんの少しの笑い声だけ。
遅れてタキシタが駆けてくる。
「嬢ちゃん! 無茶すんなって言っただろ!」
「アオさんが……いました」
「狼の獣人……?」
タキシタの眉が動く。ポケットの奥の似顔絵が、頭の中で重なる。
「……くそ。列車の時に、もう一歩踏み込んでりゃ……!」
タキシタは歯噛みした。
「だが今のは、証拠にならねぇ。捕まえられなきゃ噂のままだ」
シノは息を整えながら、手帳を握りしめた。
「……じゃあ、残します。噂じゃなくて、証拠を」
「……そうだ。それでいい」
タキシタは帽子のつばを押さえ直し、短く言った。
「いいか。勝手に突っ込むな。
“捕まえる”のは俺の仕事だ。
お前は――記録しろ。上書きされる前に」
シノは頷いた。
* * *
夕方。編集部。
シノが戻ると、事件部の空気は噂でふくらみ、すでに半分は“物語”になっていた。
「ブラス・バジャー、塔の下から出たらしいぞ!」
「尻尾のあるやつがいたって!」
「タヌキ……?」
「ちがいます!!」
そこへ、扉がもう一度開く。
今度はタキシタだ。隊員が一人、袋を抱えている。
「おい、事件部。結論から言う。
タヌキの嬢ちゃんの、参考人としての聴取は終わりだ。形式上の扱いも、ここで解除する」
「えっ……!」
シノの耳が跳ね、尻尾が安心でへにゃっと落ちかけて、慌てて持ち直す。
「掘削痕、工具の破片、つけ尻尾。――ブラス・バジャーの“装い”と手口だ。
それが暗がりで、耳と尻尾の“輪郭”だけ拾われりゃ……タヌキに見えたって不思議じゃねぇ」
「よ、よかったぁぁ……!」
シノが机にへたりこみ、カジカが静かにランプを点滅させる。
「冤罪晴れた。心拍数、正常域に復帰」
「カジカ、その言い方もっと優しくして!」
タキシタは一瞬だけ視線を逸らし、低く言った。
「……悪かったな。呼び方も、扱いも」
「呼び方は、ほんとにです」
「うるせぇ」
事件部の緊張が、ようやく解けていく。
その“解ける”隙間に、タキシタはもう一つ、言い残すみたいに続けた。
「……正直に言う。最初からお前を疑ってたわけじゃねぇ」
「え……」
「ただ、塔が動いてる間に外をうろつかせたくなかった。
お前、匂い嗅いだら一直線だろ。巻き込まれりゃ――今度は“参考人”じゃ済まねぇ」
「……」
「だから先に連れていった。段取りだ。……それと、保護だ」
シノは口を開きかけて、結局、息を吐いた。
「……保護のやり方が、雑すぎます」
「知るか。俺は刑事だ」
「刑事って、もっと優しくないんですか」
「優しい刑事は、長生きしねぇんだよ」
その会話に、アグサがコーヒーカップを置き、わざとらしく咳払いをした。
「……あんたがブラス・バジャーじゃないことくらい、わかってたわよ」
「えっ!?」
「じゃあ最初から言ってくださいよ!!」
「言ったら油断するでしょ。
それに――ほら、豆知識を披露するタイミング、逃すところだったし」
アグサは三白眼を細めて、指を一本立てる。
「バジャーはアナグマ。イタチ科で、タヌキはイヌ科。似て非なる動物よ」
「そんなドヤ顔で言うこと!?」
そこでカジカが、さらっと追撃した。
「ムジナって表現だと、お仲間だけどね」
「む、ムジナ……?」
シノが首をかしげると、アグサは間髪入れずに指先で机を軽く叩いた。
「ややこしい言葉を持ち出さないの。
シノ、覚え方は簡単。“バジャーはアナグマ。タヌキはタヌキ”。以上」
「全然簡単じゃないです!!」
「でも今のは、覚えたでしょ」
「……悔しいけど、覚えました」
カジカのランプが、満足そうに一度だけ点滅した。
「事件部に必要なのは、確かな事実と、確かなカフェインよ」
タキシタが鼻で笑う……寸前で、顔を戻した。
笑いが、すぐ“仕事の顔”に塗り替えられる。
「……いいか。噂は速い。速い噂ほど、刃物になる。
俺らは手続きで止める。お前らは記事で形を変えろ。刺さる前にな」
その言葉が、シノの胸に重く落ちる。
塔の下の穴。土の匂い。
“安心”の音の下にある道。
編集部のラジオが、唐突にノイズを挟んで音を出した。
『――こんばんは、ヒタカミ。
今日も、あなたを見守っています。ミチル・ウィステリアでした』
夕方なのに夜の放送。
それに誰も驚かない。タイプ音が自然に再開する。
シノだけが、背中を冷やす。
(……また)
義手の“耳”が微かに震えた。
ノイズの奥で、別の声が、ほんの少しだけ混ざる。
【――被疑者は、正常です。安心してください。】
その瞬間、シノの指先が止まった。インクが一滴、紙に落ちる。
「……アグサ先輩」
「なに?」
「私、書きます」
シノは小さく言った。
自分のために。上書きされる前の“いま”のために。
「表では“塔地下倉庫盗難の概要”。
行間に、“見せられている”を忍ばせます」
アグサが口元だけで笑う。
「いいわ。記者の仕事よ。
……前にも言ったでしょ。真実は燃料。安心は麻酔。
でも、麻酔の下でも、心臓は動いてる。
それを、あんたの言葉で書きなさい」
シノは頷き、キーに指を置いた。
歯車の音が、今日の“記録”の始まりを告げる。
窓の外では、霧の粒に照明が反射し、細い光の筋が降り始めていた。
光の雨。安心の演出。
――今日は、ラジオで予告されていない。
シノには、その光が、透明なフィルムみたいに見えた。
同じ絵を貼り付けるための膜。
(――上書きされる前に)
シノはタイプを打つ。自分の手で、自分の言葉で。
タヌキの尻尾が、机の下で小さく揺れた。
そして、どこか遠くで――短い汽笛が鳴った。
まるで、次の穴の場所を知らせる合図みたいに。
第6話 了




