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第10話 外界の息

 霧の上から降ってきた黒い点は、音だけを置いていった。

 軽い羽音。金属が空を切る冷たい音。

 蒸気でも歯車でもない――ヒタカミの外の音。

 追跡機。

 シノは走る。

 胸の前に抱えた相棒は、重い。

 さっきまで声があった場所が、いまは沈黙しか返さないから、重さが余計に「物」になる。

「……カジカ……」

 返事はない。

 返事がないのに、名前だけは口から出る。

 背後で、怒号が跳ねた。

「行け! 嬢ちゃん!」

 霧の向こうでタキシタが叫ぶ。

 その声は遠ざかる。

 シノは振り返らない。振り返ったら“捕まる段取り”が崩れる気がした。

 石畳を蹴る。

 配管の横を抜ける。

 蒸気噴出口の白を踏んで、匂いを攪拌する。

 タヌキの鼻は、追跡機の金属臭を拾った。

 霧より冷たい匂い。油より軽い匂い。

 それが背中に張り付いてくる。

【――回収、開始。】

 耳の奥で“貼り付けの声”が言う。

 今日の声は命令の形をしている。

 命令の形をした瞬間、街が「施設」になった。

「……黙れっ」

 シノは歯を食いしばる。

 泣くな。いま泣いたら走れない。

 泣くのは――後。

 路地を曲がる。

 屋根の上を影が滑る。

 赤い点滅が霧の粒を照らして、世界が一瞬だけ“検査”される。

 追跡機が、降りる。

 低い影が頭上をかすめ、石畳に影が落ちた。

 視線みたいな光が走る。

 シノは反射で義手の弁をひねる。

 パシュン!

 ワイヤーが射出され、壁の金具に噛んだ。

 身体が引かれ、シノは路地の上へ跳ねる。

 縦の動き。

 息が詰まる。

 抱えたカジカが胸に食い込み、痛い。

 シノは屋根を転がって、煙突の陰へ潜る。

 追跡機の羽音が下を通り過ぎた。

 羽音が一つ、二つ、三つ。

 数が多い。

 ――来るのが早い。

 いや、早いんじゃない。

 待っていたみたいだ。

 胸が冷える。

 カジカが止まった。

 それが“合図”になった。

 皮肉みたいに。

 シノは屋根から隣の建物へ飛び移り、さらに奥へ走った。

 目指す場所は一つ。

 油と薬品と金属の匂いがする、あの工房。


* * *


 ムジカの工房は、霧の中でも匂いだけは確かだった。

 鉄と革と、薬草の匂い。

 その匂いを嗅いだ瞬間、足が一瞬だけ止まりそうになる。

 安心してしまいそうになる。

 安心するな。

 今日の安心は、罠だ。

 シノは裏口へ回り、扉を叩く。

 叩き方なんて知らない。

 だから、乱暴に三回。

 すぐに鍵が外れた。

 白衣の上から焦げ茶色の皮エプロンを着けた男が顔を出す。

 ムジカは、霧の外よりも落ち着いた目をしていた。

「……来たか」

「先生……!」

 シノが言い終える前に、ムジカは視線を空へ投げた。

 追跡機の羽音が遠くで鳴る。

 ムジカは鼻で笑うみたいに息を吐いた。

「おーおー、派手だなぁ。……さすが“回収”は仕事が早い」

 怖い。

 余裕があるのが、怖い。

 ムジカは扉を大きく開け、シノを引きずり込む。

 そして――腕の中のカジカを見た。

 ランプは消えている。

 重い沈黙。

 ムジカの眉が、ほんのわずかに動いた。

 でも、それだけだった。

 悔しさも驚きも見せず、ただ確認するように頷く。

「……その道を選んだか」

 シノの喉が鳴る。

 何を言われたのか、わかる。

 わかるから、言葉が出ない。

 ムジカは作業台にカジカを置いた。

 置き方が丁寧すぎて、胸が痛い。

 丁寧に扱われると、余計に「さっきまで声があった」ことを思い出す。

「先生……カジカが……」

「止めたんだろう。自分で」

 ムジカは淡々と言う。

 淡々と言うのに、その淡々が刺さる。

「……どうして、そんなに……」

「知ってるからだよ。全部」

 ムジカは答えを短く切り、手を動かし始めた。

 工具を取る。治具を当てる。ネジを外す。

 迷いがない。

 “知らなかった”手つきじゃない。

「時間がない。泣くのは後だ」

 その言葉で、シノの目の奥が熱くなった。

 泣くなと言われて、余計に泣きたくなる。

 でも、ムジカの言う通りだ。

 いま泣いていたら、捕まる。

 工房の窓が震えた。

 外で羽音が増える。

 ムジカはカジカの腹側の継ぎ目に指をかけ、カチ、と封止を外した。

 青い光が、弱く漏れた。

 ――記録合金の光。

【――観測、継続。】

 貼り付く声が耳の奥で囁く。

 シノだけに。

 その声が、今日は少しだけ“焦って”いる気がした。

 ムジカは中から小さな部品を取り出した。

 薄い金属片。

 青い光が脈打っている。

「……それ……」

「お前の役に立つだろう」

 ムジカは部品をシノの義手へ向けた。

 義手の側面のパネルを開き、内部へ滑り込ませる。

 カチ、カチ。

 接続音が乾く。

 義手の小窓の奥で、青い計器が一度だけ強く光り、すぐ落ち着いた。

「これは――」

「“呼ぶ”やつだ」

 ムジカは言い切る。

 さらりと言う。

 余裕の声で。

「外に出たら、勝手に信号を出す。……拾う相手がいる」

「拾う相手……?」

 ムジカは答えずニヤリと微笑む。

 答えないのに、知っている感じだけ置いていく。

 工房の外がまた震える。

 追跡機が近い。

「先生! 追跡機が……!」

「わかってる」

 ムジカは笑う。

 腹が立つくらい落ち着いている。

 でも、その落ち着きが、シノの呼吸を取り戻させた。

 ムジカは義手のパネルを閉じ、最後に軽く叩いた。

「お前の腕が“鍵”だ」

 シノは息を呑んだ。

「……え?」

「言葉通りの意味だ」

 ムジカは真顔で言う。

 真顔で言うから、嘘じゃない。

「出口の扉は、お前の義手でしか開かない。

 外側の認証だ。……俺が仕込んだ」

 シノの頭が追いつかない。

 怖い。

 “全部知ってる”って、こういうことなのか。

「……なんで、私が」

「お前だからだよ」

 ムジカは短く言った。

 その短さが、優しさにも命令にも聞こえて、胸が詰まる。

「穴へ行け。

 アオが――待ってる」

「……アオさん?」

「段取りは、あいつの方が早い。

 団を動かしてる。……お前が合流するのは、あいつ一人でいい」

 ――団員は外に出さない。

 その言外の指示が、今のシノにはありがたかった。

 ムジカは作業台の上のカジカを見た。

 見るだけ。

 触れない。

 言葉をかけない。

 “会話”しない。

 だからこそ、余計に重い。

「……カジカは」

「置いていくんだ」

 ムジカの声は淡々としている。

 淡々としているのに、刃物みたいに刺さる。

「重さは命取りだ。

 ここなら、俺が守る。――今は走れ」

 シノは唇を噛んだ。

 置いていきたくない。

 抱えて行きたい。

 でも、カジカは“止まってまで”走れと言った。

 シノはカジカの頭を撫でた。

 冷たい。

 冷たいのに、指先は熱い。

「……迎えに来る。絶対」

 返事はない。

 ないのに、言う。

 言ってから、立ち上がった。

 ムジカが扉を開ける。

 霧の外に、冷たい羽音。

「準備はいいな」

 ムジカの声が背中に落ちる。

「お前にしか見えないものを見て、書け。――それが鍵だ」

 その言葉が、シノの胸の奥で燃えた。


* * *


 シノは走る。

 工房を出た瞬間、追跡機の影が霧を裂いた。

 赤い点滅――いや、今日は赤じゃない。

 “検査”の光が白く走る。

【――対象:シノ。移動、正常。】

 貼り付く声が鎖みたいに重い。

 シノはワイヤーを射出し、屋根に跳ぶ。

 縦へ逃げる。

 影は追う。

 追跡機は縦も横も関係ないみたいに追う。

 そのとき、霧の奥から影が飛び出した。

「タヌキちゃん!」

 低い声。

 狼の声。

 アオだ。

 フェイスペイントも、つけ尻尾もない。

 今日は団長の“顔”じゃなく、一匹の狼の顔をしている。

「……来たね」

 アオは笑わない。

 笑う余裕がない。

 でも、目はまっすぐだった。

「団は散らした。外へは出さない。

 ――出るのは、オレとタヌキちゃんだけだ」

 シノは頷いた。

 頷いて、息を吐く。

 少しだけ段取りが整う。

「出口は?」

「こっち。――横は任せて」

 アオが先に走る。

 狼の脚は横に速い。

 路地を切り、角を切り、影を踏んでいく。

 シノは縦を使う。

 ワイヤーで上へ逃げ、配管の梁を渡り、また下りる。

 縦と横。

 二本の動きが噛み合う。

 追跡機の羽音が背中に刺さるたび、シノの義手の奥が小さく脈打った。

 ムジカが入れた“呼ぶ”もの。

 ピ、……ピ。

 小さな電子音。

 ヒタカミにはない音。

「……誰を呼ぶの?」

 シノが呟くと、アオが振り返った。

「何か聞こえる?」

「……ううん。なんでもない」

 シノだけに聞こえる。

 それが、救いでもあり、孤独でもあった。

 地下へ降りる入口が見えた。

 配管街の裏。

 土の匂いが濃い。

「ここだ」

 アオが言う。

 扉の先。

 黒い板。

 歯車の紋がない。

 真鍮の縁もない。

 ヒタカミの“型”じゃない扉。

 認証部だけが青く光っていた。

「この扉は、オレの爪じゃ開かない。タヌキちゃんが持ってる鍵が必要だ」

 アオの声が悔しそうだ。

 悔しいのに、焦りが勝っている。

 シノの義手が熱を持った。

 青い計器が一度だけ強く点滅する。

 鍵穴を見つけたみたいに。

 ムジカの言葉がよみがえる。

 ――お前の腕が鍵だ。

 シノは義手を認証部へ押し当てた。

 カチ。

 乾いた音。

 次に、低い駆動音。

 黒い板が滑るように割れ、細い隙間が開いた。

 そこから――風が吹いた。

 ヒタカミに風はない。

 あるのは蒸気の流れだけ。

 なのに、この風は乾いている。

 油の匂いも鉄の匂いもない。

 代わりに、草と水の匂いがした。

 シノの目の奥が熱くなる。

「……外……?」

 アオが息を吐いた。

「……息ができる匂いだ」

 追跡機の羽音が、背中で増える。

 迷ってる暇はない。

「行こう!」

 シノが言う。

 アオが頷く。

 二人は隙間へ滑り込んだ。


* * *


 世界の色が、反転した。

 白い霧の天井が消え、空が――青い。

 天井がない。

 ガラスも鉄骨もない。

 ただ、広い青が上にある。

 風が頬を撫で、髪が揺れ、尻尾の毛がふわりと浮く。

 耳が、風の音を拾う。

 “空の音”を拾う。

「……うそ……」

 シノの声が、空に吸われていく。

 跳ね返ってこない。

 その感じだけで、涙が出そうになる。

 足元は整った舗装。

 遠くに伸びる道路。

 ガラスと光の建物群。

 真鍮じゃない。歯車じゃない。

 滑らかで、冷たくて、整いすぎた形。

 2人の煤けた身形が、異物感を放っていた。

 ――荒廃していない。

 ヒタカミが言っていた外界は、嘘だった。

 嘘じゃなくてもいいはずの嘘だった。

 信じさせるための嘘。

 その瞬間、頭上で別の羽音が鳴った。

 ヒタカミの追跡機とは違う。

 もっと軽く、もっと速く、もっと冷たい。

 黒い機体が三機、上空から降りてきた。

 白い光が走り、二人をなぞる。

 外界仕様の追跡機。見た目も性能も違うが、中身は同じ――施設の目だ。

「来たよ!」

 アオが叫ぶ。

 シノの身体が硬直する。

 撃たれる――と思う。

 だが、白い光は撃つためじゃない。

 識別。計測。

 “回収”の段取り。

【――対象:外界移行。優先回収。】

 貼り付く声が、外の空の下でも言った。

 外でも逃げられない。

 むしろ、ここで“はっきり”する。

 シノの義手の奥が強く脈打った。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 音が速くなる。

 ――呼んでいる。

 ムジカが入れたものが、勝手に信号を出している。

「タヌキちゃん、こっち!」

 アオが横へ走る。

 俊敏な横の動き。

 路地へ滑り込み、車体の影へ潜り、看板の裏へ抜ける。

 シノは縦を使う。

 ワイヤーを射出し、外壁の金具へ噛ませ、上へ跳ぶ。

 真鍮製の義手が、この整いすぎた街で異物みたいに鳴る。

 金属音が目立つ。

 目立つのに、頼るしかない。

 白い光が追ってくる。

 追跡機が追ってくる。

 外の追跡機は迷いがない。

 “仕事”の動きだ。

 シノとアオは分かれるように走り、また合流する。

 横と縦。

 噛み合う段取り。

 しかし――長くは持たない。

 この街は霧がない。

 蒸気の死角が少ない。

 隠れる場所は、ヒタカミよりずっと少ない。

「……どこに逃げれば!」

 シノが息を切らして言う。

 アオが即答した。

「オレはブラス・バジャーの団長だよ?

 ――地下だ」

 アオは一度だけ鼻を鳴らした。風の匂いを嗅いで、すぐ判断する。

「上は目が利きすぎるからね。下なら、匂いも音も溜まる。追う側の段取りが鈍る」

 外界の地下。

 配管じゃなく、滑らかな壁の地下。

 二人は排水口みたいな蓋をこじ開け、滑り込んだ。

 暗い。

 湿っている。

 でも、ヒタカミの地下ほど油臭くない。

 蓋を閉めた瞬間、上で羽音が旋回した。

 白い光が地面を舐める。

 見つけられたら終わる。

 シノの義手が、暗がりで青く光った。

 脈打つ。

 ピ……ピ……。

「……誰を呼んでいるの?」

 シノが小声で言う。

 言っても答えはない。

 勝手に信号を出し続ける。

 そのとき、義手の内部から――別の音が混じった。

 ノイズ。

 低周波のノイズじゃない。

 通信のノイズ。

『……ッ……シ……ノ……?』

 声。

 シノの喉が鳴る。

 アオが眉をひそめる。

「何だ?」

「……声が、聞こえる」

「誰の?」

 シノは答えられない。

 答えたら壊れそうで。

『……聞……こえ……る? 応……答……』

 その声は、間違えようがない。

 ずっと隣にいた声。

 報告して、突っ込んで、叱って、笑った声。

「……カジカ?」

 シノが呟く。

 呟いた瞬間、涙が落ちた。

 落ちたのに、拭けない。

 声は一瞬だけ途切れ、また戻る。

『……信号……拾ったよ。

 ……いま……向かってる。

 時間……かかる。……動かないで……いや、動けるなら……動いて』

 言い方が、あの相棒の段取りの言い方だった。

 機械の口調のまま、余裕がない。

 余裕がない感じが、逆に胸を刺す。

 シノは息を吸って、震える声で返した。

「……うん。大丈夫。……いま、ヒタカミの外だよ」

 返事は来ない。

 ノイズが増え、通信が薄くなる。

 アオが小声で言った。

「タヌキちゃん。……いまの、カエルくんか?」

「……わかんない。わかんないけど、声が、同じ」

 上で羽音が遠ざかった。

 追跡機が捜索範囲を広げたのか、旋回が少しだけ移動した。

 時間が流れる。

 外界の時間は、ヒタカミより速い気がする。

 風があるからか。

 空が広いからか。

 ――息が、重いからか。

 どれくらい経ったのかわからない。

 義手の光が一度強く脈打った。

 そして――上で、別の音がした。

 軽い音。

 でも追跡機の羽音じゃない。

 近い。

 “味方”の段取りの音。

『……いま、上。

 ……蓋、開けるよ。……出て。大丈夫』

 シノの胸が跳ねた。

 来た。

 でもまだ、見えない。

 見えないから怖い。

 次の瞬間、蓋が静かに持ち上がり、細い光が差し込んだ。

 外の光。

 霧じゃない光。

 そこに影が落ちる。

 白衣。

 眼鏡。

 長い黒髪。

「――こっち」

 落ち着いた声。

 落ち着いているのに、必死の速さ。

 シノは上へ這い出た。

 アオも続く。

 外の風が二人を撫でた瞬間、遠くで追跡機の羽音が跳ねた。

「見つかった!」

 アオが叫ぶ。

 白衣の女性は迷わず小さな装置を投げた。

 薄い膜みたいなものが空気に広がり、視界が一瞬だけ歪む。

 追跡機の白い光が、その歪みで散った。

「……何?」

 シノが呟く。

 女性は短く言った。

「認識を狂わせた。効果は短い。走るよ」

 走る。

 路地。

 整備通路の扉。

 中へ滑り込む。

 扉が閉まった瞬間、外の羽音が壁の向こうで暴れた。

 暴れて、少しずつ遠ざかる。

 歪みの膜が効いている。

 通路の奥で、白衣の女性が振り返った。

 眼鏡の奥の目が、シノを見ている。

 シノの喉が詰まる。

 言わなきゃいけない。

 でも、答えを聞いたら壊れる気がした。

「……あなた、誰……?」

 女性は一拍、息を吸った。

 そして、言った。

「私は……志摩カジカ」

 その名前が落ちた瞬間、シノの胸の奥で何かがほどけた。

 ほどけて、崩れる。

 シノは一歩前へ出て、言葉を絞り出した。

「……声が、カジカと同じ」

 志摩カジカの目が揺れた。

 揺れたのに、逃げない。

 逃げない代わりに、眼鏡の奥で涙が一度だけ光った。

「そう」

 志摩カジカは小さく笑った。

 笑いは強がりじゃない。

 痛い笑い。

「……私が――」

 そこで、言い直すみたいに一瞬だけ詰まって、

「……ボクが、カジカだよ」

 “ボク”が混じった。

 混じってしまった。

 混じった瞬間、シノの目から涙が溢れた。

「……じゃあ……カジカは」

「私が遠隔操作していたの。ずっとね」

 志摩カジカ――いや、カジカは言い切った。

 言い切ってから、声を落とす。

「でも、あなたの隣にいた時間は……嘘じゃない」

 シノの膝が震えた。

 怒るべきなのか、泣くべきなのか、わからない。

 わからないのに、身体が先に動いた。

 シノはカジカの白衣に、しがみついた。

 自分でも驚くほど必死に。

 カジカは一瞬固まり――次の瞬間、強く抱きしめ返した。

 抱きしめ方が、長い間我慢していた人の抱きしめ方だった。

「……直接、会うのは初めてね」

 カジカの声が震える。

「……あなたを、ずっと抱きしめたかった」

 その言葉で、シノの胸が痛いくらいに熱くなる。

 痛い。

 でも、息ができる痛さだ。

「……ひどいよ……」

 シノは泣きながら言った。

「ずっと……ずっと、隣にいたのに……」

「ごめん」

 カジカは短く言った。

 短いのに、謝る重さが入っている。

「ごめん。……でも、いまは時間がない」

 シノは頷く。

 頷いて、カジカの腕から離れた。

 離れたくない。

 カジカはアオに視線を向けた。

「……アオ。シノを守ってくれてありがとう」

 アオが目を細める。

「まさかカエルくんの正体がこんな美人なお姉さんだとはね」

「私は監視側の人間だから」

 カジカは言う。

 淡々と。

 淡々としているのに、胸がざわつく言葉。

「私は……ヒタカミの管理に関わってる人間。

 だから、信じなくていい」

 シノの胸が冷える。

 抱きしめられて温まった分、余計に冷える。

「……でも、助けてくれたよ」

 シノが言うと、カジカは目を逸らさずに答えた。

「助けるのは規則の外。

 ……でも、あの子を止めるところまで行った。

 そこまで行かせたのは、私の責任でもある」

 “あの子”

 カエルのカジカを指す言い方が、痛いほど優しい。

 カジカはシノの義手を見た。

 青い計器が、まだ微かに脈打っている。

「あの子での監視を止めて、私の役割は終わりだと思ってた。

でも、その義手、私に向けて信号を出していた。

 ……大方、父――ムジカが仕込んだんでしょう」

 父。

 その単語で、世界がまた少し揺れた。

 でも、今は突っ込めない。

 シノはその揺れを胸の奥へ押し込む。

 カジカは工具ケースを開けた。

 中の道具はヒタカミのものじゃない。

 細いケーブル。透明板。薄い発光素材。

 “外界の段取り”の道具。

「追跡ドローンが――」

 カジカが言いかけて、言い直す。

「……追跡機のことね。外ではそう呼ぶの」

 シノが小さく頷く。

 言葉の違いだけで、世界の違いが刺さる。

「このままだと、また狙われる。

 義手の信号は私が抑える。

 けど……あなたたちが動くなら、最低限の支援がいる」

 カジカは義手に触れようとして、止まった。

 シノの目を見て聞く。

「……その腕に載せたい機能がある。攻撃――」

 シノの身体が硬くなる。

 怖い。

 外の技術の“攻撃”は、たぶんヒタカミの爆発よりずっと簡単に人を壊す。

「……やだ」

 シノははっきり言った。

「怖い。私、使えないよ。

 傷付けるのは……怖い」

 カジカは一拍黙って、頷いた。

「わかった。攻撃は載せない」

 即答。

 迷わない。

 それだけで、少しだけ息ができる。

「代わりに、地図。通信。シールド。

 逃げるためと、守るためだけ」

 シノは頷いた。

「……それなら」

「合意」

 カジカは小さく言った。

 その言い方が、あの相棒の報告口調に似ていて、胸がきゅっとなる。

 カジカの指が義手のパネルを開く。

 中の青い核が見える。

 ムジカが移植した“呼ぶ”もの。

「これが私に届いた。

 ……よかった。まだ、役に立てた」

 よかった。

 その一言が、カジカの“素”だった。

 監視側の人間の言い方じゃない。

 十五年以上、隣で見てきた人間の言い方だ。

 カジカは透明板を義手に組み込み、薄い発光素材を掌の縁に沿わせた。

 最後に、手首の内側に小さな端子。

「――できた」

 カジカが義手の側面を軽く叩く。

 空中に、薄い光の線が立ち上がった。

 簡易地図。

 この周辺の通路。死角。追跡機の巡回。

 ヒタカミの地図とは桁が違う情報量。

 でも、表示は最低限に抑えている。

「……すごい」

「この辺の地形は全て入ってるよ」

 カジカは続けて、掌の縁に触れる。

「シールド」

 薄い膜が一瞬だけ広がり、すぐ消える。

 空気が撓む。

 見えない壁。

「これは、殴るためじゃない。

 ――守るため」

 その言葉で、シノの胸の奥の怖さが少しだけ形を変えた。

 怖いまま。

 でも、握れる怖さになる。

 カジカは最後に、小さく息を吐いた。

「……シノ。私を信じなくていい。

 でも、いまだけは一緒に動こう。段取りとして」

 段取り。

 その単語がヒタカミの匂いを連れてくる。

 痛いのに、落ち着く。

 アオが口を開く。

「これから、どうする?」

 カジカは地図ホログラムを指でなぞった。

「追跡機は施設側のもの。

 あなたたちが出たことは、もう“異常”として処理されてる。

 ――ここから先は、逃げながら情報を抜くしかない」

 シノの胸がざわつく。

 カエルのカジカは工房に置いてきた。

 ムジカは全部を知っているかもしれない。

 カジカは監視側で、でも抱きしめてくれた。

 信じていいのか。

 わからない。

 カジカは、シノの視線の揺れを見て、少しだけ柔らかく言った。

「……あなたが揺れるのは、当たり前だよ。

 でも、揺れていい。揺れながら進める」

 その言い方が、あの相棒の励まし方に似ていた。

 胸が痛い。

 カジカは続ける。

「これからは、三人で動く」

 シノとアオが同時に顔を上げる。

「シノは縦。ワイヤーで上を取って、逃げ道を作る」

「アオは横。地面を切って、追跡を引きつけて散らす」

「私は――あなたたちをバックアップする。地図と通信、攪乱と遮蔽。……裏から支える」

 言い切ってから、カジカは小さく笑った。

「相棒の段取り。……そういうの、得意でしょう?」

 シノの目の奥がまた熱くなる。

 得意だった。

 隣にいたから。

 隣で言われたから。

 でも――いま目の前にいる。

 カジカは、シノの頭を一度だけ撫でた。

 優しい手。

 機械じゃない手。

「……改めて。会えた。外で」

 外で。

 その言葉が、息みたいに胸へ入る。

 通路の奥で、遠くの羽音がまた動いた。

 追跡機は諦めない。

 施設は回収をやめない。

 それでも。

 シノは義手のホログラム地図を見た。

 光の線が、逃げ道を示している。

 逃げ道がある。

 霧の外に、逃げ道がある。

 シノは深呼吸した。

 外界の息。

 苦しい。

 でも、吸える。

「……行こう」

 シノが言う。

 アオが頷く。

 カジカが頷く。

 三人の段取りが、やっと一つになった。

 そして、風がまた頬を撫でた。

 天井のない空の下で、シノは初めて“本当の呼吸”をした。


 第10話 了


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