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第9話 蒸気レンズ塔、沈黙

 朝のヒタカミは、霧より先に“確認”が来る。

『――おはよう、ヒタカミ。

 本日の点検は、予定通り進行します。

 あなたの呼吸は、正常です。

 深呼吸を。――ミチル・ウィステリアでした』

 ジングルの終わりに、短いノイズ。

 短いのに、舌の裏に残る。砂みたいに。

 シノは窓の外の白さを見ないふりをして、机の上の包みを開けた。

 昨夜の蒸かし芋。

 義手の弁をひねる。

 シュウ、と柔らかな蒸気が立ち、甘い匂いが少しだけ戻ってくる。

「……今日は、ちゃんと食べてから行こう」

 言い聞かせるように呟いた。

 肩の上のカジカは、昨夜からずっと静かだった。

 静かすぎる。

 ランプの点滅が“呼吸”じゃなく、“我慢”みたいに見える。

「……カジカ」

「なに」

「……昨日の“止めたい”の続き、今日は――」

「……今日は、塔だね」

 先に言われた。

 言い方が、いつもの報告より少しだけ速い。

 速いのに、息を吸ってから言ったみたいな間がある。

 その間が、怖かった。

 机の上には方眼紙と、昨日までの地図。

 蜘蛛の巣みたいに伸びた線の中心に、一本だけ太い印がある。

 蒸気レンズ塔。

 中央区の、天井まで三分の一ほどの高さを持つ“光の柱”。

 ヒタカミの住人は、あの塔を“街の心臓”とは呼ばない。

 “照明設備”。

 “投影装置”。

 便利な言葉で包んで、安心して暮らす。

 シノは蒸かし芋をひとくちだけ噛み、冷ましてから飲み込んだ。

 猫舌の段取り。

 それから、手帳を開く。

《塔外周点検口/北側梯子/二股/土の匂い強》

《中央駅南側/旧作業通路/記録板多数/汽笛同期“経路更新”【観測継続】》

 紙に書いてある言葉は、現場の匂いを連れてくる。

 匂いは、上書きされにくい。

 ――だから、書く。

 玄関を出る前に、シノはもう一度だけ深呼吸した。

 “正常”と“安心”を、今日は自分のために使う。


* * *


 ヒタカミタイムス事件部。

 タイプ音がいつも通り鳴っている。

 いつも通りの空気。

 いつも通りのコーヒー。

 なのに、どこか薄い膜が張っている。

 アグサは机の上の紙を整えながら、シノを見た。

 その三白眼は寝不足で鋭いのに、声は妙に落ち着いていた。

「塔、封鎖が増えたわ」

 机の端に、赤いスタンプの告知が並ぶ。

《蒸気レンズ塔 点検区画拡大》

《換気設備整備のため 一部立入制限》

《ヒタカミ中央警察 警備強化》

 “便利な言葉”が、いつもより多い。

「……換気、また」

 シノが呟くと、アグサは肩をすくめた。

「換気は便利ね。何でも流せる。匂いも、噂も、証拠も」

 昨日タキシタが言った言葉と同じだ。

 事件部は、言葉を回す。

 アグサは引き出しから新聞紙の包みを出した。

 ほんのり温かい。

 甘い匂いが、蒸気の匂いを割ってくる。

「焼き芋」

「……アグサ先輩」

「たぬきには芋が似合うのよ」

 アグサはコーヒーを啜り、紙面を指で叩いた。

「今日の段取り。

 塔に行く。中に入る。見て、戻る。書く」

「……入れるんですか?」

「入れるように、段取りしてある人がいる」

 言葉だけで、シノはわかった。

「タキシタさん」

「そう。表向きは“捕まえる役”。だからこそ、裏が作れる」

 アグサは言い切る。

 余裕がないのに、余裕を装う声。

 事件部の“型”だ。

「それと」

 アグサは少しだけ声を落とした。

「今日、ブラス・バジャーが大きく動くって噂が来てる」

「……怪盗団」

「“取り返す”最終段階、って声明もあるみたい」

 アグサは紙を一枚、別に分けた。

 見出し案のメモ。

《塔点検拡大/警備強化/市民不安》

《噂の“穴掘り”集団/正体不明》

 紙の上の言葉は、刃物の形をしている。

「記事にしますか?」

「もちろん」

 即答。

「でも、刃の向きは私が決める。

 噂が刃物になる前に、こっちで受け止める」

 アグサは笑わない。

「だから、シノ、あんたは現場で余計なことを叫ばない。

 叫ぶなら、帰ってきてから紙の上で」

「……はい」

 シノは焼き芋をカバンに入れた。

 蒸かし芋は今朝食べた。

 胃の段取りは、二重。

 肩の上のカジカが小さく言った。

「シノ。塔の中心のノイズ……近いよ」

 “ノイズ”と言う、その声が少し震えている。

 シノはそれに気づいてしまい、気づかなかったふりをした。

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい。――戻ってきて、書くのよ」

 アグサの声が背中に残る。

「“見た”を、上書きされる前に」


* * *


 蒸気レンズ塔のある中央区は、霧が白い。

 ただ白いだけじゃない。

 光が細かい粒になって、降っているみたいに見える。

 塔の根元は、真鍮の柵と、黒い制服の警備で囲まれていた。

 胸のバッジに刻まれているのは、ヒタカミ中央警察の紋。

 シノが近づいた瞬間、視線が刺さる。

 刺さるのに、優しい顔をしている。

 “安心”の顔。

『――中央区の皆さま。点検は順調です。

 通行規制にご協力ください。あなたの呼吸は、正常です――』

 拡声器の放送が、霧に溶けていく。

 その放送の裏側で、義手の“耳”がざらついた。

【――経路、更新。】

 貼り付く声。

 今日の声は、少しだけ早い。

 焦っているみたいに。

「嬢ちゃん」

 帽子の影が、霧から現れた。

 トレンチコート。煙管。

 タキシタだ。

 いつも通り雑に現れて、いつも通り的確に刺す。

「嗅ぎに来たな」

「嗅ぎに来ました」

「素直かよ」

 タキシタは鼻で笑い、すぐ仕事の顔に戻る。

「今日はな。表では俺が“捕まえる役”だ」

 言いながら、わざと大きな声で言う。

「おい、嬢ちゃん。立入制限だ。近づくな」

 周囲の警備の視線が、タキシタに寄る。

 寄った瞬間、タキシタは低い声で続けた。

「……裏へ回れ。詰所の裏。三十歩」

「……はい」

「返事も小さく、だ」

 タキシタの視線が、シノの肩のカジカに一瞬だけ落ちる。

 それ以上見ない。

 察しすぎない段取り。

 タキシタはポケットから紙片を出した。

 硬い紙。印。

《ヒタカミ中央警察 臨時入構》

《塔管理区画 搬入経路 点検同行者》

 裏には手書き。

《詰所裏 排気口 梯子/一分だけ開く》

《音に気をつけろ》

 シノの手帳に挟む。

 指先が一瞬だけ優しく、すぐ雑に戻る。

「段取りだ」

 タキシタはわざと周囲に聞こえる声で言った。

「この嬢ちゃんは取材だ。俺が見張る。――いいな」

 警備が頷く。

 頷き方が“型”だ。

 安心の型。

 その瞬間、遠くで金属の擦れる音がした。

 ガリッ、と硬い土を削るような音。

 霧の向こうで、人のざわめきが跳ねる。

「……来たな」

 タキシタが小さく呟いた。

「ブラス・バジャー?」

「噂は噂じゃなくなる」

 タキシタは帽子のつばを押さえ直した。

「嬢ちゃん。今から俺は、お前を追う。

 追ってるふりをして、逃がす」

「……」

「そんな顔するな。段取りだ」

 タキシタは低く続けた。

「戻れない現場がある。

 戻れるように、今、動け」

 シノは頷き、詰所裏へ回った。


* * *


 中央区警備詰所の裏。

 表の光の雨が届かない。

 霧が少し濃い。

 配管がむき出しで、細い蒸気が漏れている。

 排気口。

 鉄の格子。

 その横に、古い梯子があった。

 タキシタのメモ通り。

「……ここから」

 シノが呟くと、肩の上のカジカが短く言った。

「下。強い」

「強いって、ノイズ?」

「うん。……でも、ノイズの形が“声”に近い」

 言い方が、いつもより人間っぽい。

 シノは笑って誤魔化そうとして、笑えなかった。

 そのとき。

 表から、乾いた叫び声。

 金属音。

 蒸気の噴き上がる音。

 そして、奇妙に軽い笑い声。

「――やっぱり、穴掘りだ!」

「顔、塗ってるぞ!」

「尻尾、つけ尻尾だ!」

 ブラス・バジャー。

 アナグマのフェイスペイント。つけ尻尾。金属の爪。

 街の“型”から外れた音。

 それだけで、空気がざわめく。

 タキシタの声が、表から響いた。

「止まれ! ヒタカミ中央警察だ!」

 表の対立。

 その声は大きいのに、裏の梯子へ向かう風だけは、きちんと作られていた。

 段取り。

 シノは梯子に足をかけた。

 その瞬間、義手の“耳”がざらつく。

【――対象:シノ。移動、正常。】

 貼り付く声。

 “正常”の言葉が、今日は鎖みたいに重い。

「行くよ」

 シノが言うと、カジカが小さく頷いた。

 頷き方が、機械じゃない。

 誰かが中で息をしているみたいだ。

 梯子を降りる。

 空気が冷える。

 土の匂いが濃くなる。

 油の匂いも、鉄の匂いも。

 そして、その奥に――青い金属の匂い。

 記録合金。


* * *


 地下は、音が近い。

 配管の唸り。水滴。遠い汽笛。

 でも今日は、その全部の下に“別の音”がある。

 聞こえるというより、骨に触れる。

 義手の“耳”が、勝手に絞りを探すみたいに動いた。

 ムジカがいじった角度と配線が、勝手に“正解”へ寄っていく。

「……これ」

 シノが呟くと、カジカのランプが短く乱れた。

「……やめて」

「え?」

「……近づくと、ボクの中が……」

 言葉が途中で切れる。

 切れ方が、通信の途切れじゃない。

 言いたくないものを飲み込む切れ方。

 通路の先で、金属が擦れる音がした。

 ガリ、ガリ。

 土を掘る音。

 ブラス・バジャーが、もう下にいる。

「……誰かいる」

「いる。……近い」

 カジカの声が低くなる。

「シノ。右。配管陰」

「また三秒?」

「……今度は二秒」

「短くなってる!」

 シノは配管の影に滑り込んだ。

 暗がりの向こうに、光が揺れた。

 小さなランタン。

 その光に照らされて、顔が白く浮かぶ。

 フェイスペイント。アナグマの線。

 つけ尻尾。

 金属の爪が土を掻く。

 彼らは笑っている。

 笑い方が、必死だ。

「急げ。――“取り返す”って決めたろ」

 低い声。

 狼の声。

 アオだ。

 団長。

 シノが一度だけ顔を出した瞬間、アオの視線がこちらを刺した。

 刺したのに、怒っていない。

 むしろ、痛いほど優しい。

「……タヌキちゃん」

 呼び方が、いつものそれだ。

 シノの喉が鳴る。

 声を出したら終わる。そんな気がした。

 アオは、わざと小さな声で言った。

「タヌキちゃんのその目。……ミズキがいなくなった時と一緒だ」

 その一言が、胸の奥をぎゅっと掴んだ。

 知らない名前なのに、痛い。

 痛いのに、わかる。

「相棒ってのはね」

 アオの指が、土の匂いのする空気を切る。

「ずっと一緒だと思うと折れる。

 ……折れたあとで気づく。

 “まだ間に合った”ってね」

 言葉が、忠告じゃなく、祈りみたいに落ちた。

 その瞬間、頭上で大きな振動。

 表で何かが爆ぜた。

 蒸気が噴き上がる音。

 警備の怒号。

 ブラス・バジャーが“でかい段取り”を始めた。

「行きなよ」

 アオが、視線だけで言う。

 声を出さずに。

 それが、余計に刺さる。

 シノは息を止め、配管陰から抜けた。

 音に紛れて走る。

 走る足音さえ、“安心”に整えられそうで、腹が立つ。


* * *


 蒸気レンズ塔の“心臓部”は、地下のさらに奥にあった。

 塔の根元へ向かう通路。

 配管の太さが変わる。

 空気が薄い。

 光の色が変わる。

 壁に、薄い金属板が埋まっている。

 青い光。

 刻印。

 記録板。

 それが“配管の装飾”みたいに、当たり前に貼り付けられている。

 義手の“耳”が熱を持つ。

【――安心してご利用ください。】

【――この往復は、正常です。】

 声が、壁から滲む。

 壁が喋っている。

 街が喋っている。

「……うるさい」

 シノが呟くと、カジカが硬い声で言った。

「深呼吸。シノ。絞って」

 “絞って”と言われて、シノは義手の耳の調整弁に指をかけた。

 ムジカの言葉がよみがえる。

 ――絞る。必要な時だけ開く。

 シノは弁を少しだけ閉めた。

 声が薄くなる。

 薄くなるのに、芯だけ残る。

 それが一番嫌だ。

 扉があった。

 真鍮の縁。

 中央に、大きな歯車の紋。

 蒸気レンズ塔の心臓へ繋がる扉。

 扉の横の小さな装置に、タキシタの臨時入構の紙を差し込む。

 カチ。

 音が乾いている。

 乾いているのに、背筋が冷える。

「……開いた」

 シノが言うと、カジカのランプが一度だけ強く光った。

 強い光が、怒りみたいに見えた。

 扉の向こう。

 広い空間。

 中心に巨大なレンズ機構。

 真鍮の骨格。

 歯車。

 蒸気の管。

 そして、その骨格に絡みつくように、青い金属板が無数に貼られている。

 それが、塔の“心臓”だった。

 レンズの上から、薄い光が落ちている。

 天井の投影空を支える光。

 その光の中に、見慣れない影がいくつも走る。

 数字。地図。文字。

 “カントー”の路線図。

 “他のコロニー”の名前。

 けれど、それらはふわふわしていて、掴めない。

 掴もうとすると、すぐ“安心”の膜がかぶさる。

【――観測、継続。】

 声が、ここではもっとはっきりしている。

 音が、骨を叩く。

 “安心”が、殴ってくる。

 シノの鼻が、青い金属の匂いを拾う。

 匂いは嘘をつかない。

 この心臓は、記録合金でできている。

「……これが……」

 シノが呟いた瞬間、義手の“耳”が勝手に開いた。

 開いてしまった。

 熱が走る。

 そして――映像が、頭の内側に貼り付く。

 白い霧じゃない空。

 青い空。

 広い道路。

 空を飛ぶ小さな機械。

 ガラスじゃない天井。

 天井がない。

 風がある。

 嗅いだことのない、海のような匂い。

 それが一瞬で流れ、次の瞬間、路線図の“カントー”がふっと消えた。

 消えて、代わりに――“何もない”が見えた。

 線が引かれているだけの空白。

 信じさせるための線。

 貼り付けの線。

「……嘘……」

 シノの声が震えた。

 震えた声が、ここでは小さすぎる。

 心臓は、それ以上に喋っている。

【――外界情報:貼り付け。】

【――カントー:投影。】

【――疑問:正常化。】

 “正常化”。

 その言葉が、背骨を冷たく撫でた。

 カジカの声が、いつもより低く漏れた。

「……シノ、見ちゃだめだ」

「でも……」

「見たら、戻れなくなる」

 その言い方が、機械じゃない。

 “戻れない”の意味を知っている言い方。

 シノは歯を食いしばった。

 戻れないなら、戻らない。

 ここまで来た。

 証拠は掴んだ。

 掴んだのに――これを持ち帰る方法がない。

 そのとき、心臓の奥で、別の音。

 カチ。

 小さな封止が外れる音。

 シノの視線が、カジカの腹側に落ちた。

 カジカの腹の継ぎ目が、勝手にわずかに開いている。

 昨日ムジカが触れた場所。

 そこから、青い光が漏れる。

 心臓と同じ光。

【――監視ノード、正常。】

【――対象:シノ。状態:正常。】

 貼り付けの声が、カジカの腹からも滲む。

 カジカのランプが、短く激しく乱れた。

 乱れは警告じゃない。

 ――叫びだ。

「……やめて」

 カジカが言った。

 声が震えている。

「……止めなくちゃ」

「……止める?」

 シノの喉が乾く。

 問う声が、子どもみたいに細い。

 カジカは、いつもよりずっと小さな声で言った。

「ボクの中のやつを。

 ……ボクの中にあるくせに、ボクのじゃない」

 その言葉の端が、ひどく人間っぽい。

 余裕がない。

 いつもの機械口調の奥に、余裕のない“誰か”が滲んだ気がした。

 シノは一歩、カジカに手を伸ばした。

 その瞬間、カジカが先に言った。

「……止める方法はあるよ」

 自分の段取りを言う声。

「でも、それをやると……ボクは、動けなくなる」

 シノの呼吸が止まる。

 止まった呼吸を、無理やり戻す。

 深呼吸。自分のための“正常”。

「……どういうこと?」

 シノが言った。

 言葉が、紙の上じゃなく、空気の中に出てしまった。

 それが怖い。

 怖いのに、止められない。

 カジカのランプが、ふっと柔らかく点滅した。

 その点滅が、いつもの“呼吸”に少しだけ似ていた。

「シノ」

 カジカが言う。

「ボクがいなくても、もう大丈夫だね」

 その台詞は、優しいのに、刃物だった。

 優しい顔をして、刺してくる。

「何言ってるの?……大丈夫じゃない!」

 シノの声が割れた。

 割れた声に、心臓の音が重なる。

【――疑問:正常化。】

 正常化するな。

 するな。

 腹が立つ。

 悔しい。

 カジカが、ほんの少しだけ笑った気配がした。

 笑い声はない。

 気配だけ。

 だから余計に痛い。

「……書けるでしょ」

 カジカの声は小さい。

「シノは、書ける。

 ボクがいなくても……匂いも、耳も、段取りも……」

 言葉が途切れる。

 途切れた瞬間、カジカのランプが一度だけ強く光った。

 それは――決意の光だった。

「待って!」

 シノが伸ばした指先が、カジカの腹に触れる前に。

 カジカのランプが、すっと細くなる。

 点滅が、ゆっくりになる。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 まるで、眠るみたいに。

【――監視ノード、異常。】

 心臓の声が一瞬だけ荒れた。

 荒れた声が、すぐ“安心”に整えられようとする。

 必死に、型に戻そうとする。

 カジカが最後に言った。

「……シノ。ごめん。……でも、これが……ボクの……相棒の段取り」

 そして。

 ランプが消えた。

「……カジカ?」

 シノが呼ぶ。

 返事がない。

 重い。

 腕の中の重さが、急に“物”になる。

 いつも一緒に喋っていたのに。

 いま、ただの金属の塊みたいに静かだ。

 シノはカジカを抱えた。

 胸に押し付ける。

 冷たい。

 冷たいのに、涙が熱い。

「やだ……やだよ……」

 声が、ひどく幼い。

 幼い声に、心臓の音が重なる。

【――安心して――】

 黙れ。

 黙れ。

 黙れ。

 シノはカジカを抱えたまま、しゃがみ込んだ。

 泣いた。

 鼻水が出る。

 タヌキの鼻は匂いを拾う。

 その匂いの全部が、今日は痛い。

 油の匂い。鉄の匂い。蒸気の匂い。

 そして、青い金属の匂い。

 相棒の腹の匂い。

 遠くで、地上の怒号が響く。

 警備の笛。

 蒸気の噴き上がり。

 ブラス・バジャーの笑い声。

 “取り返す”音。

 全部が混ざって、心臓がさらにうるさくなる。

 そのとき。

 扉の向こうから、足音。

 速い。

 複数。

 警備。

 追ってきた。

 心臓が“異常”を感知した。

【――回収、開始。】

 貼り付けの声が、初めて“命令”になった。

 命令の形になった瞬間、ぞっとする。

 やっぱり、ここは“施設”だ。

 シノは涙を拭き、立ち上がった。

 足が震える。

 震える足を叱る。

 段取り。

 いまは走る。

「……カジカ。行くよ」

 返事はない。

 ないのに、シノは抱えたまま走った。


* * *


 地下通路を戻る。

 配管陰。梯子。排気口。

 地上の光が、白い雨みたいに降ってくる。

 排気口を抜けた瞬間、腕を掴まれた。

「おい」

 タキシタの声。

 雑で、低い。

 それだけで、泣きそうになる。

 泣いてる場合じゃない。

 タキシタはわざと大きな声を出した。

「お前、何してた! 立入制限だっつってんだろ!」

 周囲の警備がこちらを見る。

 見る目が“安心”の目だ。

 安心の顔で、捕まえる目。

 タキシタはシノの耳元で、低く言った。

「……走れ。今から俺が“連行”する」

「……カジカが……」

 シノの声が割れる。

 タキシタの視線が、シノの腕の中のカジカに落ちた。

 一瞬だけ。

 それだけで、全部わかった顔をした。

 でも、言わない。

 言わない段取り。

「……ムジカのところへ持っていけ」

 タキシタは低く言う。

「あの人なら、どうにかしてくれるかもしれん」

 “かもしれん”が、刃物みたいに刺さる。

 でも、その刃を握るしかない。

 タキシタはシノの腕を掴み、わざと乱暴に引いた。

「歩け! 捕まったって顔しろ!」

 シノは歯を食いしばり、頷いた。

 捕まったふりの段取り。

 逃げるための段取り。

 そのとき、広場の端で、フェイスペイントの影が一瞬だけ見えた。

 アオだ。

 霧の向こうで、シノを見ている。

 アオは口を動かさず、言った。

 ――間に合え。

 そういう顔だった。

 次の瞬間。

 地面が揺れた。

 塔の根元が、低く唸った。

 蒸気レンズ塔が、ほんの一瞬だけ“沈黙”した。

 いつも聞こえるはずの、あの“安心の中枢音”が、途切れた。

 沈黙の直後。

 霧の上から、聞き慣れない音。

 蒸気じゃない。歯車じゃない。

 軽い羽音。金属が空を切る音。

 冷たい音。

 塔の上の光が、一瞬だけ乱れた。

 人工の空が、薄く割れるように揺れた。

 白い霧の向こうに、黒い点がいくつも降りてくる。

 鳥じゃない。

 ヒタカミの自律機械とも違う。

 ――空中監視機。

 いや、違う。

 あれは“追跡機”だ。

 外の世界の音。

「……何だ、あれ」

 タキシタの声が、初めて裏返った。

 一拍遅れて、喉の奥から怒鳴りが飛ぶ。

「全員、下がれ! 目を上げるな!」

 帽子のつばを押さえる手が、わずかに震えていた。

 シノは、腕の中のカジカを抱き締めた。

 冷たい。

 冷たいのに、涙がまた出る。

「……ムジカ先生のところへ」

 シノが言うと、タキシタは帽子のつばを押さえ直した。

「行け。――俺は俺の段取りで、ここを片付ける」

「……タキシタさん」

「嬢ちゃんの仕事は書くことだ」

 短い。

 短いのに、背中に残る。

 シノは走った。

 霧の中を。

 “安心”の膜を破るみたいに。

 胸に抱えた相棒の重さが、次の地図の重さになる。

 背後で、追跡機の羽音が近づく。

 その音は、蒸気より軽く、歯車より正確だった。

 冷たい音が、ヒタカミの“正常”より先に刺さってきた。


第9話 了


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