第8話 カエルの中の記録
朝のヒタカミは、霧より先に“手順”が降ってくる。
『――おはよう、ヒタカミ。
昨日のざわめきは、もう落ち着いたでしょう。
点検は順調に進んでいます。
あなたの呼吸は、正常です。
深呼吸を。――ミチル・ウィステリアでした』
ジングルの終わりに、短いノイズ。
昨日より短い。――短いのに、刺さる。
ヒタカミタイムス事件部。
シノは机の上に紙を広げていた。方眼紙。定規。インク瓶。
そして、昨日の手帳の走り書き。
「……塔外周、北側点検口。梯子。二股。土の匂い強……」
紙の上に点を打つ。線を引く。
塔を中心に、蜘蛛の巣みたいな地図が少しずつ伸びていく。
シノの尻尾が、無意識に揺れていた。
地図が増えるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
“見せられている”のなら、こちらも“書き残す”しかない。
肩の上で、カエル型ロボットのカジカがランプを静かに点滅させる。
静かすぎる点滅。昨日までより、明らかに“抑えた”光り方だ。
「……カジカ」
「なに?」
「……元気?」
「正常」
言い方がいつも通りすぎて、逆に怖い。
背後から、カップが机に置かれた。
アグサのコーヒーだ。今日も濃い。匂いだけで目が覚める。
「シノ。地図、書き起こし終わった?」
「途中です。まだ、穴の枝が……」
「枝は増えるわ。街の下は樹海よ」
アグサは三白眼を細め、紙面を指先で叩いた。
「だから今日は“幹”を確認しよう」
「幹?」
「昨日、地下で聞いたってやつよ。――“汽笛の下”」
アグサの声が少しだけ低くなる。
「中央駅。配管街。列車。
“安心”の音の下に、でかい道があるって」
“昨日、地下で聞いた”。
それ以上は言わない。
事件部は、あえて言わないことで繋ぐこともある。
シノは唾を飲み込んだ。
汽笛の下。中央駅の下。
あの指先が叩いた印が、頭の中で光る。
「……行きます」
「段取り」
アグサは即答し、引き出しから小さな包みを出した。新聞紙。ほんのり温かい。
「焼き芋」
「アグサ先輩、今日も芋神……」
「神じゃない。胃の保険」
アグサはカップを啜り、さらっと続ける。
「あと、タキシタさんに一言だけ入れときなさい。最低限」
「……また怒られます」
「怒られる方が安全」
アグサは肩をすくめた。
「怒られない現場は、たいてい戻れない」
そのとき、気送管が「ぽんっ」と紙束を吐き出した。
封筒。編集部印。赤いスタンプ。
《中央駅構内 夜間点検の延長について(告知)》
《換気設備の整備のため 一部立入制限》
アグサが目を細める。
「……便利な言葉ね。“換気設備の整備”」
シノも頷く。
塔でも聞いた。点検口でも聞いた。
包む言葉。刺さらない形。
その瞬間、シノの義手の“耳”の奥だけが、かすかにざらついた。
【――経路、更新。】
耳の奥に貼り付く声。
“聞こえる”というより、“当てられる”。
シノはペン先を止めた。
胸のざわめきが、コーヒーの匂いに吸われない。
「……」
息を吸う。吐く。
深呼吸。正常。安心。
アグサが、シノの止まった手元を見て言う。
「……また“来た”? 顔が固まってる」
「……はい。ちょっとだけ」
シノは、あいまいに笑って誤魔化す。
誤魔化すしかない。これは、シノにしか届かない。
肩の上のカジカが、淡々と付け足す。
「受信ノイズが増えた。
……でも、ボクは“声”としては取れてない。シノだけ反応が速い」
「データで言わないで……」
「事実は事実」
事件部の空気が、いつも通りのタイプ音に戻っていく。
その“いつも通り”が、今日は薄い膜みたいに見えた。
「行ってきます」
シノは地図を畳み、焼き芋をカバンに入れる。
ペンと手帳を確認し、立ち上がった。
「行ってらっしゃい。――戻ってきて、書くのよ」
アグサの声が背中を押した。
「“見た”を、上書きされる前に」
* * *
中央駅は、昼前でも霧が濃かった。
天窓から落ちる乳白色の光が、レールの上で薄く伸びている。
行き先案内板は今日も“いつも通り”の顔をしていた。
――カントー行き。
――定刻運転。
――安心してご利用ください。
シノの耳が、ぴくりと動く。
“安心”。
それはもう、ただの案内じゃない。貼り付けられた膜だ。
改札の脇。掲示板に、黄黒のロープと簡易札。
《換気設備整備のため 駅南側通路 一部立入制限》
「換気、ね」
シノが小さく呟くと、肩の上のカジカが短く言った。
「換気は正しいよ。ここは空気が少し薄い」
冗談に聞こえない。
柱の陰から、帽子の影が現れた。
トレンチコート。胸のバッジ。タキシタだ。
「嬢ちゃん」
声を掛けるタイミングが、いつも通り雑で、いつも通り的確。
「嗅ぎに来たな」
「嗅ぎに来ました」
「素直かよ」
タキシタは鼻で笑い、すぐ仕事の顔に戻る。
「封鎖の札、見たか」
「見ました。“換気”ってやつですね」
「換気は便利だ」
タキシタが低く言う。
「何でも流せる。匂いも、噂も、証拠も」
シノは手帳を握り直す。
「……タキシタさん。私、駅の下を見ます」
「だろうな」
タキシタは溜息を吐く。
「先に言っとく。単独で突っ込むな」
「カジカと一緒です」
「カエルは数に入れねぇ」
「入りますよ、相棒ですから」
タキシタはポケットから、切符みたいな紙片を出した。
裏に小さな手書き。
《駅南側 清掃用点検扉 鍵:受付裏の“予備”》
《“立入制限”は表 裏は人が薄い》
それをシノの手帳に挟み込む。
指先が一瞬だけ優しく、すぐ雑に戻る。
「段取りだ。
――俺は俺の段取りで動く。嬢ちゃんは、記者の段取りで動け」
「……はい」
タキシタは帽子のつばを押さえ直した。
「それと。今日は“音”に気をつけろ。汽笛。放送。足音。
音は、安心の顔して近づいてくる」
シノは頷いた。
義手の“耳”が、ざわりと鳴る。
【――対象:シノ。移動、正常。】
この声も、シノにだけ貼り付く。
シノは深呼吸し、駅南側へ歩いた。
* * *
駅南側通路。
人が少ない。霧が濃い。
配管がむき出しで、ところどころ蒸気が細く漏れている。
封鎖ロープの脇に、清掃用の小さな扉があった。
金属。古い。鍵穴が擦れている。
タキシタのメモ通りに受付裏へ回る。
人目を避けるように歩くと、カジカが囁いた。
「シノ。心拍数、上昇」
「上昇してない」
「事実。上昇してるよ」
「武者震いってやつだね」
受付裏の棚。工具箱。予備鍵。
鍵束の中に、紙札で「清掃」と書かれた一本があった。
鍵を回す。カチ、と乾いた音。
扉が少しだけ開き、冷たい空気が漏れた。
――土の匂い。湿った黒い匂い。油の匂い。鉄の匂い。
それが混ざって、鼻の奥に刺さる。
「……当たりだ」
シノが呟くと、カジカのランプが一度だけ速く点滅した。
「ここ、下からの信号が濃い」
「信号……」
「ノイズとしては強い。
……シノの耳の方が、もっと“拾う”」
扉の向こうは古い作業用通路だった。
金属の壁。配管。足元はコンクリ。
でも隙間に土が入り込んでいる。
奥から、時折“汽笛”が響く。
列車が動く音じゃない。
どこかの警笛が空気を震わせるだけの音。
そして、汽笛の音が鳴るたびに――
義手の“耳”の奥だけが、さらにざらつく。
【――経路、更新。】
声が、汽笛の余韻に混ぜられている。
うまい。腹が立つほど、うまい。
通路を曲がると木箱が積まれていた。
古い木箱。縄で縛られ、紙の札。
《換気設備部品》
《整備用》
便利なラベル。
箱の隙間から、青い光が微かに滲んでいる。
「……これ」
シノが手を伸ばす前に、カジカが低く言った。
「触らない方がいいよ。拾いすぎる」
「でも……」
「“耳”が焼ける」
忠告が終わる前に、シノの鼻が“匂い”を拾ってしまった。
青い金属の匂い。記録合金と同じ匂い。
シノは指先で縄を外した。
蓋が少しだけ開く。
中には薄い金属板。何枚も。
角に刻印。表面に細い傷。青い光。
「……記録板。……記録合金の匂い」
呟いた瞬間、義手の“耳”が強く震えた。
耳の奥が熱くなる。
【――安心してご利用ください。】
【――この往復は、正常です。】
【――被疑者は、正常です。】
断片が、板から漏れてくる。
笑い声、泣き声、子どもの歌。
薄い膜みたいに重なって、頭の内側に貼り付こうとする。
シノは耳を押さえた。
「……う、うるさい……」
カジカが、いつもより硬い声で言う。
「だから言ったでしょ。拾いすぎる」
カジカのランプが短く乱れた。
乱れはすぐ整えられたが、整え方が“乱暴”だった。
そのとき、足音。通路の奥。複数。速い。
「……誰か来る」
「隠れて。右の配管陰。三秒」
「三秒で!?」
「三秒」
シノは配管の影に滑り込む。
足音と話し声が近づく。
「……ここだ。箱、残ってるか」
「団長、急げって」
「“換気設備”だと。笑えるよな」
聞き覚えのない声。
駅の作業員にも似てるし、作業員のふりをした誰かにも聞こえる。
木箱の蓋ががさりと動く。
金属板が擦れる音。
シノの義手の奥だけが、また震えた。
【――観測、継続。】
シノは息を止める。
カジカのランプが、怒りを抑えるみたいに小さく点滅した。
足音が遠ざかる。箱が一つ減っている。
「……持っていった」
シノが息だけで言う。
カジカが短く言う。
「だから、ここは中継点」
木箱の中に欠けた板が一枚だけ残っていた。
端が欠け、青い光が弱い。
持ち帰れば証拠。
持ち帰れば、塞がれるのが早くなる。
迷う。
汽笛が鳴った。短い。
声が重なる。
【――経路、更新。】
迷いすら“正常”に整えようとしてくる。
腹が立つ。
「……欠片だけ」
シノは欠けた端をそっと取った。
小さい。けれど匂いは濃い。
カジカが低い声で言う。
「……それでも拾う?」
「拾う。……書くために」
「……了解」
ランプの点滅が一瞬だけ揺れた。
揺れは、同意というより――覚悟に近かった。
* * *
地上に戻ると、霧がやけに明るかった。
駅の照明が薄い粒に反射している。光の雨。
「……演出」
シノが呟いたとき、背後から声が飛んだ。
「嬢ちゃん」
タキシタだ。
いつの間にか柱の陰にいる。張り込みの人間。
「……見たか」
「見ました」
「拾ったか」
タキシタの目がカバンに落ちる。
シノは一瞬だけ詰まり、頷いた。
「欠片だけ」
「……欠片でも刃物になる」
タキシタは低く言った。
「扱い方を間違えるな。
新聞社の刃物は、よく切れる」
シノは頷く。
タキシタは帽子のつばを押さえ直し、少しだけ視線を逸らした。
「……義手、ちゃんと見てもらえ」
「え?」
「今日の顔は“耳が焼けた”顔だ」
タキシタは短く言い切った。
「お前の義手が特別なのはわかっている。しっかりと技術者に見てもらえよ」
察しすぎない。
ただ、現場の人間としての“段取り”だけを渡す。
タキシタはそれ以上言わず、霧の中に溶けた。
* * *
事件部に戻ると、アグサが机の上を片付けていた。
カップは二つ。片方は飲みかけ。
もう片方は、淹れたばかりの濃い匂い。
「……顔、死んでる。書く前にまず言いなさい」
アグサはシノのカバンを見る。
「拾った?」
「欠片だけ」
「……じゃあ、先に職人に見せましょう」
アグサは即断した。
「証拠は“熱いうちに”誰かと割るの。
一人で抱えると、胃から穴が開く」
「胃を守る……」
「さ、行くわよ」
シノは頷く。
肩の上のカジカは、さっきから静かすぎた。
静かすぎて、逆に怖い。
事件部を出る前、アグサは編集長宛てのメモを机に残した。
《取材で外回り。夕方戻り。原稿は夜に》
“型”の中で動く。
それもまた、事件部の段取りだ。
* * *
ムジカの工房は、いつも通り金属と油と薬品の匂いがした。
扉を開けると、白衣の男がこちらを見た。
「おう。今日は、霧じゃなくて“土”を連れてきたな」
言い方が軽い。
軽いのに、当ててくる。
ムジカは作業台のライトを点け、椅子を顎で示した。
「まぁ、座りなさい。シノ、腕、出して。
――アグサ、コーヒーは後だぞ」
「釘刺さないでください」
アグサが不満げに言う。
ムジカは笑うだけで手を動かし始めた。
義手のネジが外れる。配線が覗く。
ムジカの手は迷わない。
迷いがない手つきは安心する。
それが怖い。
シノは布に包んだ欠片を机に置いた。
「これ、駅の下で……」
「ああ」
ムジカは欠片を一目見て頷く。
驚かない。
“ようやくここまで来た”という頷き。
「……お前たち、辿り着いたんだな」
ムジカの声は穏やかで、どこか余裕があった。
「鼻と耳と、あと、執念で」
アグサが鼻で笑う。
「褒めてるんですか、それ」
「もちろん、褒めているよ。
ただし、現場で死なない範囲で」
ムジカは義手の“耳”ユニットの角度を少し変え、配線を差し替えた。
カチ、カチ、と小さな音。
「耳は絞る。
拾いすぎると、お前の頭が“貼り付けられる側”になる」
「貼り付け……」
「安心という名のやつだな」
ムジカはそれ以上説明しない。
説明しないのに、“知っている”だけが伝わってくる。
次にムジカの手が、カジカの腹側の継ぎ目に触れた。
治具を当てる。カチ。封止が外れる音。
カジカのランプが乱れた。
短く激しい点滅。警告というより、反射に近い。
「……」
カジカは何も言わない。
言わないまま、ランプを抑え込むみたいに点滅を小さくする。
その抑え込み方が、どこか“悔しそう”に見えた。
ムジカはカジカを見ない。
見ずに、淡々とパネルを外し、そこにあるものを取り出す。
薄い金属板。青い光。刻印。
工房の空気が、ひやりとする。
板から漏れるのは――シノの義手が拾う“匂い”と同じ種類のもの。
シノの義手の奥が、ざらついた。
【――監視ノード、正常。】
【――対象:シノ。状態:正常。】
貼り付けの声。
これは、シノだけに届く。
だからこそ、孤独だ。
シノが息を止めると、ムジカが指先で“耳”を軽く叩いた。
「深呼吸。お前の方が先に熱を持つ」
「……はい」
カジカのランプが、もう一度だけ乱れた。
そして、いつもより低い声が漏れた。
「……そんなの、ボクは知らない」
言い切った直後、カジカが黙る。
黙り方が、ただの機械の停止じゃない。
“知らない”ことに引っかかった沈黙だ。
「……ボクの中に、記録合金が」
声が、少しだけ震えている。
ムジカは板を指先で軽く転がし、淡々と言った。
「お前が知らないのは、そう作ってあるからだ」
余裕のある言い方。
「知らない方が、 “相棒”でいられる」
カジカのランプが一度だけ強く光った。
怒りとも、悔しさとも取れる光。
そして、ぽつり。
「……悔しい」
小さい。
でも、はっきりした悔しさ。
シノの胸がきゅっと縮む。
カジカは、いつも“シノの相棒”として完璧だった。
その完璧の隙間から、初めて本音みたいなものが漏れた。
ムジカは板を元に戻し、封止を閉じた。
手つきは冷静で、迷いがない。
迷いがないからこそ、全部知っているとわかる。
「発信は抑える。が、停止は出来んな。
完全に止めると、動作が止まる可能性がある」
ムジカはシノの義手を指で軽く叩く。
「耳も同じだ。ゼロにしたら、お前は“聞こえない”。
だから絞る。必要な時だけ開く」
アグサが低く言う。
「……先生。これ、記事にしたら」
「刺さるな」
ムジカは即答した。
「君らの胃にも、街にも」
そして、笑った。
軽い笑い。余裕の笑い。
でも目の奥は笑っていない。
「だから先に、地図を太くするんだ。
二人が今日見たのは“幹”だ。枝はまだある」
その言葉の途中で、シノの義手の奥がまた微かにざらついた。
【――観測、継続。】
声はシノにだけ貼り付く。
だから、シノだけが肩を強張らせる。
ムジカは何も言わない。
言わないことで、“来ている”ことを肯定する。
カジカのランプが小さく点滅した。
今度は怒りじゃない。
悔しさを噛み潰すみたいな点滅。
カジカが珍しく、シノにだけ聞こえるくらいの小声で言う。
「……シノ。ボク、止めたい」
「……止める?」
「腹の奥のやつ。
……ボクの中にあるくせに、ボクのじゃない」
言い方が、いつものカジカじゃない。
機械の報告じゃなく、胸の奥の引っかかりを吐き出すみたいな声だった。
その“らしくなさ”が、悔しさになって滲んでいた。
ムジカはカジカを見ない。
見ないまま、余裕のある声で言った。
「止める方法はある。
――ただし、その話はもう一枚、地図を描いてからだ」
段取り。
情報を小出しにするやり方。
それがありがたくて、腹立たしい。
シノは頷いた。
「……描きます。穴の地図、もっと」
「おう」
ムジカは軽く笑う。
「真実は燃料だ。
燃料は、いきなり燃やすと爆発する。
――溜めて、流して、点火しなさい」
その言葉が、背中に残った。
* * *
夕方。事件部。
戻ってきた事件部は、いつも通りタイプ音で満ちていた。
いつも通りの顔。いつも通りのコーヒー。いつも通りの“安心”。
でも、机の端のカジカだけが、いつも通りじゃない。
静かすぎる。
静かすぎて、奥で何かが沸いているのがわかる。
シノは手帳を開き、今日のことを書き始めた。
《中央駅南側:清掃用点検扉→旧作業通路→木箱(換気設備部品)
中身:記録合金多数。汽笛音と同期して“経路更新”信号。
拾得:欠片(釣り針の可能性)》
書きながら、シノはカジカを見た。
カジカは机の端を見ている。
目を逸らしているみたいに。
「……カジカ」
「なに」
「……さっきの“悔しい”」
シノが言うと、カジカのランプが一度だけ乱れた。
「……言わないで」
「言わないと、書けない」
「……書くなら、事実だけ」
「事実だよ」
シノは小さく笑って、すぐ真顔に戻る。
「カジカが悔しがったのも、事実」
沈黙。
それから、カジカが小さく言った。
「……ボクは、知らないのが嫌だ」
機械の台詞としては、不自然なくらい真っ直ぐだった。
真っ直ぐすぎて、胸に刺さる。
事件部のラジオが、唐突にノイズを挟んで音を出した。
『――こんばんは、ヒタカミ。
本日も点検は順調です。
あなたの呼吸は、正常です。
安心して――』
ノイズ。
ノイズの奥に、別の声。
【――観測、継続。】
シノの指が止まる。
インクが一滴、紙に落ちる。
どこか遠くで、短い汽笛が鳴った。
まるで次の穴の場所を指さす合図みたいに。
シノは深呼吸した。
“正常”と“安心”を、今日だけは自分のために使う。
「……カジカ。次は」
「……うん」
カジカのランプが小さく点滅する。
「次は、腹の奥のやつを止める地図」
シノは頷いた。
上書きされる前に。
相棒が相棒でいるために。
自分の言葉で、記録する。
第8話 了




