第二十話 ある村の言い伝え(一)
その昔、ある村に怪異が現れた。
それは毛が無い鼠の様な姿をし、顔が巨大な鬼灯の萼の様で、身体は一軒の屋敷程もあり、薄桃色の皮膚は皺だらけで、その間から黄褐色の汁が滴り落ちていた。
ぼとぼとと地面に零れ落ちる汁は、辺りに甘い芳香を放った。
その香りは、なぜか村の男のみを酔わせ、正気を失わせた。
放心した男達は、ふらふらとその怪異に近付いて行く。
すると怪異は、鬼灯の萼の様な顔を大きく開いた。
顔全体が巨大な口だったのだ。
その大きな口で、次々と近付く男達を飲み込んでいった。
当然、村は大騒ぎになった。
怪異は村のほぼ中央にある広場に居座り、寄ってくる男達を片っ端から平らげた。
まだ正気を保っていた男達は、鼻と口を布で覆い芳香から逃れた。
無事だった村民は、裏山へ逃げた。
人々は村を放棄する以外方法が無いのだろうかと悩んでいた時、一人の若くて美しい妖術師が現れた。
その艶やかで真っ黒な髪の毛は真っ直ぐ腰まで延び、大きく切れ長な瞳は妖艶な光を宿している。
黒い紅を引いた唇、時折ちらりと真っ赤な舌が覗く口、頬は抜けるように白かった。
巫女を思わせる白と赤の装束を身に着けていたが、何処か禍々しく感じられた。
妖術師は、身体が透けて見える、熊ほどの大きさの黒い犬を三頭連れていた。
その姿は、何処か危うく揺らめく陽炎の様であった。
「私があの化け物を捉えて差し上げましょう。その代わり、見返りは頂きますが宜しくて?」
妖術師は、村人全体を見渡しながら言った。
すると、白髪を後ろで束ねた老人が答えた。
「儂はこの村の長だ。儂らを助けてくれるなら、村にあるもの何でもくれてやるわ」
それを聞いた妖術師は、血の色をした舌で唇を舐めると、目を細め微笑んだ。
「今の言葉、忘れぬでないぞ!」
そう言うと三頭の朧な大犬と共に、飛ぶ様な早さで怪異のところへ移動した。
そして、鱈腹男達を喰って満足している怪異の前に立った。
妖術師が両手を左右に広げると、何処から出て来たのか、人の大人の胴程もある太い大縄が現れ、両側でとぐろを巻いた。
その左右の大縄の端を、二頭の朧な大犬が咥え、怪異に向かって走り出した。
そして見る間に、その大縄を二頭が交差しながら、怪異の身体に巻きつけて縛り上げた。
残った三頭目の大犬が、これまた何時出したのか妖術師の正面に現れた大縄の端を噛み、鬼灯の萼の様な顔に縄を巻き付け縛り上げ、口が開けない様にした。
ここまでの事を、妖術師はいとも容易くやってしまった。
怪異は身を捩るも、自由に動く事は出来なくなった。
これを見た村人達は歓喜し、村に戻って来た。
村の長は妖術師に駆け寄り、その抜ける様に白くか細い両手を取った。
そして、見た者すべての生気を奪いそうな美貌を見つめた。
「これはなんとお礼を言えば良いのか。本当にありがとう御座います」
そう言って、長は深々と頭を下げた。
「私との約束は覚えているわね?」
妖術師の大きく透き通った瞳が、一瞬、爬虫類の目に変わった様に見えた。
「それは勿論です。何もない村ですが、欲しいものを言って下され」
長はやつれた顔に笑顔を浮かべて答えた。
「では、この村を頂くわ」
長は口をぽかんと開け、あっけにとられた。
「村をか…」
妖術師は可愛らしく微笑むと、目を細くして長の額に自分の額を押し付けた。
長が余りの美貌を間近にし、生唾を呑んだ。
妖術師が長の顔に息を吹きかける様に言った。その息は甘い香りがし、長の脳髄を痺れさせた。
「そうよ。村を頂くのよ。あなたは今日から私の下僕ね」
そう言って、長の鼻先をちろりと舐めた。
長は顔を上気させて、その場にへたり込んでしまった。そして、すっかり魅了されてしまった。
その後、長は村人全員を集め、妖術師から渡された丸薬を全員に配った。
黒い大豆程の大きさの丸薬を大人子供の隔てなく渡し、これを呑んでおくと怪異の毒に当たらずに済むと説明し、妖術師の目の前で全員に呑ませた。
丸薬を呑んだ男達は、怪異の体液の芳香を嗅いでも平気になった。
だが、丸薬を呑んだ村人達全員が妖術師の虜となり、忠実な僕となってしまった。
この村の裏山には、昔から広い洞窟があり、その中に村の守護神を祀った小さな祠があった。
妖術師は村人達に、その祠を取り壊し奥を広げ、怪異の牢屋を作らせた。
そして怪異を牢屋に移動させる為、二頭の朧な大犬達が身体を縛り付けていた大縄を解き、顔に巻かれた大縄の端を咥えた一頭の朧な大犬が怪異を引いた。
縄を解いた二頭の朧な大犬が、怪異が蛇行しない様左右に寄り添った。
妖術師が先頭になり、横笛を吹きながら洞窟へ導いた。
怪異に目は無かったが音は聞こえる様で、その笛の音の後を追うように歩いた。
怪異を牢に入れ、顔を縛り付けていた大縄を解いた。
怪異は暴れもせず、その牢屋で大人しくしていた。
妖術師の丸薬を飲まされた村人達は、既に怪異の毒への耐性を得、忠実な下僕と成り下がっていたが、更にもう一つの大きな変化が現れた。
それは満月の夜になると、村人達は激しく発情し、誰彼構わず交わり始める様になった。
一晩中相手を変えながら交わった挙句、朝になるとその発情は治まり、翌朝まで死んだ様に眠りに就く様になった。
村ではそれまでよりも、子が産まれる様になった。
そして産まれて来た子供が男子であれば怪異に喰わせ、女子であれば丸薬を飲ませ下僕にし育てた。
怪異は産まれたばかりの男子を喰うと、どろどろとした深い青色の汁を体中の皴の間から溢れさせた。
その深い青色の体液を、妖術師は朧な大犬を使い残さず集めた。
集めたその液体を煮詰めて飴状にし、更にそれを砕いて粉末にした。
そしてそれに、まだ煮詰めていないどろどろの深い青色の汁を混ぜ、大豆程の大きさに丸めて丸薬を作った。
この丸薬は自分の為の物で、これを服用すると妖力が増し老いる事も無かった。
村人達を操る丸薬は、普段怪異が分泌している黄褐色の体液を元に作っていた。
そうして年月が過ぎてゆくと、産まれてくる男子は怪異に与えるので、必然的に村人は女が多くなり子を作ることが出来なくなってくる。
そこで今度は近隣の村々に行き、怪異が出す黄褐色の体液をばらまき、男達を酔わせ村に誘き寄せた。
当然、近隣の村から男達が居なくなってしまう。
そうなってしまった村々は衰退し、やがて滅んだ。
そんな折、一人の旅の行者が荒廃した村を訪れた。
男が一人も居ないその村に違和感を抱き、村の女に話を訊くと、ある日突然、辺りに甘い芳香が漂い始めると村中の男という男、大人も子供も夢を見ている様な顔つきになり、ふらふらと村から出て行ったという。
話をしている女の夫と息子もそうなり、幾ら声を掛けても何も返事をせず、只々夢を見ている様な顔をして歩いて行ったのだという。
必死になって止めたが止められず、そのまま後をついて行くと、ある村に着いた。
着くと熊と見間違える程の大きさの朧げな黒い犬が現れ、女に襲い掛かって来たので、怖くて必死に走って戻って来たのだという。
男達を止める為に追って行った女は大勢いたが、皆その恐ろしい大犬に追い返されたという。
話を聞いた行者は、これは怪異かもののけか、はたまた良からぬ術者の仕業ではないかと考えた。
行者は男達が向かった村の場所を聞き、立ち寄ってみる事にした。
女に黒い熊ほどの大きな犬がいると聞いていたので、先ずはその村を暫く遠くから窺った。
村の近くの少し小高くなった場所を見つけ、そこから様子を見た。
大勢の男達が村には居た。
その男達に元からいた村の女達が何かを飲ませると、今まで虚ろな顔でゆらゆらしていた男達が、正気に戻った様に見えた。
だが、不思議な事に誰一人として、故郷の村へ帰ろうとする者は居なかった。
するとそこに、遠目からでも分かるほどの妖気を纏った女が現れた。
行者はその女を見るなり、全身の体毛が逆立つのが分かった。
あの女は果たして本当に、人間なのだろうか?
行者には、人間の姿を借りた化け物にしか見えなかった。
それ程の妖気が女の全身から、赤黒い霧の様に立ち上って見えた。
すると、行者は心をざらりとしたものが撫でてゆく感触を覚えた。
反射的に、その場に身を伏せた。
感づかれたか?
這いつくばりながら、じりじりと村から離れ、ぞわぞわした感覚が無くなった所で立ち上がり、その場を後にした。




