第9話 塀のそばを歩くな
地震で倒れるのは、建物だけではない。
塀が倒れる。
門が歪む。
石灯籠が崩れる。
庭石が転がる。
人は建物から逃げ出した後、別のものに殺される。
私は屋敷の外周を歩いた。
高い塀は美しかった。道から屋敷を隠し、格式を守り、侵入を防ぐ。だが揺れれば、道側か内側へ倒れる。どちらへ倒れても、避難路を塞ぐ。
石灯籠はさらに悪かった。
重心が高く、部材が重なっている。上の笠が落ちれば、頭を直撃する。庭の景観としてはよい。避難場所の近くにある理由はない。
「移せ」
私は命じた。
庭師は石灯籠を見た。
「どちらへ」
「人の通らないところへ」
「人の通らぬ庭に灯籠を置きましても」
「地震のとき、人の通る庭に置くよりよい」
庭師は納得しなかった。
だが移した。
石灯籠は庭の奥へ集められた。そこだけ妙に趣が深くなった。家臣からは、殿は灯籠を愛でるため一か所へ集めたらしい、と評判になった。
違う。
人を潰さない場所へ退けただけである。
塀はすべて壊すわけにいかなかった。
防犯、境界、格式。塀にも役目がある。そこで避難路に面する部分だけ低くし、柱を補強し、倒れる方向を限定する工夫をさせた。
完全に倒れない塀は作れない。
ならば、倒れるときに人のいない方へ倒す。
大工はそれを聞いて、初めて私を見た。
「殿は、壊れることをお許しになるので」
「人の代わりに壊れるならよい」
建物を守るために人が死ぬのは違う。
塀を守るために避難路が塞がるのも違う。
壊れてよいものを決めておく。
現代では、そういう考え方があった。すべてを無傷に保つのではなく、壊れる箇所を制御する。私は専門家ではなかったが、概念だけは知っていた。
江戸の大工は、それを自分たちの言葉で理解した。
抜ける継手。外れる板。倒れる向き。衝撃を逃がす箇所。
彼らは、最初から壊れることを知っていた。
私だけが、壊さないことばかり考えていた。
屋敷の門も問題だった。
地震で扉が歪めば、人が出られない。平時に閉じている門を、災害時に誰が開けるか。鍵はどこにあるか。門番が死んだ場合はどうするか。
私は非常用の小門を増やした。
格式はさらに損なわれた。
大きな正門の脇に、人一人が通れる簡素な戸がつく。家臣は嫌がった。来客の目につく。盗人が狙う。門構えが悪くなる。
「災害時だけ使う」
「平時には閉じますか」
「閉じる。だが内側からはすぐ開くようにする」
鍵の構造を工夫させた。
夜でも場所が分かるよう、戸の内側に触って分かる印をつけた。丸、三角、横線。避難札と同じ形である。
また屋敷中に妙なものが増えた。
訓練の日、私は建物から外へ出るまでの時間を測った。
最初は遅かった。
人は正門へ集まった。非常口を使うことにためらいがあった。身分の高い者より先に出てよいか迷う者もいた。
「近い戸から出ろ」
私は命じた。
「殿より先でも」
「私を待って死ぬな」
それでも人は待った。
私は次の訓練で、わざと最後に出た。
家臣たちは私を待ち、結局また遅れた。
その次は、私が最初に出た。
今度は皆がついてきた。
誰も非常口を使わなかった。
私の後ろへ集まったからである。
私は腹を立てた。
「私を見るな。印を見ろ」
東湖が横で言った。
「殿が一番大きな印にございます」
否定できなかった。
人は標識より、人について動く。
それなら、人を複数作るしかない。
私は各区画に避難先導役を置いた。身分の高低ではなく、声が通り、道を知り、動ける者を選んだ。女中にも下男にも役を与えた。
反発はあった。
だが訓練では機能した。
ある若い女中が、家老より先に非常口を開けた。家老は一瞬ためらった後、彼女の指示に従った。
地震は身分を見ない。
訓練も、少しずつ身分を見なくなった。
そのことが良いのか悪いのか、私は考えなかった。
人が生きればよい。
後世には、徳川斉昭は家中の上下を越えて実務能力を重んじ、防災組織へ婦女子まで登用した、と書かれることになる。
私はただ、門を早く開けたかった。
歴史は、理由より結果を好むらしい。
訓練の帰り、東湖が新しい非常口を通った。
狭い戸だった。彼は少し身をかがめた。
「これでは、殿は通れますまい」
「通れる」
「御髷が」
私は無言で通った。
髷が鴨居へ当たった。
翌日、非常口の高さを一尺上げさせた。




