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第10話 地面は命令に従わない


 建物は命令すれば変わる。


 人も、時間をかければ少しは変わる。


 地面だけは、命令に従わなかった。


 雨が三日続いた後、南の庭へ出た。


 土は柔らかかった。足袋の底が沈み、抜くと水が滲んだ。普段は平らに見える庭が、雨の後には浅い皿のようになっている。


 ここへ地震後の避難者を集めれば、人数の重みでさらに沈む。荷車は動かない。負傷者を運ぶ戸板も泥へ取られる。火災が起きれば水は必要だが、地面が水を持ちすぎれば人が動けない。


 水は必要であり、邪魔でもある。


 私は排水路を掘らせた。


 庭師と普請方が争った。


 庭の景観を壊す。木の根を傷める。既存の水の流れが変わる。下手に流せば、隣地へ水が行く。


 私は両方の話を聞いた。


 水は低い方へ流れる。


 当たり前のことだった。


 だが、どこを低くするかは政治である。


 自分の屋敷から水を出せば、他人の屋敷へ行く。上流を整えれば下流が困る。水路を広げれば、その先も広げなければならない。


 一つの屋敷の中で完結しない。


 防災は、敷地境で止まらない。


 私は初めて、それを制度の問題として考えた。


 小石川だけを守ることはできない。神田川へ流すなら、川の容量を見なければならない。低地へ水が集まるなら、高所への道を作らなければならない。地震後に火災が起きれば、屋敷の井戸だけでは足りない。


 町が必要だった。


 いや、町だけでも足りない。


 川、道、橋、井戸、火消し、備蓄、情報。


 国が必要だった。


 私は絵図を広げた。


 小石川の屋敷だけではない。周辺の町割り、坂、川、橋。分かる範囲で書き込ませた。


 東湖は黙って紙を見ていた。


「広うなりましたな」


「屋敷だけでは足りない」


「前にも伺いました」


「今度は地面だ」


「次は何でございましょう」


「川だ」


 東湖は、わずかに息をついた。


「その次は」


「江戸だ」


「その次は」


「国だ」


 彼はもう聞かなかった。


 私は井戸の検分も始めた。


 地震後、井戸が濁る可能性がある。井戸枠が崩れる。釣瓶が壊れる。水があっても汲めない。火災時には致命的である。


 そこで井戸ごとに予備の縄、桶、滑車を置いた。井戸枠を補強し、周囲に物を置かせない。飲用と消火用を分け、飲み水は甕にも蓄えた。


 甕は倒れる。


 だから低くし、囲いをつけた。


 囲いは避難路を狭める。


 だから置き場所を変えた。


 置き場所を変えると、運ぶ距離が増える。


 だから小さな容器へ分けた。


 小さくすると数が増える。


 家中から、殿の桶と甕がまた増えた、と声が出た。


 私は気にしなかった。


 耐震灯明皿も増えていた。


 大机も増えていた。


 方杖も増えていた。


 妙な印も増えていた。


 小石川の屋敷は、私の恐怖を形にしたような場所になっていた。


 私はそれを美しいとは思わなかった。


 だが頼もしいとは思った。


 ある日、小さな地震があった。


 最初に地鳴りがした。


 低い音だった。


 私は机の下へ入った。


 家臣たちも入った。


 揺れは短かった。灯明皿は倒れなかった。火鉢へ走る者もいなかった。揺れが収まった後、火消し役だけが火元を確かめた。避難役は戸を開けた。門番は非常口を確認した。


 謁見の間の方杖が、低く軋んだ。


 落ちなかった。


 誰も死ななかった。


 小さな地震である。


 何もしなくても、死者は出なかったかもしれない。


 それでも人々は、自分が何をすべきか知っていた。


 私は机の下で、東湖の肩を見た。


「藤田」


「は」


「お前は火元へ行くな」


「私には役がございます」


「指揮役だ。動くな」


「母のいる時も」


 私は答えなかった。


 安政二年十月二日。


 その夜、東湖は母を救おうとして戻る。


 私は知っている。


 知っているのに、止められる保証はない。


「母上にも机を使わせろ」


「すでに使っております」


「避難路は」


「空けております」


「火鉢は」


「替えました」


「なら、戻るな」


 東湖は机の下で、私を見た。


「殿は、まだ来ぬ日を御覧になっておられる」


「来る」


 言ってしまった。


 東湖の目が細くなった。


 私はそれ以上、何も言わなかった。


 揺れはもう止まっていた。


 外では、役を持った者たちが動いていた。井戸を確かめ、火を見、門を開け、庭のぬかるみを避けて歩いていた。


 私の恐怖は、少しずつ他人の身体へ移っていた。


 恐怖そのものではない。


 手順として。


 私は机の下から出た。


 折上げ格天井は、方杖に支えられていた。美しさは損なわれていた。だが落ちなかった。


 後世、私は洋式の卓を早くから用いた君主として記録される。


 御殿建築に新式の補強を試みた先見的な改革者とも書かれる。


 耐震灯明皿は、斉昭形と呼ばれるかもしれない。


 どれも少し違う。


 私はただ、怖かった。


 人が死ぬのが怖かった。


 だから、怖くないふりをして命じた。


「次は川を見に行く」


 私が言うと、東湖は頭を下げた。


「御意」


 その声には、もう驚きがなかった。


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