第5話 殿の恐れているもの
私が同じ命令を出しても、東湖がいるときと、いないときでは結果が違った。
そのことに気づくまで、ひと月かかった。
私は灯明の改良を命じた。
台座を広くする。軸を低くする。油皿は浅くせず、倒れても油が広がりにくい形にする。通路の角には置かない。高い台の上にも置かない。夜間に必要な明かりは確保するが、火元の総数は減らす。
命令は明確だった。
少なくとも、私にはそう思えた。
ところが十日後、屋敷を歩くと、灯明の数だけが減っていた。廊下は暗くなり、曲がり角で人がぶつかった。低い台座は作られていない。油皿もそのままだった。
私は担当の者を呼んだ。
「なぜ灯りだけ減らした」
「火元を減らせとの仰せにございましたので」
「低くしろとも言った」
「それは、新たに作る折にと」
「台座を広げろとも言った」
「古き台を捨てるには惜しく」
「通路を暗くすれば転倒する」
担当の者は深く頭を下げた。
彼は命令へ背いたつもりはなかった。理解できた部分だけを実行したのである。
私は同じことを、もっと順序立てて言い直した。
まず必要な明るさを調べる。次に危険な場所を決める。灯明を減らすのは最後。低い台座と広い受け皿を先に作る。古いものは捨てず、火を使わない用途へ回す。
担当の者は、また深く頭を下げた。
その顔には、理解より恐れがあった。
私はさらに言葉を重ねた。明るさとは何か。歩く者が足元を見られる程度。夜中に煙が出ても出口を見失わない程度。火元を減らすだけが目的ではない。転倒と火災の両方を減らすためである。
説明すればするほど、相手の顔は固くなった。
私はそこで、東湖が不在であることを思い出した。
彼は水戸へ下っていた。藩政上の用向きで、二十日ほど江戸を離れている。
東湖がいない間、仕事が遅い。
私はそう考えていた。
違った。
東湖がいない間、私の言葉が届いていなかった。
私の命令は、私の頭の中では一つにつながっている。灯明を低くすることも、火鉢を減らすことも、井戸までの道を空けることも、すべて同じ夜へ向かっている。安政二年十月二日。地震。倒壊。出火。混乱。避難。
だが誰も、その夜を知らない。
家臣たちには、私の命令はばらばらに見える。突然、箪笥を動かし、火鉢を数え、庭を走らせ、謁見の間へ斜めの材を入れる。意味を説明しても、まだ起きていない災害は、彼らの中で一つの像にならない。
東湖だけが、像を持っていた。
未来を知っているわけではない。
私が何を恐れているかを、彼は見ていた。
東湖が江戸へ戻った翌日、私は灯明の件を話した。
彼は私の話を途中で止めず、最後まで聞いた。その後、担当の者を呼び、三つに分けて命じた。
一、夜間に用いる灯明の場所と数を改める。
二、倒れにくい台と受け皿を三種作り、試す。
三、出来のよいものへ順次替え、不要となった灯明を減らす。
私が十日かけても届かなかった命令が、半刻で仕事になった。
「なぜ私が言うと、そうならない」
私は東湖へ尋ねた。
責めたつもりはなかった。
東湖は少し考えた。
「殿は、終わりまで御覧になっておられます」
「終わり」
「灯明が倒れ、油が流れ、火が建具へ移り、人が出口を失うところまで」
「当然だ」
「皆には、まだ灯明しか見えておりませぬ」
私は黙った。
「殿は、見えぬ先を御覧になる。そのため、初めから終わりまでを一息に仰せになる。されど人は、目の前の一つからしか動けませぬ」
東湖の言葉には非難がなかった。
それがかえって私には堪えた。
私は都庁でも同じだった。棚一つの固定から、避難所、地域防災計画、帰宅困難者対策まで話を広げた。私にはつながって見えていた。周囲には、話を大きくする人間に見えていた。
転生しても、私は変わっていなかった。
変わったのは、誰も私の話を止められなくなったことだった。
「藤田」
「は」
「お前がいないと困る」
口にしてから、私は言葉を選び直そうとした。
藩政上の機能として必要である。命令の伝達効率に関わる。代替要員の育成も急務である。そう説明すべきだった。
東湖は、なぜか目を伏せた。
「もったいなき御言葉にございます」
「褒めているのではない。お前一人に依存する状態は危険だ」
「承知いたしました」
「私の命令を分ける方法を、他の者にも教えろ」
「御意」
私は安心した。
これで属人化を避けられる。
その日の午後、私は東湖の屋敷へ向かった。
依存状態を解消することと、東湖本人の安全を確保することは別問題である。彼が死ねば、他の者へ教える前に機能が失われる。したがって屋敷の検分は必要だった。
東湖の屋敷は、水戸藩邸の内部にある建物より古い部分が多かった。柱は悪くない。梁も太い。だが母の居室と聞いた一角には、増築された痕があった。屋根の重さも偏っている。避難路には家具が置かれ、火鉢から出口までの距離も長い。
私は柱を触り、床下を見せ、梁の継ぎ目を確かめた。
東湖は黙ってついてきた。
「ここへ火打ちを入れる。家具は移せ。母上の寝所は出口へ近い部屋に替えた方がよい」
「母は、長くあの部屋を使っております」
「長く使っていることと、安全であることは別だ」
「移るとは申しますまい」
「命じろ」
「私が母へ、でございますか」
東湖は初めて困った顔をした。
藩政を動かす男が、母親の居室一つを動かせない。
私は不思議に思った。同時に、少し理解した。
家族は命令系統ではない。
「説得しろ」
「殿より仰せいただければ」
「それでは、お前の母上は私の命令で部屋を追われることになる」
「私が申しても同じことにございます」
「違う」
なぜ違うのか、私は説明できなかった。
東湖は私を見た。口元にごく小さな笑みがあった。
「殿は、人の心にも筋交いをお入れになりますか」
「必要なら入れる」
「では、折れぬ程度に願います」
その返事が気に入らなかった。
人の心は、補強箇所が見えない。荷重も測れない。どこまで命じれば折れるのか、図面もない。
私は結局、母の居室をすぐには移さなかった。
代わりに避難路の家具を退け、戸を軽くし、火鉢の位置を変えた。梁には火打ちを入れ、接合部も確かめた。
十分ではない。
だが、何もしないよりはよい。
屋敷を出るとき、東湖が言った。
「私の屋敷は、これで三度目にございます」
「前の二度とは見る場所が違う」
「江戸中で、私の屋敷だけがそれほど危ういのでございましょうか」
「少なくとも、私が知る限りでは」
東湖は、またあの小さな笑みを浮かべた。
「左様でございますか」
私は何もおかしいことを言っていない。
藤田東湖が死ねば、藩政上の損失は大きい。避難誘導能力も高い。主人公である私の命令を、人が従える形へ変えられる者は、今のところ彼しかいない。
私情ではない。
そう結論づけながら、私は帰り道で、次に東湖の屋敷を検分する日を考えていた。




