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第6話 小石川は安全ではない


 小石川という地名を、私は現代でも知っていた。


 地震時には避難場所となる。建物が少なく、火災から逃れるには都合がよい。大規模な延焼が起きたとき、密集した町家の中にいるより、広い敷地へ逃げた方が生き残る可能性は高い。


 だが、広いということと、安全であるということは同じではない。


 神田川が増水すれば、低いところへ水は集まる。現代の地図には浸水域が色で塗られていた。避難所であり、浸水想定区域でもある。その矛盾を、私は昔から気にしていた。


 火から逃げるには正しい。


 水から逃げるには、正しいとは限らない。


 災害は一つの顔をして来ない。


 私は屋敷の絵図に、地面の高低を書き入れさせた。


 普請方は最初、建物の修理とは関係がないと思ったらしい。屋根、柱、梁、壁。彼らの仕事は、目に見える構造を扱う。地面は、その下にあるものとして一様に描かれていた。


 だが地面は一様ではない。


 雨の後にぬかるむ場所。井戸を掘れば浅く水が出る場所。昔は窪地だったところへ土を入れた場所。石垣の下に水が回る場所。庭の池から水が染み出す場所。古い水路を塞いだ跡。


 私はそれらをすべて聞いた。


 屋敷の者は、よく知っていた。


 大工より庭師が知っていることがあり、庭師より下男が知っていることがあった。雨のたびに水が溜まる道。冬になると霜が長く残る場所。荷車の轍が深く沈む場所。


 役職の低い者ほど、地面に近い。


 私は彼らの話を一枚の絵図へ集めた。


 東湖は、私が何をしようとしているか尋ねなかった。私の指示を、調査の順序へ変えた。雨天の翌日に巡検する。井戸の水位を測る。古老に増水時の流れを聞く。門から高所へ至る道を確かめる。


 数日後、絵図には水の線が現れた。


 屋敷の北側は比較的高い。南東へ行くほど低くなる。庭の一部は広いが、水が集まりやすい。避難者をそこへ集めれば、火災には強い。しかし大雨と地震が重なれば、ぬかるみ、転倒し、井戸水も濁る。


「避難場所を三つに分ける」


 私は言った。


 火災時。水害時。建物倒壊時。


 同じ場所へ逃げる必要はない。


 家臣たちは困った顔をした。避難とは、屋敷の外へ出ることだと思っていたらしい。私も大人になって、自分で防災について調べるまで、そう思っていた。だが避難とは、危険から離れることであって、場所の名前ではない。


「火が出たときは空地へ。水が上がるときは高い方へ。建物が崩れたときは、塀と屋根から離れろ」


「三つとも起きましたならば」


 戸田が尋ねた。


「その時は、最も早く死ぬものから逃げる」


 答えてから、あまり良い説明ではないと思った。


 だが事実だった。


 水はすぐには人を焼かない。火は待たない。倒れる瓦も待たない。危険には順序がある。


 東湖はそれを家臣へ言い直した。


「初めに身を守り、次に火を見、最後に水の行方を見る。殿はそう仰せである」


 私は何も言わなかった。


 私が言ったより分かりやすかった。


 避難路には、色の代わりに形の違う印をつけた。火災時は丸。水害時は三角。倒壊時は横線。夜でも手で触れれば分かるよう、木片の形を変えた。


 また家中から不満が出た。


 殿が屋敷中へ妙な札を貼り始めた、と。


 私は気にしなかった。


 災害時、文字は読まれない。煙の中ではなおさらである。形なら指で分かる。


 初めての複合訓練では、ひどいことになった。


 板を鳴らして地震を告げ、その後に火災を知らせ、さらに南の庭へ水が入ったと仮定した。家臣たちは丸印と三角印を見間違え、女中たちは一度出た建物へ荷物を取りに戻り、火消し役は水害時の高所へ桶を運んだ。


 東湖だけが、中央に立って人を分けた。


 私はその様子を見ながら、彼が死ぬ未来を考えていた。


 東湖がいると、人は動く。


 だからこそ、東湖がいない場合を作らなければならない。


「次は藤田を外す」


 訓練の後に私が言うと、東湖は少し驚いた。


「私を、でございますか」


「お前がいなければ崩れる仕組みは、仕組みではない」


「では私は、どこに」


「負傷者役だ」


 東湖は黙った。


「倒れて動くな」


「承知いたしました」


 翌月、東湖は庭に横たわった。


 家臣たちは彼を助けるべきか、指示を待つべきか迷い、最初の半刻を失った。


 その半刻を見て、私はさらに役割を分けた。


 避難を指揮する者。火を消す者。負傷者を見る者。門を開ける者。外から来た者を受け入れる者。


 そして、指揮者が倒れた場合の次順位。


 東湖は地面に横たわったまま、私の命令を聞いていた。


「殿」


「何だ」


「私はいつまで死んでいればよろしいので」


 私は周囲を見た。


 まだ誰も東湖を運んでいなかった。


「家臣が自力でお前を助けるまでだ」


 東湖は目を閉じた。


 その日、彼は夕方まで死んだままだった。


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