第35話 東湖がいない
東湖が、いない。
国元の御用で、水戸へ立った。十日、戻らぬという。
いない、と気づいたのは、評定の席だった。
家臣が揃い、私が口を開き、いつものように、命じた。継手の二号を、長屋の主だった所まで広げよ。替え布の在庫を数えよ。点検の役を、東湖の不在の間、誰へ移すか決めよ。
言い終えて、席が、動かなかった。
いつもなら、ここで誰かが動く。私の長い言葉が、期限と担当を持った形に、ほどけていく。それをほどく者が、今日は、いなかった。
私は、自分の命令が、丸い塊のまま、宙に浮いているのを見た。
いつも、誰かが、これを切り分けていた。
その誰かが、いない。
惜しい、と斉昭が言った。
惜しい、という言葉では、足りなかった。身体は、東湖の不在を、もっと生々しく感じていた。右腕がない。声が、半分しか届かぬ。あの男なくして、どうやって屋敷を動かす。身体は、ほとんど、寂しがっていた。
山下は、それを、こう言い換えた。
代替要員が、いない。
指揮系統の、要が、抜けている。藩政の継続上、損失が大きい。だから、不在に備えねばならない。これは、私情ではない。
私情ではない、と思おうとした。
「戸田」
「は」
「東湖の役を、お前が割れ」
「私には、人足と金と、家中の不満がございます。命令を切り分けるのは、東湖の手でございました」
「では、誰が切る」
戸田は、若い右筆と、現場の大工頭を呼んだ。
三人で、私の塊を、つつき始めた。
継手の二号は、まず出口の上の梁から。替え布は、火元近くの者の分を先に数える。点検の役は、区画ごとに、いつも回っている者へ。
切り分けは、東湖ほど、速くなかった。
順番を、二度、間違えた。
それでも、塊は、ほどけた。
昼過ぎ、長屋の継手の現場へ出た。
若い大工が、古い梁へ二号を当てようとして、手を止めていた。
「どうした」
「この梁は、古うございます。硬く打てば、初号のように、割れまする。先を逃がして、釘を散らして……落ちてからでは、遅うございますゆえ」
落ちてからでは、遅い。
それは、私が、何度も言ってきた言葉だった。
私は、その大工に、それを言った覚えがなかった。
誰かが、誰かへ、伝えていた。私の口から、職人の口へ、また別の職人の口へ。私の知らぬ所で、言葉が、歩いていた。
私は、何も言わずに、その場を離れた。
東湖がいなくても、塊は、ほどけた。遅かったが、ほどけた。私の言葉は、私のいない現場で、若い大工の口から出ていた。
屋敷は、私一人で、動いているのではなかった。
いつか、私がいなくなっても。
そう考えて、それが、恐ろしいのか、心強いのか、分からなかった。
その夜、私は、東湖のいない帳面を繰った。
助かる側の数は、減っていなかった。東湖がいなくても、屋敷は、昨日と同じだけ、人を助ける形をしていた。
いない方が、よく分かることがある。
この屋敷が、もう誰か一人のものではないこと。
そして、私が、その誰か一人を、思いのほか、待っていること。
あと、一年と三か月。
明日も、東湖は、帰らない。




