第34話 何も起きなかった
点検の日に、事件はない方がよい。
月に一度、屋敷中の備えを、ひとつずつ見て回る日を決めていた。
水桶の蓋、縄、水量。井戸の予備縄と予備桶。札の形。非常口の戸。机の脚。灯明皿。金物の継手。頭巾の替え布。避難路に物が置かれていないか。
朝から、役の者が、帳面を手に回った。
異常なし。
水桶の蓋は閉じ、縄は毛羽立っておらず、井戸の予備は揃い、戸は開いた。机は据わり、灯明は倒れず、継手は軋まず、避難路には、物がなかった。
頭巾を被る訓練もした。子供は、もう紐を間違えなかった。
何も、起きなかった。
退屈だ、と斉昭が言った。
備えは満ち、家中は静まり、誰も倒れず、誰も叫ばない。攻めるべき敵もなく、討つべき夷狄も、この庭にはいない。身体は、この静けさが、我慢ならなかった。戦う相手のない日は、烈公にとって、空白だった。何か起こってくれ、と身体の奥が、疼いた。
山下は、その疼きを、恐ろしいと思った。
何も起きない日が、一番よい日だ。
備えが効いている時、備えは、何も語らない。揺れなかった柱は、自分が立派だったとは言わない。落ちなかった瓦は、礼を求めない。使われなかった予備縄は、ただ、巻かれたまま掛かっている。
誰も感謝しない。
誰も気づかない。
それでよかった。
東湖が、帳面を閉じた。
「殿。本日は、書くことがございませぬ」
「ないのが、よい」
「お喜びになればよろしいのに、ずいぶん不景気なお顔で」
「喜んでいる」
「左様には、見えませぬ」
「直す所が、今日は、なかった。それが、喜びだ」
私は、巻かれたままの予備縄を、一本だけ、手に取った。
去年、これがなくて、川へ行けなかった。今は、二本ある。掛かったまま、使われていない。
使われなかった。
よかった。
それを、声に出さずに言って、縄を戻した。
何も起きなかった日の帳面は、白いままだった。
白い帳面を、私は、悪くないと思った。
ただ、最後に一行だけ、書いた。
——東湖、明後日より、水戸へ。




