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第3話 揺れている間は火へ行くな


 火を消せと命じれば、人は火へ近づく。


 当然のことである。


 だが地震の最中に火へ近づけば、熱湯、油、炭火、倒れる家具、崩れる壁のすべてに身体を差し出すことになる。揺れているあいだは身を守り、揺れが収まってから火を始末する。現代では、それほど難しい指示ではない。


 江戸では難しかった。


 家は木でできている。屋根も、建具も、家財も燃える。火事は日常の災害であり、人々は火を見れば消しに走るよう教えられていた。特に大名屋敷では、失火は個人の不始末では済まない。家中の面目に関わる。


 その習慣へ、揺れている最中は火へ行くな、と命じる。


 私自身、言いながら不安になった。


 訓練は中庭で行った。


 火鉢を三つ、灯明を五つ、湯の入った鉄瓶を一つ置いた。実際に火を使えば危険なので、火鉢には灰だけを入れた。灯明にも油は入れていない。


 屋敷の者たちは、何をさせられるのか分からない顔で並んでいた。


 私は木板を打ち鳴らす役を置いた。板の音を地鳴りに見立て、揺れの始まりとする。揺れているあいだは柱や低い家具の近くで頭を守る。音が止んだ後、決められた者だけが火元へ向かう。残りは避難路を開け、幼い者と足の悪い者を誘導する。


 理屈としては簡単だった。


 一度目の板が鳴った。


 全員が火鉢へ走った。


 私は目を閉じた。


 火へ向かうなと、直前に説明したばかりだった。にもかかわらず、三十人ほどが一斉に火鉢へ殺到し、互いの肩を押し、裾を踏んだ。避難役に定めた者まで火箸を奪い合った。足の悪い老人だけが中庭に取り残された。


 火は出ていない。


 訓練である。


 それでも習慣は、命令より速かった。


「やり直す」


 二度目は、火鉢の近くに立つ者をあらかじめ遠ざけた。


 板が鳴った。


 今度は半数が火鉢へ走り、半数はその場へ伏せた。伏せた者の上を、火へ走る者がまたいだ。老人はやはり置かれたままだった。


 三度目。


 四度目。


 五度目。


 少しずつ、火鉢へ走る人数は減った。だが音が鳴るたび、誰かが必ず火へ向かった。理由を聞くと、皆、同じように答えた。


 火事になれば恐ろしいから。


 恐ろしいから、今すぐ消さねばならない。


 私はその答えを責められなかった。


 恐怖を感じたとき、身体が先に動くことを、私は知っていた。東京で震度四の揺れがあった夜、私は靴も履かずに廊下へ出た。避難経路を確認するためだった。冷静な行動だと思っていたが、足の裏を切ってから、冷静ではなかったと知った。


 備えとは、恐怖をなくすことではない。


 恐怖に、別の動きを覚えさせることである。


「板の音が鳴ったら、火を見るな」


 私は命じた。


「火を見れば、身体がそちらへ行く。柱を見ろ。足元を見ろ。頭を守れ。音が止まってから、火を見ろ」


 皆が頭を下げた。


 分かったかどうかは分からない。


 六度目の板が鳴った。


 一人だけ、また火鉢へ走った。


 若い女中だった。火鉢へ手を伸ばし、周囲から引き戻された。彼女は青ざめ、震えていた。


 私は怒鳴らなかった。


「なぜ行った」


「申し訳ございませぬ」


「理由を聞いている」


 女中はなかなか答えなかった。やがて、火事で親を亡くしたと小さな声で言った。


 私は言葉を失った。


 怖いなら備えればいい。私はそう考えていた。怖いものを見据え、手順へ分解し、役割を決めればよいと。


 だが彼女にとって火は、手順ではなかった。


 音も、熱も、煙も、過去から現在へ一度に戻ってくる。そのとき火鉢を消さずにいられない身体を、命令一つで変えられるはずがなかった。


「この者を火消しの役から外せ」


 私が言うと、女中はさらに青ざめた。


「お役に立てぬ者として、でございましょうか」


「違う。別の役を与える」


 私は中庭に置かれた老人を見た。


「避難の先導をせよ。火を見ず、人を見る役だ」


 彼女は顔を上げた。


 その表情が安堵なのか屈辱なのか、私には読み取れなかった。ただ次の訓練で、彼女は火鉢へ走らず、老人の腕を取った。


 成功と呼ぶには小さかった。


 だが防災とは、たいていその程度の成功を積み重ねる仕事である。


 訓練が終わるころ、東湖が来た。


 彼は朝から別の評定に出ていたため、訓練を見ていなかった。中庭には乱れた灰と、何度も走った足跡が残っていた。


「いかがでございました」


「全滅だ」


 私が答えると、東湖は中庭を見回した。


「死人は出ておりませぬ」


「本番なら出ている」


「本番ではないから、出ぬうちに改めるのでございましょう」


 私は彼を見た。


 その通りだった。


 東湖は訓練の記録を受け取り、私の命令を聞いた。揺れているあいだは身を守る。収まった後に火元へ向かう。火消し役、避難役、門を開く役を分ける。不在時の代役も決める。


 私はさらに、夜間、雨天、強風時、来客中の場合を加えようとした。


 東湖は紙の端へ何かを書きつけた。


「何を書いた」


「まず月に二度、と」


「月に四度だ」


「人は一度に覚えませぬ」


「二度では身体が覚えない」


「四度では、訓練を嫌うことだけを身体が覚えます」


 私は反論しようとした。


 できなかった。


 東湖は私が恐れているものを理解していた。その上で、私より人間を知っていた。


「三度だ」


「御意」


 彼はすぐに書き改めた。


 妥協のように見えたが、おそらく彼は最初から三度にするつもりだったのだろう。


 夕方、遠くで大きな音がした。


 荷車が石へ乗り上げただけだった。


 屋敷の者たちは一斉に柱を見た。


 誰も火へ走らなかった。


 私は少し安心した。


 その直後、台所から煙が上がった。魚を焦がしただけだった。


 今度は全員が火へ走った。


 訓練は、まだ始まったばかりだった。


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