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第2話 壁がない


 壁がないという事実は、私の想像より深刻だった。


 正確には壁はある。柱と柱のあいだを土壁で塞いだ箇所もあった。しかし人が暮らす主要な部屋は、襖、障子、板戸で連なっていた。開けば広間になり、閉じれば小部屋になる。それは生活にも儀礼にも適した仕組みであった。風を通し、人を通し、身分の違いまで通した。


 そして揺れも通す。


 翌朝、私は小石川の屋敷を歩いた。


 供は多かった。私が廊下で立ち止まるたび、後ろの列も止まった。私が柱へ触れるたび、大工が青ざめた。良い材か悪い材かを裁かれると思っているらしい。


 私は材を責めるつもりはなかった。


 木は悪くない。柱も悪くない。襖も障子も、それぞれの役目を果たしている。ただ、この屋敷全体が、安政二年十月二日の夜にどう動くかを知らない。


 私だけが知っている。


 それは知識というより、期限だった。


「この箪笥を固定したい」


 最初に選んだのは、奥向きの部屋にあった大きな箪笥である。背丈は人の肩を越え、上には箱が積まれていた。地震時には前へ倒れ、出口を塞ぐ可能性が高い。


 大工は箪笥を見てから、私を見た。


「どちらへ、でございましょう」


「壁へだ」


 大工は壁を見た。


 そこには襖があった。


 私は反対側を見た。障子だった。背面は板戸で、開ければ廊下へ通じる。


 固定する壁がない。


 都庁で配布した資料の図が、頭に浮かんだ。L字金具で家具と壁を留める。突っ張り棒を天井へ当てる。寝室には背の高い家具を置かない。どれも間違ってはいない。ただし、その図には必ず石膏ボードかコンクリートの壁が描かれていた。


 江戸の屋敷は、資料の外にあった。


「柱へ留めますか」


 大工が遠慮がちに言った。


 私は箪笥と柱の位置を見た。留めれば建具が開かなくなる。


「開かなくなる」


「はい」


「なら、ここへ置くべきではない」


 それが結論だった。


 箪笥を低いものへ替え、重い品は下段へ移す。上に箱を積ませない。寝所と避難路には背の高い家具を置かない。固定できないなら、倒れても人を塞がない配置にする。


 私はそう命じた。


 簡単な命令に思えた。


 ところが箪笥はただの家具ではなかった。誰の持ち物であるか、どの部屋に置くべきか、奥向きの秩序と深く結びついていた。箱の中身にも格式があり、衣装にも季節があった。低い箪笥へ替えれば収納量が減る。別室へ移せば女中の動線が増える。上へ積むなと言えば、しまう場所そのものが足りなかった。


 安全は、空間を使う。


 私は知っていたはずだった。避難通路を広げるには、そこへ置かれていたものをどこかへ移さねばならない。備蓄倉庫を設ければ、別の用途の部屋が失われる。安全は何もない場所から生まれない。


 それでも、殿の命令なら人は従う。


 奥向きの女たちは、私が通ると深く頭を下げた。顔を上げないので、誰が不満を持っているか分からなかった。ただ、箪笥を運ぶ者の足取りだけが重かった。


 私は不満を聞き取る方法を持たなかった。


 都庁ではアンケートがあった。説明会があった。苦情窓口があった。誰も本心を言わないとしても、言わないための書式だけはあった。


 ここでは、私が尋ねれば、皆が「ありがたき仰せ」と答えた。


 それは合意ではない。


 命令が通ったというだけである。


 昼過ぎ、普請方から屋敷の絵図が届いた。大工たちは部屋ごとの柱、梁、屋根の構成を説明した。私は一つずつ聞いた。材の太さ、継手、増築の時期、地盤の高低、井戸の深さ。分からない言葉は聞き返した。大工は最初こそ恐れていたが、私が材木の良し悪しを責めず、構法の理由を尋ねていると分かると、次第に話すようになった。


 屋敷は一つの建物ではなかった。


 建て足され、つなげられ、用途を変えられた建物の群れだった。古い部分と新しい部分があり、重い屋根と軽い屋根があり、地盤の硬さも違った。一枚の絵図の中に、複数の時代が重なっていた。


 私は少し安心した。


 複雑であるということは、危険が多いということである。同時に、手を入れる場所も多い。


 夕刻、東湖が戻った。


 彼は私が命じた調査を、項目ごとに紙へまとめていた。火鉢の数。灯明の数。井戸。水桶。夜間の詰番。奥向きの人数。足の悪い者、病人、幼い者まで記されていた。


 私は紙を受け取り、最初から読んだ。


 不足があった。


「水桶の位置がない」


「数のみでは足りませぬか」


「夜に煙が出れば、人は見慣れた場所へしか動けない。数があっても、場所を知らなければないのと同じだ」


 東湖は黙って私を見た。


「井戸からの距離も要る。誰が運ぶかも決める。火が出たとき、全員が消しに走れば逃げる者がいなくなる。逆に全員が逃げれば、火は広がる」


「では、役を定めます」


「役だけでは足りない。役の者が不在の場合も決める」


 私はさらに続けようとした。


 火災時の指揮命令系統。夜間と昼間の違い。風向。延焼遮断。避難者の受け入れ。負傷者の集積場所。井戸が崩れた場合。門が開かない場合。


 東湖は私の言葉を途中で遮らなかった。


 そのかわり、私が息を継いだところで、静かに言った。


「まず、水桶の位置から改めます」


 私は口を閉じた。


 正しい。


 私はまた、一度に全部を言おうとしていた。


「それから井戸までの道を測り、火消しの組を定めます。夜間の手順は、その後に」


「地震は待たない」


「されど、人は一度に覚えませぬ」


 反論だった。


 家臣が私へ反論したのは、転生してから初めてだった。


 私は腹を立てなかった。むしろ少しだけ安心した。反論がなければ、私の命令が現場へ届いているか確かめられない。


「いつまでにできる」


「水桶は三日。井戸までの道は七日。火消しの組は十日」


「遅い」


「では、殿御自身が十日のところを七日になさいますか」


 皮肉なのかどうか、分からなかった。


 私は紙へ目を戻した。


「八日だ」


「御意」


 東湖は頭を下げた。


 翌日、屋敷の水桶には位置が定められ、井戸までの道には物を置かないよう命が出た。私が一度に口にした命令は、東湖の手を通ると、期限と担当を持った。


 人が従える形になったのである。


 その夜、私は寝所の箪笥がなくなっていることに気づいた。


 代わりに低い箱が二つ置かれていた。部屋は広くなった。出口も見えやすい。


 壁はないままだった。


 だが、倒れるものは減った。


 私は初めて、この屋敷で少し眠れると思った。


 眠りに落ちる直前、廊下を誰かが走った。


 私は跳ね起きた。


「火か」


 外から答えがあった。


「いえ、御用の使者にございます」


 私はしばらく起きたまま、暗い天井を見ていた。


 二年四か月。


 まだ地震は来ない。


 しかし、来ないという保証は、一日分もなかった。


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