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第1話 地震は年度を考慮しない


 目を覚ましたとき、まず天井を見た。


 知らない天井だったからではない。天井というものは、目を覚ましたら確認することにしている。照明器具の形、直上の梁、落下しそうなもの、頭を守れる家具までの距離。眠っているあいだ、人は最も無防備になる。だから私は、ホテルでも友人の家でも、寝床へ入る前に天井を見た。


 その天井は高かった。


 黒ずんだ太い材が、白い面を区切っていた。吊り下げ式の照明はない。棚もない。落下物は少ない。だが安心するには早かった。柱との接合部が見えない。壁は壁ではなく、ほとんどが建具であった。開口部が多すぎる。地震時に変形を受け止める面が少ない。


 私は起き上がろうとした。


 身体が重かった。熱があるのかと思ったが、そうではない。寝具が重く、着物も重く、髷のある頭が妙に引かれた。何より、手が私の手ではなかった。肉厚で、指は短く、爪の形まで違った。


 近くで人が息を呑んだ。


「殿」


 殿、と呼ばれたことはなかった。


 都庁では山下さんと呼ばれていた。係長になってからも山下さんだった。課長補佐が私を呼ぶときだけ、少し声が低くなった。私が何かを言えば、たいてい仕事が増えるからである。


 私は寝床の脇に並んだ人々を見た。皆、頭を下げていた。人数は七人。出口は三つ。うち二つは襖。右端の男は五十代、体格はよいが片膝の動きが悪い。中央の男は四十代前半、立ち上がりが速そうで、非常時には他人へ指示を出せる。左奥に火鉢。炭火は残っている。寝床から一間半。揺れれば灰が飛ぶ。


「火鉢を下げろ」


 自分の声が思っていたより大きかった。


 人々が一斉に顔を上げた。中央の男がすぐに火鉢へ向かった。判断が速い。火箸を使い、炭を灰へ埋める。火鉢そのものを運ぶ前に、火を落ち着かせた。悪くない。


「殿、お気分は」


「それより、ここはどこだ」


 七人の沈黙が、部屋を一回りして私へ戻ってきた。


 質問の仕方が悪かったらしい。現在地を尋ねるときは、相手が答えられる粒度を指定すべきである。


「江戸か。それ以外か」


「小石川のお屋敷にございます」


 中央の男が答えた。声に迷いがなかった。


 小石川。江戸。殿。


 私は自分の膝に置かれた手を見た。袖には家紋があった。葵である。


「年は」


「嘉永六年、六月二十二日にございます」


 私はもう一度、天井を見た。


 嘉永六年。西暦に直せば、一八五三年。日付が正しければ、浦賀へ黒船が来た直後である。安政江戸地震までは、およそ二年四か月。


 二年四か月。


 都庁で耐震改修を二年四か月で完了させようとすれば、まず予算要求の時点で一年を使う。設計、入札、議会説明、関係部署との調整を経ているうちに、二年四か月など消える。だが、ここでは私は殿であるらしい。


 それがどの殿なのかが問題だった。


「鏡を」


 鏡が運ばれた。


 そこには、五十を過ぎた男がいた。眉が太く、目つきは厳しい。顔色はよくない。私が黙って見ているだけで、周囲の者たちはさらに頭を低くした。


 私はこの顔を知っていた。


 徳川斉昭。


 水戸藩主。烈公。攘夷。海防。安政の大獄。徳川慶喜の父。


 そして安政江戸地震では、小石川の水戸藩邸が大きな被害を受ける。藤田東湖が死ぬ。


 中央の男を見た。


 四十代。骨格が太い。眼差しはまっすぐで、こちらの異変を心配しながらも、他の者より一歩前へ出ている。


「名は」


 男は一瞬だけ表情を止めた。


「藤田虎之助にございます」


 藤田東湖。


 私は彼の死因を詳しく知らなかった。ただ、地震で死ぬことだけは知っていた。母を救おうとして倒壊した家へ戻った、という話だったかもしれない。確信はなかった。


 防災担当者として、最も扱いに困る種類の情報である。日時は分かる。被害も分かる。だが個別の発生機序が分からない。対策の優先順位を決められない。


 二年四か月しかない。


 いや、二年四か月もある。


 私は寝床から立とうとした。身体がよろめいた。東湖が腕を差し出したが、私はその手より先に、柱へ手をついた。


 柱は太かった。表面には古い傷があり、乾燥していた。悪くない材だった。しかし良材であることと、建物が地震に耐えることは同じではない。


「この屋敷の図面はあるか」


「絵図ならば」


「普請方を呼べ。大工もだ。井戸の位置、火消し道具の数、火鉢と灯明の総数、屋敷に住む者の人数、夜間の詰番も調べさせろ」


 東湖は私の顔を見ていた。


「ただちに、でございますか」


「地震は年度を考慮しない」


 言ってから、この時代には年度という概念が通じないと気づいた。


 しかし誰も尋ね返さなかった。


 東湖は深く頭を下げた。


「御意」


 その一言で、七人が動き出した。


 都庁では、私が棚の固定を一つ提案するだけで、所管が違う、予算科目がない、今年度は間に合わないと三つの返事が来た。ここでは、意味の分からない言葉を口にしても、殿の命令として人が走った。


 私は初めて、自分が恐ろしい立場へ来たことを理解した。


 何でもできる、と思ったのではない。


 何かを見落としたとき、その責任を他人へ返せない。


 私が命じなければ、この柱は補強されない。私が順序を誤れば、人は間違った火へ走る。私が黙れば、二年四か月後、ここで誰かが死ぬ。


 誰かではない。


 藤田東湖が死ぬ。


 東湖はもう部屋を出ようとしていた。私はその背へ声をかけた。


「藤田」


「は」


「お前の屋敷の絵図も持ってこい」


 東湖は、わずかに首を傾げた。


「私の屋敷も、でございますか」


「お前も地面の上に住んでいるだろう」


「仰せの通りにございます」


 彼は疑問を残したまま退いた。


 私はもう一度、部屋を見回した。


 出口は三つ。うち二つは襖。火鉢は下げられた。頭上に落下物はない。だが壁がない。


 壁がない。


 私はその事実を、しばらく理解できなかった。


 東京都の耐震対策資料には、家具を壁へ固定せよと書いてある。


 ここには、固定する壁がなかった。


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