第24話 川へ着いてしまった
今日こそ川へ行く。
飛石を避ける道がある。橋は戸板を通す。灯籠は隅にまとまり、朝日を受けている。水桶の蓋は閉じ、柄杓は定位置。南井戸には予備縄と予備桶、札は丸。門の木札に触れ、門番は私を特別扱いしなかった。
私は屋敷を出た。何も起きなかった。
「戻られますか」
「なぜだ」
「何も起きませぬので」
「進む」
門外の道は、屋敷内より狭かった。二人並ぶと肩が触れる。蓋のない溝が片側に走り、荷車が一台止まれば、人は脇を通れない。
「道幅を測れ」
坂は思ったより急で、乾いた今でも草履が前へ滑る。道端に水桶が置いてあった。屋敷で見たばかりの光景だが、これは水戸家の桶ではない。勝手に動かせない。
「火の用心の水か。いつ替えた」
町人が困った顔をした。私は聞き方を誤った。藩士ではない。私の命令の外にいる。蓋を開けると、水は半分、底に泥が溜まっていた。
「火が出たら誰が運ぶ」
「皆で」
「決まりは」
「火が出れば、皆でございます」
仕組みではなく、善意だった。善意はある。だが誰が何をするかを、その時決める。屋敷の中も、最初は同じだった。違うのは——この町は、私が直せない。
曲がり角の先から荷車が来て、正面でぶつかった。下げる場所がない。一軒の門口へ退いて、ようやくすれ違った。
「地震の後、荷車が壊れて止まれば」
「通れませぬな」
「塀が倒れても、火で人が逆へ逃げても」
「さらに通れませぬ」
東湖の答えが早かった。屋敷の中で、何度も見たからだ。一つの出口。一つの橋。一つの縄。一つの道。一つしかないものは、平時には足りる。壊れた時に、初めて、一つしかなかったと分かる。
坂を下ると土地が低くなり、溝に水が淀んで、曲がり角で泥と藁が詰まっていた。
「この水はどこへ行く」
「川へ」
「詰まれば」
「道へ溢れ、低い家へ」
私は足を止めた。屋敷の排水を良くすれば、水は早く下へ集まる。自分の敷地から追い出した水は、誰かの前へ行く。私は川を見る前に、川へ流す水を増やそうとしていた。
「殿、戻りますか」
調べたいものが、坂の途中にいくつも見つかっていた。山下なら、ここで立ち止まり、優先順位を付け直す。意地で前へは進まない。
意地は、斉昭だった。一度こうと決めたら、誰にも止めさせぬ。烈公の強情が、いま、私を坂の下へ押していた。
その強情に、私は初めて、礼を言いたくなった。
「進む。今日は川へ行く」
視界が開けた。川があった。着いてしまった。
思っていたより狭く、水面は静かだった。船が行き、岸に人が働き、橋を荷車が渡る。水がある。火災時には頼りになる。同時に、橋が落ちれば道を断ち、河岸が崩れれば人を呑み、溢れれば低地へ入り、船着場へ殺到すれば岸が詰まる。
「橋の幅、河岸の高さ、船着場の数、井戸との距離。大雨でどこまで水が上がるか聞け」
供が動き出した。東湖だけが残った。
「ついに川へ。御満足で」
「問題が多すぎる」
屋敷の天井から始めた。柱、梁、戸、長屋、井戸、門、隣家、道、坂、排水、そして川。弱点は、直すたびに外へ続いていた。屋敷は、屋敷だけでは存在していなかった。
「絵図を広げろ。この辺り全部だ」
東湖は静かに笑った。
「川へ着かぬ方が、安く済みましたな」
*
屋敷へ戻ると、川沿いの絵図の上へ、別の報せが重なった。
異国船。
その二文字で、報告の前から、腹の底が熱くなっていた。海の向こうの夷狄が、神州の岸へ舳先を向けている。それだけで、理由を数える前に、許せない。山下は、こうではない。来航、上陸、避難。怒りは項目にならない。斉昭の身体は、異国船を、憎んでいた。
持て余しながら、捨てがたいとも思った。恐怖は人を動かしにくい。憎しみは、動かしやすい。地震へ向けられぬ熱が、海へなら向く。使えばいい——と考えて、考えたこと自体が後ろめたくなった。
「異国船の方が、まだ扱いやすい。人が動かすものには目的がある。読めれば、備えられる。地震は、敵ですらない」
そこへ、反射炉で鋳た試作砲の報告が来た。
「鋳上がったか。割れは」
「目立ったものはございませぬ」
「撃ったのか」
「火薬を減らして一発。砲身に割れはございませんでした」
「よいではないか」
言ってから、自分の声が弾んでいた。鉄を溶かし、一門の砲を成した。海の備えが一歩進んだ。その喜びは、山下のものではない。躍っていたのは、斉昭だった。この身体は、砲を、愛している。私はその熱に乗りかけて、留まった。
家臣が、額を上げなかった。
「申せ。咎めぬ」
「門を、通りませぬでした」
「何が」
「大砲が。砲車へ載せますと、車輪が門柱につかえます」
「外で載せろ」
「試みて、砲身を落としかけました」
異国船はまだ来ていない。こちらはすでに、門で砲を落としかけている。
「ほかには」
「試射の折、瓦が落ちました。鋳砲所の門より七枚、番所より三枚」
「負傷は」
「番所詰めが一名、額を切りました。命に別状はございませぬ」
「門外は」
「鋳砲所に近い町家より、二十三枚」
七枚。三枚。二十三枚。
三十三枚。
火薬は、見込みの半分にも満たなかった。それで、三十三枚が落ちた。
私は机上の、昨日見た家並みを思い出した。軒が近い。道が狭い。家々が道へ屋根を差し出している。地震の後、火から逃げて外へ出た者の頭上へ、それが落ちる。家が倒れなくても、人は死ぬ。
「落ちた瓦を集めよ。どこに載っていた何が、どう落ちたか。落ちなかった屋根も調べろ。家主の許しを得て、屋根職人を連れて行け。傷めたところは直せ。費えはこちらで持つ」
「大砲の話でございましたな」
「今も大砲の話だ。撃った結果だ」
東湖は何かを書いた。あとで見ると、『御砲試験に伴う屋根改良一件』とあった。私より役人らしい題だった。
その日は、斉昭の日だった。異国船に憤り、反射炉を急がせ、門も通らぬ砲を撃たせた。私はその熱を、止められなかった。半分は、止めたくなかった。
だが、その熱が落とした瓦を、私は数えた。斉昭が撃った一日から、山下は、瓦三十三枚と、門一つ分の幅を拾った。烈公の熱で遠い海を睨むより、その熱の落とした瓦を一枚拾う方が、私の性に合っていた。
夜、私は帳面を繰った。
屋敷の中では、ほとんどの者が助かる側にいる。塀を越えた五つの屋敷も。
だが今日、川までの町を、私は見てしまった。
軒の触れ合う路地。半分の水しか入らぬ桶。誰の命令も届かぬ、善意だけの火消し。その頭上に載った、留めの緩い瓦。
助かる側の数を、屋敷の人数で数えていた。
町という分母を、私は今日まで、数に入れていなかった。
入れた途端、私の積み上げた数は、見渡すかぎりの瓦屋根の前で、惨めなほど小さくなった。
異国船は、海から来る。見張れば分かる。大砲は、撃つ時を選べる。
だが瓦は、揺れた時に落ちる。誰の頭上へ落ちるかを、選ばない。
安政二年十月二日。あと一年と六か月。
この身体は、攘夷を思い、家督を思い、天下を思う。あの夜の日付だけは、知らない。知っているのは、間借りしている私ひとり。
私は、誰にも言えない暦を、背中の後ろで繰った。
町の屋根は、葺き替えられない。道は、広げられない。住人へ、命じられない。
ならば、せめて。
落ちる瓦の下を通る、その頭の方を、守れないか。
庭に並んだ三十三枚の瓦を、私は、もう一度見た。




