第23話 一つしかないものは、壊れて初めて一つと分かる
今日こそ川へ行く。徒歩で行く。
そう命じると、側近が反対した。駕籠が用意され、馬が二頭、護衛が増え、測量、絵図、筆記、先導、町方への先触れ、飲み水、替え草履——気づけば供は二十人を超えていた。
「減らせ」
「既に減らしております」
「どこがだ」
「通常の御外出よりは」
藩主が少人数で歩くというのは、私が一人でコンビニへ行くのとは違うらしい。
違うと思っているのは、家臣だけではなかった。この身体も、供のない外出を、裸で歩くように感じていた。供回り、駕籠、馬。斉昭にとって、それらは見栄ではなく、身体の続きだった。一人で坂を下る殿は、殿ではない。
山下にとって、供は障害物だった。私は、自分の身体を減らそうとしていた。
南門へ着くと、その前を、私の駕籠が塞いでいた。退けさせると馬が驚き、口取りが宥め、後ろの供が止まり、長屋から出た女中が通れず立ち止まる。門前が詰まった。
「全員、動くな」
止めると、詰まり方がよく見えた。駕籠、馬、供、荷、見送り、門番、そして中央に私。
「私が邪魔だな。答えろ」
東湖が静かに言った。
「殿がお動きになりますと、人も物も殿の周りへ集まります。——殿が、最も大きな障害物にございます」
周囲が息を止めた。
「そうだ」
誰も東湖を止めなかった。正しいからである。
災害時に首長が現場へ出る。それ自体は悪くない。だが警護と報告と視察対応で現場の人員を奪えば、首長は対応の中心ではなく、災害になる。前世でも見た。偉い人が来るため動線が規制され、最も忙しい者が、最も忙しくない者へ説明する。
「駕籠を戻せ。馬は一頭。見送り不要。藩主が移動しても、避難路を優先しろ」
「殿より避難する者を先に通せと」
「私を待って焼け死ぬ方が不忠だ」
乱暴な理屈だった。だが忠義を使わなければ、忠義で人が止まる。
午後、訓練をした。私が門へ向かうのと同時に、避難者役が来る。門番は一瞬迷い、そして私を止めた。
「殿、しばし御待ちを」
「よい」
女中、子供、老人役が先に抜け、私は最後に出た。指揮も同じだ。代行を決めても、殿が動けば皆が殿を見る。一つしかない頭は、倒れれば全部が止まる。
*
翌朝、また徒歩で門を出た。供は六人。駕籠も馬もない。門前は空いていた。ついに、屋敷の外へ三十間。
後ろから呼び戻された。
「殿、南井戸の縄が切れました」
私はその場で目を閉じた。
「予備は」
「ございませぬ」
「なぜ」
「これまで切れませなんだゆえ」
東湖が咳払いをした。
「笑うな。戻るぞ」
切れた縄の先で、釣瓶桶が井戸の底へ落ちている。縄は途中から毛羽立ち、黒ずんでいた。
「昨日、擦れを報告した井戸ではないのか」
「あれは東井戸。南は、縄は繋がっておりました」
繋がっていることと、使えることは違う。戸が閉まることと、地震後に開くことが違うように。井戸縄は、切れていなかった。切れる寸前だった。
桶一つ、縄一本。それで井戸一つを使えると思っていた。単純な仕組みは部品が少ない。部品が一つ壊れるだけで、全部止まる。
「すべての井戸に、予備縄を二本、予備桶を二つ、鉤を一つ。交換の基準を決めろ。毛羽立ち、細り、硬化、異臭。日数でも替える。古い縄は井戸へ戻すな」
飲用と消火を、使い方で分けた。札に形を付ける。飲用可は丸、消火のみは三角、使用不能は交差した棒。夜に触っても分かるよう、縁を変えた。
壊れてから直すのではない。壊れる前に替える。防災の大部分は、派手な工事ではなく、その繰り返しだった。
「明日は川へ行く」
「承知。明日は何が切れますかな」
「何も切れない」
今日も川へは行けなかった。
井戸には水があった。だが縄一本が切れただけで、その水は、地の底にないのと同じになる。
その夜、帳面を繰った。代行を決め、門の詰まりを解き、井戸の単一障害を二重にした分、助かる数は、また上がった。屋敷の中だけで言えば、もう、ほとんどの者が、助かる側にいる。
屋敷の、中だけで言えば。
私はまだ、門の外の道を、ろくに見ていなかった。




