第22話 空から落ちるものを減らす
今日こそ川へ行く。
口にはしなかった。言うと何かが起きる気がした。黙って支度し、黙って庭を渡り、黙って水桶の脇を抜けた。
南門まで、あと二十間。
乾いた音がして、目の前へ瓦が落ちた。
川へは行けなかった。
一枚だけだった。軒先から滑り、地で二つに割れている。風もない。揺れてもいない。
「地震なら何枚落ちる」
「屋根次第にございます」
最も正しく、最も役に立たない答えだった。
重い瓦屋根は、地震に弱い。だが江戸では火に強い。板葺きへ替えれば軽くなるが、飛び火に弱くなる。倒れにくくして、燃えやすくするわけにはいかない。
「軒先の瓦を留めろ。避難路は軒下から外し、建物から離れた線を引け」
「庭を通ります」
「通せ」
「昨日、ようやく庭道を」
「さらに広げる」
庭がまた削られる。削られると感じたのは私ではなく、この身体だった。灯籠を退け、庭道を作り、また広げる。斉昭の目が、わずかに惜しんだ。山下は、惜しまなかった。
軒下を離れると、今度は庭木の枝が頭上へ張り出していた。
「枯枝と裂け目のある枝を落とせ。生きた枝をすべて切れば木が弱る」
「定期に見る基準を」
「枯れ、裂け、傾き、屋根への接触。書け」
大工と庭方を並べて、屋根と木を同時に見せた。大工は枝が瓦を擦ると言い、庭方は雨垂れが根を削ると言った。互いの担当だけ見ていた時には、出なかった話だった。
*
数日後、川へ行こうとした朝は、風が強かった。
「延期なさいますか」
「しない。川は風の日にもある」
屋敷の塀沿いを歩くと、塀の外から伸びた枝が落ちた。腕ほどの、枯れた枝。子供なら倒れる。火事の最中なら、後続が詰まる。
隣地の木だった。幹は向こう、枝だけがこちらへ越えている。
「切れ」
「他家の木にございます。家格が」
家格、という言葉に、腹の底が応じた。御三家の塀へ他家の枝が越えている。本来なら向こうが詫びて切るべきだ、と斉昭は思った。
風は、家格を待たない。
隣家は、先日の合同訓練に参加した家だった。東湖が使者に立つと、留守居役が来て、枝を見てすぐ頭を下げた。
「御迷惑を」
「責めてはいない。こちらの木もそちらへ出ていよう。互いに危ないものを指摘しよう」
双方の庭方が塀を挟んで木を見た。片方だけ切れば樹形が偏り、風で倒れやすくなるという。根が塀を押している木もあった。
「塀も見る。避難路沿いの重い上部を軽くし、控えを付け、倒れるなら敷地の内側へ倒れるようにしろ」
訓練の取り決めに、越境した枝と塀の相互点検を加えた。隣家は、嫌がらなかった。むしろ、自家の塀の図面まで持ってきた。
風はさらに強くなった。屋敷内では、固定したはずの水桶の蓋が飛び、門前の縄飾りが絡んで、触って区別する印が一塊になっていた。
「川は」
「風の日の問題を先に見る」
戻る途中、東湖が空を見上げた。
「川へ行く日には、よく風が吹きますな。昨日は縄が切れ……いや、それは明日でしたか」
「まだ切れていない」
「左様で。楽しみにしておきます」
その日のうちに、蓋には二重の留めを付けた。門の印は、風で絡む縄から、形は同じで絡まぬ木札へ替えた。塀の亀裂には印を付け、毎月測ることにした。
風は、普段は見えない弱点を、動かして見せる。蓋も、枝も、札も、瓦も、静かな日には問題がない。問題がないのではない。動いていないだけだった。
今日も川へは行けなかった。
だが、空から落ちるものを、いくつか減らした。
帳面の数は、また少し上がった。塀を越えて、隣家の頭数の幾人かが、初めて、助かる側へ入った。
あと一年と九か月。




