第21話 川へ行くには、まず庭を渡らねばならない
今日こそ川へ行く。
門外の道を下り、坂を測り、井戸と火元を確かめ、そのまま川まで出る。供も減らした。絵図も、間竿も揃えた。
川へは行けなかった。
庭で、小姓が転んだからである。
「どこで転んだ」
彼は飛石を指した。雨上がりの石に、薄く苔が生えている。草履で普通に歩くぶんには問題ない。
「昨日は転ばなかったな」
「昨日は、飛石を避けて参りました。今日は、殿がお急ぎでしたゆえ」
私は黙った。
私が急ぐと、周囲も急ぐ。藩主が川へ行こうとするだけで、若者が庭石で転ぶ。
東湖が横を向いた。
「笑うな」
「川はまだ遠いと思いまして」
庭を見回した。飛石は一列に続いている。雨の泥を踏まずに歩くための道だ。風情もある。歩く速さを自然に落とす。
避難には向かない。一人が慎重に歩く道であって、何十人も同時に抜ける道ではなかった。
「避難路を別に作れ。石は残し、その脇を平らにする」
庭方が顔を上げた。強い男だった。大工とは違う方向に強い。
「砂利は散ります」
「縁で躓きます」
「庭の趣が損なわれます」
「では、地震の後、煙の中で、子を抱き、後ろから押されながら、その趣を見て歩けるか」
庭方は黙った。
私は飛石を見た。趣は分からなかった。石は石だった。
だが、この身体は分かっていた。石の間合い、苔の色、歩が落ちる心地。斉昭の目には、それが見えていた。山下の目には、妨げにしか見えない。
何でも安全の名で平らにすればよいわけではない。そう思えたのは、借りた目のおかげだった。
その時、池の小橋で人が詰まった。一人ずつしか通れぬ橋で、下男と女中が譲り合っている。平時なら礼儀、避難時なら渋滞だった。
「橋をもう一本架ける。戸板が通る幅で。夜に触れて縁が分かる欄干を付けろ」
「庭の景色が二つに割れます」
「人の流れも二つに割れる」
庭方は深く息を吐いた。敗北ではない。計算を始める息だった。
避難路の曲がり角には、背の高い石灯籠が立っていた。揺れれば倒れる。倒れずとも、夜に走れば肩をぶつける。
「これは移せ」
「名のある石工の手に成る名石にございます」
「倒れれば同じだ。危ない灯籠は庭の隅へまとめろ」
その午後、大小の灯籠が一角に並んだ。私には石屋の展示にしか見えなかった。
東湖はしばらく眺めた。
「後世、殿がことのほか灯籠を愛された証と申されましょう」
「避難路から退けただけだ。記録に残せ。灯籠を愛したのではない、と」
東湖は笑った。
*
庭道を作った翌日、その庭道を、水桶が塞いでいた。
「なぜここにある」
「殿の御命令にございます」
正しかった。私が、火が出たらすぐ水を掛けられるよう、辻ごとに置かせた。そのうち二つが、避難路へ張り出していた。
「壁へ寄せろ」
「蓋が開きませぬ」
「向きを変えろ」
「柄杓が取りにくくなります」
火消方も強い。この屋敷には専門家が多い。皆、自分の担当する危険だけを見ると正しい。正しいもの同士が、通路の上で衝突する。
「持ってみろ」
下男二人が満水の桶を担いだ。十歩で草履が滑り、水の半分が地へ流れた。
「これで火元まで運べるのか」
火消方が黙った。
水は、あるだけでは火へ届かない。重すぎれば運べず、場所が分からなければ使えない。
「大桶は運ばぬ。壁際へ固定して水を溜めるだけにする。隣へ小桶を並べ、井戸から火元へ満水を手渡しで送り、空桶は脇を戻せ」
所謂、バケツリレーである。言葉はなくとも、仕組みは作れる。
十人を半身に並べ、受ける手と渡す手を決めた。今度は早かった。だが女中は重いと言い、老人役は腕が上がらず、子供は水を撒いた。
「小桶を二種にする。力のある者用と、軽いもの。軽い桶は回数で補え」
「同じ大きさの方が揃って見えます」
「火は揃い方を見ない」
昼までに、桶の配置はすべて変わった。床には、こぼれた水が避難路へ流れぬよう溝を掘った。
「この水は、いつ替える」
誰も答えなかった。
「毎朝、蓋と縄と水量を見る者を決めろ。月に一度替え、替えた水は庭へ撒け。——苔の飛石には撒くな」
庭方が遠くで顔を上げた。東湖がまた横を向いた。
「本日の川は、水桶でお止まりになりましたな。御自身で置かれた桶で、御自身の川を止められた」
「火を止めるためだ」
今日も川へは行けなかった。
その夜、頭の中の帳面を繰った。あの夜——安政二年十月二日——に、この屋敷で助かる側へ渡れる者の数。庭で転ばず、橋で詰まらず、桶が道を塞がぬ分だけ、数は、先月よりわずかに増えていた。
半分を、ようやく越えたところだった。
窓の外で、軒の瓦が、風もないのに、小さく鳴いた気がした。




