第20話 雨の夜に正門は開かない
三度目の合同訓練は、雨の夜に行った。
正門は使えないことにした。南井戸も使えない。東湖は負傷者役とした。
「また私が死ぬので」
「今回は死んでいない。脚を折った」
「少し軽くなりましたな」
「口は動くな」
東湖は戸板の上へ横たわった。雨が顔へ当たった。
「屋根の下ではいけませぬか」
「本番の負傷者は天気を選べない」
「殿もお選びになれませぬ」
私は雨の中に立った。
灯りは最小限にした。火を増やせば訓練そのものが火災を起こす。
合図の半鐘が鳴った。
最初に揺れ。次に長屋の一角で出火。正門閉塞。南井戸使用不能。隣家から避難者が来る。さらに、北の避難場所は雨でぬかるみ、一部使用不能。
条件を読み上げた書役が、途中で息を切らした。
「殿、まだございますか」
「今はない」
訓練が始まった。
手近な戸が開いた。人々は伏せた。揺れが収まった合図の後、火元担当が動いた。
東湖は動かなかった。代行の戸田が指揮所へ入った。
正門へ向かった者は、通行止めの横線印を見て非常戸へ回った。前回は狭かった非常戸が、今は人二人分に広げられていた。
隣家の避難者は共通の避難印に従った。水戸家の丸印と混同する者はいなかった。
南井戸へ走った火消し役は、使用不能札を見てすぐ甕へ向かった。大桶で北井戸から汲み、小桶の列へ渡す。取手の太さは揃っていた。暗闇でも二本の刻みが分かった。
家族照合所では、一人の老人の札がなかった。家族は戻ろうとした。確認役が止めるのではなく、待つ場所へ案内した。捜索役が二人で長屋の外周を回った。老人は裏戸の前で転んでいた。実際には転倒役である。戸板で運ばれた。
東湖の戸板と並んだ。
「私はまだ脚を折っておりますか」
「黙れ」
雨脚が強くなった。南庭の一部に水が溜まった。避難先導役は高い側へ人を寄せた。甕の囲いは腰掛けになり、老人と子供が座った。持出袋は出口を塞がなかった。
猫の籠が一つ転がった。中の猫が鳴いた。持ち主は戻らず、近くの者が拾った。
すべてがうまくいったわけではない。
一軒の裏戸が湿気で開かなかった。梃子の置き場所を知らない者がいた。隣家の一人が、半鐘の打ち方を取り違えた。火消し桶が一つ、洗濯場に残っていた。避難札が雨で滲んだ。東湖を運ぶ役が、彼を重すぎると訴えた。
「それは記録するな」
東湖が戸板の上から言った。
「記録せよ」
私は答えた。
それでも人は動いた。
誰か一人の声を待たなかった。東湖がいなくても、戸田が指揮した。戸田が火元へ目を向けている間は、各区画の先導役が人を動かした。女中が家老より先に非常戸を開けた。足軽の子が、濡れて見えない札を裏返し、刻みを触って避難先を確かめた。下男の権助が、井戸縄の擦れを訓練前に報告していたため、縄は切れなかった。
小さな報告が、雨の中で、人を生かしていた。
避難完了は、最初の夜間訓練より半刻以上早かった。火元の制圧も早かった。負傷者役は全員運ばれた。東湖も運ばれた。
私は戸板の上の彼を見下ろした。
「起きてよい」
「脚は治りましたか」
「訓練は終わった」
彼は起き上がり、濡れた髪を払った。
「裏戸が一枚開かなかった」
「されど、隣の戸から出られました」
「札が滲んだ」
「刻みで分かりました」
「桶が一つなかった」
「なくても水は回りました」
私は黙った。
一つ壊れれば、すべてが崩れる仕組みではなくなっていた。
雨の向こうで、隣家の者たちが水戸家の空地へ集まっていた。
水戸家の者と同じ印を見て、同じ非常戸を通り、同じ井戸の水を使った。
門の内と外が、一時だけ、同じ仕組みの中にあった。
腹の底が、わずかに反った。
見よ、と斉昭が言った。これが御三家の力だ。一藩が決めれば、隣も、町も、やがて江戸も、同じ形へ揃う。
揃えばよい、と私も思った。
人が生き延びる形へ、皆を揃えたい。それは山下の願いだった。皆を、自分の形へ揃えたい。それは斉昭の願いだった。
雨の中では、二つは同じ顔をしていた。
私は絵図を広げさせ、門外の道を指した。
細く、曲がり、雨水の流れる道だった。
軒が迫り、家と家が肩を寄せ、路地は人ひとり分しかない。木と、紙と、古い梁。
見覚えがあった。
私が生まれた家も、こういう路地の奥にあった。ならまちの、戦前から建つ、傾いた民家である。夏は蒸し、冬は底冷えし、ひとたび火を出せば三軒先まで舐める。地震が来れば、まず潰れる側の家だった。
私は、そこから逃げ出した。逃げて、新しい基準の、明るい、誰とも肩の触れぬ部屋を借りた。二年ごとに、もっと安全な方へ移った。
それが、いま。
古い木の家が肩を寄せる路地の、そのまた奥の屋敷に、私は閉じ込められている。逃げてきたはずの暮らしへ、丸ごと連れ戻された。
またあの暮らしか、と思った。
しかも今度は、地震が来るのが分かっている。日付まで、知っている。
性質が悪い。
「ようやく川でございますか」
東湖が尋ねた。
「まだだ。川までの道を見る」
道が塞がれば、川へは行けない。町家が燃えれば、屋敷だけ残っても孤立する。近隣の屋敷だけを訓練へ入れても、その外から来る火と人は止められない。
建物一つを強くしても、町が弱ければ、その建物は避難所ではない。ただ最後まで残るだけである。
私は雨の中の道を見た。
地面は低い方へ水を流していた。火は高い方へ燃え上がる。人は家族のいる方へ戻る。
どれも、命令には従わない。
だから、従わないものを前提に仕組みを作るしかなかった。
「明日、門外を歩く。坂、井戸、火元、道幅、行き止まりを調べる」
「川も」
「川はその後だ」
東湖は、もう笑いを隠さなかった。
私は門の内へ戻り、筆をとった。
安政二年十月二日まで、あと一年と十か月。
越えた季節の数だけ、あの夜が近づく。これは、減る。誰にも止められない。私が止めようとして、止まったためしがない。
もうひとつ。いま、この仕組みが、あの夜に助ける側へ渡すであろう者の数。
屋敷の者。長屋の者。塀を越えた五つの屋敷の者。桶を写しに来た旗本の、その先の者。
数えて、私は筆を止めた。
半年前、半分に届かなかった数が、いま、屋敷の塀を越えて、町の方へあふれかけていた。
減る数は、止められない。
だが、増える数は、止めなくていい。
二つの数が、いつか、雨の夜のどこかで交差する。間に合うか、間に合わないか。
その一点だけを、私は急いでいた。
誰も急かさない。私だけが、急いでいた。
翌朝も、雨は残っていた。
私は門を出た。
ならまちの路地によく似た、細く曲がった道の、その先へ。
まだ見ていない火元と、まだ数えていない人々の方へ。




