第17話 井戸があることと、水が使えることは違う
井戸を一つ、使えないことにした。訓練のためである。
家臣たちは、また殿が悪い条件を増やしたと思った。その通りだった。
「南井戸は枠が崩れたものとする」
「水はございます」
「あるが使えない」
「桶を下ろせば」
「枠が崩れて人が落ちる」
「では北井戸から」
「正門前で出火。北へ行く道は避難者で混む」
戸田が額へ手を当てた。
「殿は、我らに水を使わせたくないので」
「使えぬ時にどうするかを見たい」
訓練が始まった。
火元は長屋の炊事場と仮定した。火消し役は南井戸へ走った。札が掛けてある。使用不能。
彼らは止まった。北井戸へ向かう者と、別の桶を探す者に分かれた。誰も指示を出さない。
火は待たない。
私は砂時計を見た。現代の秒単位では測れない。それでも遅いことは分かった。
昔は、秒で測れた。腕の時計を見れば、一秒の遅れも数えられた。
ここには、落ちる砂しかない。
道具が一つ減るたび、私は自分の頭が遅くなる気がした。
ようやく北井戸から水が来た。
桶の大きさが違った。受け渡しの列で、重い桶と軽い桶が混ざる。軽い桶のつもりで受けた者が、重さに耐えきれず落とした。
水がこぼれた。
次の桶は、取手が太くて隣の者へ渡しにくい。その次は縄が長いまま絡んだ。
道具はある。規格が違う。使えるはずの道具が、一緒に使うと邪魔をした。
「桶を揃えろ」
訓練後、私は命じた。
「すべて同じ大きさへ」
「大きければ水が多い。小さければ運びやすい。二種に分ける。汲む桶と、渡す桶だ。取手の太さも揃える。縄の結び方も」
「屋敷中の桶を替えますか」
「火消しに使うものだけでよい」
生活用の桶まで統一すれば、また暮らしを壊す。用途を分ける。
赤い印をつけようとして、この時代に赤い塗料を大量に使う費用を指摘された。そこで取手へ二本の刻みを入れた。暗闇でも分かる。
消防用の桶は、勝手に他へ使わぬよう定めた。
三日後、半数が洗濯に使われていた。
「なぜだ」
「近くにありましたので」
人は近い道具を使う。専用品と書いても、便利なら使う。
「使った後に戻せばよいことにする。使うな、ではなく。使ってよい。だが空のまま放置するな。所定の場所へ戻せ」
桶の置き場には、数が分かる枠を作った。一つ欠ければ、遠目にも分かる。
井戸には予備の縄と滑車を置いた。予備の縄は、鼠に齧られた。箱へ入れた。箱の鍵が見つからなかった。鍵を廃した。今度は縄が持ち出された。
「予備を守るための予備が要りますな」
東湖が言った。
「笑うな」
「笑ってはおりませぬ」
「笑っている」
縄一本、桶一つ。その置き場を、御三家の主が、いつまで数えているのか。
腹の底が、退屈していた。もっと大きなものへ行け、と斉昭が言った。海防だ。藩政だ。天下だ。縄の鼠など、下役に任せよ。
昔の私も、縄は数えなかった。
縄には担当部署があり、点検の業者がいて、報告書が回ってきた。私は判子を押すだけだった。気に入らなければ、その部署ごと、私が逃げればよかった。
ここには、部署がない。業者がいない。逃げる先がない。
縄を数える者は、私のほかに、いない。
だから、数える。
「縄一本が切れて、人が死ぬ。大きなものは、たいてい小さなものの放置からほどける。天下を見たいなら、まず縄を見ろ」
私は斉昭へ言った。半分は、自分へ言った。
結局、予備縄は井戸枠の内側へ封印し、使用したら札が落ちる仕組みにした。誰かが使えば分かる。鍵はない。
次の訓練では、南井戸を使えないことにし、北井戸への道も一部塞いだ。
火消し役は迷わなかった。まず甕の水で初期消火を行い、その間に小桶の列を作った。大桶で汲み、小桶へ移し、人から人へ渡した。
前回より早かった。
砂時計の、落ちきる前に、火は消えていた。
その数日後、思いがけぬ客が来た。
二町ほど先の、小さな旗本の用人だった。塀越しに、水戸家の桶の列が、つかえずに水を回すのを見たという。
「あの、取手の刻みは、何でございましょう」
「汲む桶と、渡す桶を分ける印だ」
「我が家の桶は、ばらばらで」
彼は、聞きに来たのだ。笑いに来たのではなく。
「書役。桶の寸法と、刻みの入れ方を、紙へ写して渡せ」
用人は、押し頂くようにして帰った。
東湖が、その背を見ていた。
「縄の鼠を数えていた殿の屋敷へ、人が、教わりに参りましたな」
私は、頭の中の帳面を、また少し書き換えた。
助かるのは、この屋敷の者だけではないかもしれない。
あの夜、二町先の旗本の桶の列が、つかえずに回るなら。




