第16話 失敗を隠すな
失敗を罰しない、と命じた翌日から、失敗が増えた。正確には、報告が増えた。
桶の縄が擦り切れている。裏戸の閂が湿気で重い。子供用の袋が大きすぎる。避難札の紐が似ていて、暗闇では区別できない。火消し鉤の柄にひびがある。井戸の滑車が鳴る。石段の端が欠けている。雨の日は南庭の横線印が泥で見えない。
報告は、朝から晩まで届いた。
私は後悔しかけた。
危険が増えたのではない。見えるようになっただけである。
だが見えた危険には、対処する責任が生じる。見なければなかったことにできたものが、紙の上で列を作った。
「殿、すべて直しますか」
東湖が報告書の束を持ってきた。
「直す」
「同時には無理でございます」
「分かっている」
「では、どれから」
私は紙を分けた。
今すぐ人を殺すもの。災害時に機能を失うもの。不便だが代わりがあるもの。様子を見るもの。
都庁で何度もした作業だった。優先順位をつける。それは、後回しにする危険を選ぶことである。
「火消し鉤のひびは今日。井戸の縄も今日。子供の袋は次の稽古まで。滑車の音は動くなら記録して様子を見る」
「音がするだけなら」
「音は故障の前触れかもしれない。だが今止めれば井戸が使えない」
「難しい御裁きで」
「裁きではない。順番だ」
東湖は何も言わなかった。
午後、一人の下男が呼ばれた。
井戸の縄が擦り切れていることを、三日前から知っていたという。
なぜ報告しなかったか。
前の縄も同じように擦れたが切れなかった。替えを求めれば、扱いが悪いと叱られると思った。
「今回はなぜ言った」
「失敗を申せとの御触れに」
「縄はまだ切れていない」
「切れそうであることも、失敗にございましょうか」
私は考えた。
事故には至っていない。だが危険を見つけた。
現代では、ヒヤリハットと呼ばれる。事故になりかけたこと。事故にはならなかったため、忘れられやすいこと。
「失敗ではない」
下男の顔が強張った。
「手柄だ」
彼は顔を上げた。
私は、家中の者に聞こえるよう、もう一度言った。
「縄が切れれば、井戸が止まる。井戸が止まれば、火が消せぬ。火が消せねば、長屋が焼ける。お前は、その火を、三日前に消した」
下男は、何が起きたのか分からぬ顔をしていた。
咎められると思って来た男が、皆の前で、火を消した者にされている。
「名は」
「権助にございます」
「書役。権助の名を、手柄の帳面の一行目へ書け。米を出せ」
書役の筆が止まった。
「手柄の、帳面」
「今日作る」
その場で、私は二冊目の帳面を作らせた。
失敗を書く帳面の、隣へ置いた。
権助は、退がる時、二度ふり返った。
東湖が横を向いた。笑ったらしい。
「何だ」
「権助は、向こう三日、井戸の縄ばかり見ておりましょう」
「皆が見ればよい」
その夜から、報告の質が変わった。
壊れた物の報告に、〈このままなら、いつ、何が起きるか〉が付くようになった。
権助が、皆の前で、火を消した者にされたからである。
私はそれを、半分は計算で、半分は驚きで見ていた。
褒美が要るのではなかった。
己の見つけた小さな擦れが、長屋一つを焼かずに済ませたのだと、人に分かる形で示されること。
それが、欲しかったのだ。
失敗の帳面は、月ごとに厚くなった。
手柄の帳面も、厚くなった。
私は、二冊を並べて数えるようになった。
見つかった危険。直した危険。まだ直していない危険。
直した数が、見つかった数を、初めて追い越した月があった。
私は誰にも言わず、頭の中の別の帳面――あの夜、助かる側へ渡る者の数――を、少しだけ書き換えた。
半分には、まだ遠い。
だが、先月より、増えていた。
後世には、小石川無咎報告法などという名を付けられるかもしれない。
そんな法を作ったつもりはなかった。
私はただ、事故の後に「前から気づいていた」と言われることが、嫌だっただけである。
気づいていたなら、先に言え。言えば罰しない。隠したなら罰する。
罰する、と決めたとき、腹の底が静かに頷いた。
山下は、隠蔽を仕組みの穴として嫌う。斉昭は、隠す者を不忠として許さない。理屈と、刃。二つの嫌悪が、同じ一行を書かせた――隠した者を罰せよ、と。
無罰の御触れが家中へ効いたのは、たぶん、優しさの裏に、その刃があったからだった。
借りた刃である。
私はそれを、優しさの裏側に隠したまま、二冊目の帳面を厚くしていった。




