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第15話 夜は人を減らす


 昔の私なら、こうはしなかった。


 危ない建物からは、出ていけばよかった。壁に罅が入れば大家へ言い、直らなければ引っ越す。耐震の心許ない家には住まない。新しい基準の家を探し、二年も住めば、また次へ移る。逃げることが、私の備えだった。


 ここでは、逃げられない。


 この体から出られない。この屋敷から移れない。この時代から、引っ越せない。


 「より新しい家へ住み替える」という答えが、丸ごと消えていた。


 残った答えは、一つだけだった。出ていけないなら、この建物の方を、作り変えるしかない。


 建物を直し、人を慣らし、手順を増やす。それが、私に残された、たった一つの引っ越しだった。


 昼の訓練がうまくいった。


 だから夜に行った。


「なぜ、うまくいった後に難しくなさるので」


 戸田が尋ねた。


「昼に地震が来るとは限らない」


「されど、夜には人手も見通しも」


「減る」


「分かっておいでなら」


「減った時にできることを知る」


 夜半、合図の板を鳴らした。


 長屋から声が上がった。


 灯りをつけようとする者がいた。


 火打石を探す音がした。


「火をつけるな!」


 先導役が叫んだ。


 暗闇の中で、人が戸へ向かった。


 手近な戸だけ開け、伏せる。


 その手順は昼にはできた。


 夜には、自分の手近に戸があるかどうかも分からない。


 誰かが柱へぶつかった。


 子供が泣いた。


 袋を探す者が寝具を踏み、転んだ。


 裏戸の印を手で探した者は、隣の柱を撫で続けた。


 私は庭に立って、音だけを聞いていた。


 暗い屋敷は、昼とは別の建物だった。


 形は同じである。人の能力だけが減っている。


 目が使えない。人数が少ない。眠っていて判断が遅い。着物が整っていない。子供は起きない。老人は身体が動かない。火元担当が、たまたま厠へ行っている。門番が一人しかいない。


 夜は人を減らす。


 人数だけではない。一人の人間から、できることをいくつも減らす。


 最初の避難完了まで、昼の三倍かかった。


 東湖は庭の中央で人数を数えた。一人足りなかった。長屋へ戻ろうとした者を、私は止めた。


「待て。誰だ」


「半兵衛の母にございます」


 足の悪い老女だった。


 担当は誰か。


 誰も答えなかった。


 昼の名簿には、半兵衛が運ぶと書いてあった。半兵衛はその夜、詰番で別の場所にいた。


 私は自分の誤りを理解した。


 家族を担当にした。家族は、いつも家にいるとは限らない。


「二人目を決めろ」


「今から助けに」


「二人で行け。戸板を持て。屋根の状態を見てから入れ」


 東湖が自分で行こうとした。


 私は袖を掴んだ。


「お前は動くな」


「指揮は戸田殿が」


「代わりがいるから動く、では代行を決めた意味が違う」


「中に人がおります」


「だから救助役が行く」


 東湖は私を見た。


 暗くて、表情はよく見えなかった。


「殿は、御自身では行かれぬので」


「行かない」


 私は答えた。


 行きたくないわけではなかった。


 誰かが中に残っていると分かった瞬間、身体はそちらへ向こうとした。


 だが殿が入れば、皆がついてくる。指揮者が危険へ走れば、危険へ走ることが正しいと教える。


「行かぬことも、役目だ」


 私は言った。


 正しい、と思った。指揮者が危険へ走れば、走ることが正しいと皆が学ぶ。私が動かぬのは、そのためだ。


 だが、暗がりの中で、もう一つの声があった。


 御三家の主が、足軽の母を、自ら泥へ這って助けに行くのか。


 その声は、山下の理屈と、寸分ちがわぬ結論を出した。


 行くな、と。


 同じ「行くな」だった。


 防災のために行かぬのか、身分ゆえに行かぬのか。


 暗くて、私は自分の声を聞き分けられなかった。


 夜は、人を減らす。私からも、一つ、減らした。


 東湖は動かなかった。


 救助役の二人が老女を運び出した。訓練だったため、怪我はなかったし、建物も倒れていない。


 それでも避難完了後、私は全員を集めた。


「今夜できなかったことを、一人一つ言え」


 誰も口を開かなかった。失敗を言えば咎められると思っている。当然だった。封建社会で、殿の前へ自分の失敗を差し出す者はいない。


「言わぬ者を咎める」


 私は言った。


 空気が固まった。


 東湖が最初に口を開いた。


「私は、残された者の名を聞く前に走ろうといたしました」


「記録せよ」


 書役が筆を動かした。


「御咎めは」


「ない」


 次に戸田が言った。


「夜の詰番を、昼と同じ人数で足るものといたしました」


「記録せよ」


 一人の女中が、袋を奥へ移していたと申告した。門番は、非常戸の閂(かんぬき)を外すのに手間取ったと言った。下男は、暗闇で丸と三角の印を取り違えたと言った。半兵衛は、母の二人目の介助役を決めていなかったと頭を下げた。


 失敗が、次々に出た。


「稽古での失敗は罰しない」


 私は言った。


「隠した失敗は罰する。本番で見つける前に分かった。咎める道理がない」


 誰も動かなかった。


「では、次の稽古では」


「今夜より悪くする」


 何人かが顔を上げた。


「正門を塞ぐ。井戸も一つ使えぬことにする」


「殿」


 戸田が言った。


「そのように何もかも悪く重なることがありましょうか」


「悪いことは、相談して一つずつ来るのか」


 返事はなかった。


 その夜、皆を帰してから、私は記録を読んだ。


 半兵衛の母。介助役、空白。閂、遅延。印、誤認。


 私は、自分の頭の中の、別の帳面を開いた。


 安政二年十月二日、夜四ツ。江戸を、地が突き上げる。私はその死者の数を、知っている。小石川のこの屋敷が、その夜どうなるかも、おおよそ知っている。


 今夜の屋敷を、その夜へ置いてみる。


 半兵衛の母は、死ぬ。介助役が空白だからだ。閂に手間取った門番のいる長屋は、火の回りに間に合わない。印を取り違えた下男の組は、迷う。


 数えた。


 今のこの屋敷なら、あの夜、助かる側へ渡れるのは――半分にも、届かない。


 私はその数を、口に出さなかった。


 出さずに、こう書かせた。


「半兵衛の母に、二人目の介助役。昼夜で別人を立てる。明朝より」


 夜の訓練は失敗だった。だから、減らせる死人が一人、増えた。


 窓の外は、まだ暗い。


 あの夜まで、あと二年と一月。


 私はもう一度、半分に届かぬ数を見た。


 川へは、まだ行けない。


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