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第13話 持って戻るな避難袋

 避難訓練をすると、人は戻った。


 火が出たと告げても戻る。


 建物が倒れると告げても戻る。


 戻る理由は、毎回違った。


 金を忘れた。

 印形を忘れた。

 薬を忘れた。

 子供の着物を忘れた。

 先祖の位牌を忘れた。

 猫が残っている。

 夫がいない。

 母がいない。

 火鉢の火を消したか分からない。


 忘れ物をするな、と命じることはできる。


 だが人は忘れる。


 戻るな、と命じることもできる。


 だが大切なものが中にあれば戻る。


 命令で人間を変えるより、戻る理由を減らす方が早かった。


「一人一袋、用意させる」


 私は言った。


「何を入れます」


「すぐ必要なものだ」


「すぐとは」


 問われて、私は止まった。


 現代なら非常持出袋の一覧がある。水、食料、懐中電灯、電池、携帯ラジオ、救急用品、現金、身分証、薬。


 この時代には、懐中電灯も電池もラジオもない。


 身分証は、紙一枚では済まない。


 水と食料を一人ずつ持たせれば重い。


「銭。印形。薬。手拭い。火打石は入れるな」


「火を起こせませぬ」


「避難中に起こすな」


「夜具は」


「共同で置く」


「位牌は」


 私は答えなかった。


 位牌を持ち出すため戻って死んだ人が、未来にどれほどいたかを私は知らない。


 知らなくても、戻る人はいると分かった。


「小さなものなら入れろ」


「大きな位牌は」


「写しを作れ」


 部屋が静かになった。そんなに変なことを言っただろうか。命より大切な位牌などないだろう。


 言ってから、私はその口を、内側から止められた。


 この身体が、嫌がっていた。


 位牌は、板ではない。名を書いた木でもない。そこに、亡き人がいる。写しを作れとは、祖を二つに分け、贋を祀れということだ——と、斉昭の側が、理屈ではなく、肌で拒んだ。


 山下には、それが分からなかった。


 都庁の私にとって、位牌は持出品目録の一行だった。重要書類、現金、位牌、薬。同じ列に並ぶ。代えがきくかどうかで分ける。


 だが、代えのきかないものがあるから、人は戻る。


 その一事を、私は未来の知識ではなく、借り物の身体から教わったらしい。


 東湖が口を開いた。


「御名を書いた札を、袋へ入れるということでございますか」


「そうだ」


「位牌そのものではなく」


「写しでは済まぬ者もいよう」


 私は言い直した。


「済まぬ者には、最初から持ち出せる場所へ置かせろ。重いものを高い棚へ祀るな。出口の近くへ、倒れぬように置く」


 東湖は少し私を見た。


 言い直したことに、気づいたらしい。


 何も言わなかった。


 また、家の中へ口を出すことになった。


 袋は丈夫な布で作らせた。


 両手を空けるため、肩へ掛ける。紐が首へ絡まぬよう長さを変える。子供用は小さくする。老人には重いものを入れない。


 最初の訓練で、全員が袋を取りに戻った。


 袋を奥へしまっていたからである。


「なぜしまった」


「見苦しゅうございますので」


「見えるところへ置け」


 次の訓練では、袋が出口に積まれた。


 一斉に取ろうとして、人が詰まった。


「一人ずつ置け」


 各自の寝床の近くへ置くと、夜中にはよいが、昼は別の場所にいる。


 ならば家ごとに一袋でよいのではないかという意見が出た。


 家長が不在なら誰が持つのか。


 袋を持つ者を決めると、その者が負傷した場合に困る。


 持出袋一つで、会議は半日続いた。


 私は苛立った。


 同時に、半日かける価値があるとも思った。


 本番では、考える時間がない。


 平時に揉めておくしかない。


 結局、銭と証文類を入れた家の袋を一つ、薬や手拭いを入れた個人の小袋を必要な者だけに持たせた。水と食料は避難場所へ備蓄し、各自には持たせなかった。


 猫については決まらなかった。


「猫まで袋へ入れますか」


 戸田が真顔で尋ねた。


「入るなら」


「引っ掻きます」


「籠にしろ」


「訓練のたびに猫を籠へ」


「本番で戻るよりよい」


 長屋中の猫を登録することになった。


 犬もいる、と言う者が出た。


 鳥もいる、と言う者が出た。


 私は一度、目を閉じた。


 人間は、自分だけ逃げない。


 それを非合理と呼ぶのは簡単だった。


 だが東湖が母のもとへ戻る未来を、私は知っていた。


 家族を置いて逃げろという命令は、守られない。


 守られない命令を厳しくするより、置いていかずに済む仕組みを作るべきだった。


 家族の所在を示す札を作った。


 避難した者は、家ごとの板へ名を移す。子供は誰が連れたかを書く。老人を運んだ先を書く。負傷者は別の印にする。


 文字を読めぬ者もいるため、家ごとに紋と色を決めた。


 火災時には煙で色が見えにくい。


 だから形も変えた。


 また屋敷に札が増えた。


 東湖が札の並ぶ板を見た。


「殿は、人を物のように数えられますな」


「物は勝手に戻らない」


「人は戻る」


「だから数える」


 私は札の一つを動かした。


 藤田虎之助。


 指揮所。


「お前の札は、勝手に母上の家へ移すな」


「札は移しませぬ」


「身体もだ」


 東湖は笑わなかった。


「承知いたしました」


 私は、その返事を信用しなかった。


 人間は命令を破る。


 大切な者のためなら、なおさらである。


 だから私は、彼が破らなくても済むように、母の家の出口を増やし、荘厳な机を置き、火鉢を耐震仕様に替えた。多少無理やりではではあったが。


 だが東湖も他の衆も苦笑いこそすれど、反対はしなかった。


 この斉昭という者の身体は相当に都合がいいらしい。影で烈公などと呼ばれるほど気性の激しい人物で、多少の「奇行」は許される。


 私は斉昭を利用することにした。


 これは心配ではない。

 指揮系統を守るためである。


 そう宣言した。


挿絵(By みてみん)

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