第91話:断崖の行軍、届かぬ補給
王都を発って数週間。
ディエス一行の馬車は、もはや「道」と呼べるものが存在しない、北方の急峻な山岳地帯へと差し掛かっていました。
「……ひゃあああ! ディエス様、右側! 右側が底の見えない崖ですぅー!」
御者台の隣でリナが悲鳴を上げます。そこは、人が一人通るのがやっとの細い岩棚。車輪が数センチずれれば、数千メートル下の谷底へ真っ逆さまという絶壁でした。
「ガハハ! 景色がいいじゃねぇか、リナ! ほら、空気が薄くなってきて肺がいい感じにパンプしてるぜ!」
「笑い事じゃありませんよ、ディエス様」
ハンスが地図と睨めっこしながら、険しい表情で付け加えました。
「ここはかつて王国の正規軍が『補給路の維持が不可能』として撤退した、呪われた補給路です。急勾配すぎて馬車は進まず、空からは飛行型の魔獣が襲い、冬になれば雪崩で道が消える。この地が放棄されたのも頷けます。通常の軍隊なら、目的地に着く前に餓死か滑落で全滅でしょう」
事実、行く手を阻むのは地形だけではありませんでした。
「グガァァァァッ!!」
空を覆う巨大な影。岩場に巣食う魔獣、ワイバーンが三頭、ディエスたちの馬車を「動く餌」と認識して急降下してきました。
「……来た。……晩ご飯」
エルザが静かに短剣を抜こうとしましたが、それより早くディエスが馬車の屋根を蹴って跳躍しました。
「よぉし、ちょうどいい重り(ウェイト)が来たな! ハンス、馬車は止めるなよ!」
ディエスは空中で、襲いかかるワイバーンの首を強引に両腕で抱え込みました。
「ヌンッ……! 筋肉固め(マッスル・ホールド)!!」
バキバキという凄まじい骨折音。ディエスは一頭を締め落とすと、その巨体を「重り」にして、二頭目の顔面に叩きつけました。
「おらぁッ! 垂直落下式・エア・ソリッド!!」
衝撃波と共に、魔獣たちは岩壁に激突し、そのまま谷底へと消えていきました。ディエスは軽やかに馬車の屋根に着地し、丸太のような腕の汗を拭います。
「ふぅ。いい運動になったぜ。ハンス、この崖を登り切れば、いよいよ俺たちの領地か?」
「ええ。この絶壁の先にある盆地……かつてバルカス家が支配し、今は魔獣の楽園と化した『死の庭園』です。補給が来ないなら、魔獣を狩って食い、自力で資源を掘り起こす。普通の人間には不可能ですが……」
ハンスは、返り血を浴びて笑うディエスの背中を見つめました。
「この『筋肉』があれば、不可能という言葉は物理的に粉砕されるでしょうね」
険しすぎる地形、断絶された補給路。国家が匙を投げたその「理不尽」に、ディエスたちは今、力尽くで風穴を開けようとしていました。




