第78話:風を掴む拳
特訓開始から三日が経過しました。
演習場の一角は、ディエスが放つ凄まじい風圧によって草木がなぎ倒され、地面には無数の扇状の跡が刻まれていました。
「……九万、八……! 九万、九……ッ!!」
ディエスの全身からは、汗が蒸発して白い霧のような蒸気が立ち昇っています。
筋肉は限界を超えて肥大し、血管は今にも弾けそうなほど怒張していました。
しかし、その瞳だけは鏡のように静かに、目の前の「空気」を見据えています。
そこへ、険しい表情のハンスが書類を手に現れました。
「大尉、やはり来ました。軍令部からの『旧墓地・再調査』の特命です。ジョエル殿の報告により、大尉が任務に失敗したと判断され、汚名返上の機会という名目の『処刑宣告』ですよ。……今の大尉のコンディションで行かせるわけにはいきません」
ハンスの言葉に、ディエスは拳を止めず、背中で答えました。
「……ハンス。お前が、俺のために各所に頭を下げて回ってたのは知ってるぜ。だがな、事務屋の交渉で守られる筋肉なんて、俺はいらねぇんだ」
ディエスはゆっくりと拳を構え直しました。
「リナ。エルザ。……見てろ。これが、お前たちの涙を拭うための拳だ」
ディエスが全身の全細胞を一点――右拳の先端へと集約させました。
心臓の鼓動が耳元で爆音のように鳴り響き、視界から色が消え、ただ「空気の分子」が蠢く様が見えるほどの超集中状態。
「ぬぅぅぅんッ!!」
放たれた正拳突き。それはこれまでの「空振りの音」ではありませんでした。
パァァァンッ!! という、大気を真っ二つに叩き割るような乾いた衝撃音。
ディエスの拳の先で、空気が一瞬にして超高密度に圧縮され、透明な「塊」となって前方へ射出されました。
その「空気の弾丸」は、百メートル先の訓練用ダミー人形の胸部を、風魔法のウインドカッターよりも速く、鋭く貫通し、背後の石壁まで粉砕したのです。
「……え?」
リナが呆然と声を漏らしました。
「魔法の術式なしで……純粋な筋収縮による大気の圧縮と射出……。物理法則を、腕力だけでねじ伏せたというのですか……」
ハンスが震える手で眼鏡を直しました。
「……速い。……ディエス様の拳、空気を『食べて』吐き出した」
エルザが、その一撃の「本質」を見抜いて呟きます。
ディエスは、ひび割れた拳をゆっくりと開き、そこに残る確かな「手応え」を噛み締めるように笑いました。
「ガハハ……! 掴めたぜ。ハンス、その再調査の件、受理だ。……幽霊野郎ども、俺の新しいトレーニング器具として、精々役に立ってもらうぜ!」
理不尽な陰謀が渦巻く中、ディエスは「物理」という檻を力ずくで引きちぎり、次なる戦場へと歩みを進めるのでした。




