77話:理への反逆
夜明け前の演習場には、朝霧を吹き飛ばすほどの荒い呼吸音が響いていました。
ディエスは上半身を裸にし、呪いの冷気でまだ青白い肌を晒しながら、ひたすら空中に拳を叩きつけていました。
「……一万二……! 一万……三……ッ!!」
どれほど拳を振るっても、掴める手応えはありません。
そのたびに、旧墓地で泥を舐めた屈辱と、自分を助けるために傷ついたリナたちの姿がフラッシュバックします。
「ディエス様……もう止めてください! まだお体が治りきっていないんですよ!」
宿舎から駆けつけたリナが、叫ぶように止めに入りました。
彼女の目には、痛々しいほどに全身の血管を浮き上がらせ、拳から血を流して空を打つ主君の姿が映っていました。
「ガハハ……! 止まれねぇよ、リナ。俺の筋肉は、お前が幽霊に怯えてる時に……ただの『置物』だったんだ。これ以上の屈辱が、この世にあるかよ……!」
「そんなこと……! 私は、ディエス様が無事なら、それで……!」
リナが歩み寄ろうとした瞬間、ディエスの隣でずっと無言だったエルザが、その腕を制しました。
「……リナ、ダメ。……今、ディエス様、世界と戦ってる」
エルザの瞳は鋭く、ディエスの背中を見つめていました。
彼女もまた、あの墓地でディエスを守りきれなかった自分を責めていたのです。
「……物理が効かない。……なら、物理を、超えるしかない。……ディエス様なら、できる」
「エルザ……。ガハハ、相変わらず手厳しいな。……そうだ。魔法が『理』なら、俺の筋肉はその上を行く『不条理』になってやる……!」
ディエスは再び腰を落としました。
これまでは広背筋や大胸筋の「力」に頼っていましたが、今は違います。
全身の全細胞を一点に集中させ、空気を「押す」のではなく「一点で押し潰す」イメージ。
シュッ……!!
一際鋭い音が鳴りました。
まだ魔法の刃には程遠いものの、拳の先端で空気がわずかに爆ぜ、小さな真空の渦が生まれました。
「今の……一瞬、手応えがあった……。空気が、一瞬だけ俺の拳に『握られた』ぜ……」
ディエスは自らの拳を凝視しました。
皮は剥け、肉が裂けていますが、その奥に宿る闘志は、呪いを受ける前よりも遥かに熱く燃え盛っています。
「ハンスには内緒にしておけ。……次の墓地調査までに、俺はこの空気を『固体』にして、幽霊どもの腹に風穴を開けてやる」
朝日が昇る中、ディエスは再び、掴めぬ空を相手に拳を振るい始めました。
その背中は、かつてないほど巨大で、そして孤独な決意に満ちていました。




