113.5話:勇者の残影、沈黙の刃
ディエスが練兵場で新兵たちに「大胸筋への愛」を説き、筋肉の咆哮が王都に響き渡っている頃。
王宮の影、陽の当たらない回廊の隅で、ジョエルの部下であるノーマンは、気配を完全に消して壁に溶け込んでいました。
ルイス団長の抹殺で活躍した沈黙魔法を得意とする暗殺者――それがノーマンの真の姿です。
彼の周囲には常に音が吸い込まれるような静寂が漂い、感情の機微さえもその沈黙の奥に隠されています。
「……そこにいるのだろう、ノーマン。姿を見せろ」
ジョエルが足を止め、何もない空間に声をかけました。
すると、陽炎が揺らめくようにノーマンの細身の輪郭が浮き上がります。
「……任務から戻りました、ジョエル様。アレクシス様の御機嫌は、相変わらず『最悪』のようです」
ノーマンの声には抑揚がなく、まるで機械が喋っているかのようでした。
ジョエルは溜息をつき、周囲に誰もいないことを確認すると、懐から布に包まれた小さな塊を取り出しました。
それは、かつてアレクシスが幼少期に「伝説の勇者の遺物」だと信じて肌身離さず持っていた、今は見る影もなく錆びついた銀のメダルでした。
「『理想や勇気だけでは1ミリも世界は変わらない』……。あの日、魔物を前にした絶望を前にアレクシス様が投げ捨てたものを、私はどうしても捨てられなかった」
ジョエルが苦しげにメダルを握りしめるのを、ノーマンは無機質な瞳で見つめていました。
「ジョエル様。貴方がそのメダルを持ち続けている限り、貴方の心もまた、あの絶望の日に囚われたままです。……皮肉なものですね。今のあの男が放つ眩しさが、この錆びついたメダルがかつて持っていた輝きと、あまりに似通っている」
「……わかっている。だからこそ、アレクシス様はディエスを見ていられないのだ。自分の捨てた『光』が、あんなにも愉快そうに歩いているのが許せないのだろう」
「左様でございますか」
ノーマンは、主であるジョエルの感傷を肯定も否定もしませんでした。ただ、影として主人の足元に寄り添うのみ。
「さて。私は影として、ただ命をこなるだけ」
ノーマンが再び闇に溶け込んだ後、ジョエルは一人、錆びたメダルを懐の最も深い場所へとしまい込みました。




