Ⅵ 病院にて
駐車場はほぼ満車状態だった。しばらく待たされ、やっと空いたスペースに、宮部はイラついた気分で車を止める。ダッシュボードの時計を見ると予約の時間まであと五分しかない。後ろから小さな咳が聴こえた。
「ごめん。こんなに混んでいるとは思わなかったから」
「大学病院だからね。ありがとう。あなた」
妻の弱々しい笑顔。ここ数日でまた痩せたような気がする。
「仕事が忙しいのに、私のためにごめんなさい」
「いいんだ。車椅子を借りてくるから、ここで待っててくれ」
「車椅子なんて大袈裟よ。歩けるから大丈夫・・」
「いや。無理しない方がいい。とにかく待っててくれよ」
不安な気持ちを無理に作った笑顔で押し隠し、宮部は車から降りた。
妻の由美は、大学生時代にはバレーボール選手として活躍したスポーツウーマンだ。健康的ですらっと引き締まった長身は、187センチある宮部と並んでも遜色がない。
それなのに、春先に体調を崩してから食欲も落ちて顔色も悪くなり、体力もなくなった。心配してはいたが、大丈夫よという妻の返事に、仕事も忙しかったこともあり、つい、油断した。
いや、違う。そうじゃない。もしかしたら風邪などではなく、別の病気なのではと、頭のどこかで疑っていた。でもその頃は、担当した事件の捜査に没頭したくて、そんな夫を心配させまいとする妻に甘えたのだ。
入口で車椅子を借り、車に戻った。つらそうな様子の妻の由美を、優しく抱きかかえるようにして車椅子に乗せる。
「ふふ。なんかいいな」
「いいって何が?」
「祐さんに優しくしてもらえる」
「は?」
怪訝な声の夫に、由美は前を向いたまま、再び、ふふっと笑った。
「子供の頃に熱を出したら、普段は怖いお母さんが優しくしてくれたの。わがままを言ってもその時だけは許してもらえたり。そんなことなかった?」
「ああ、あったね」
「ケーキとかアイスクリームとかね」
「そうそう!チョコミントアイスを食べたいって言ったら、すぐに買って来てくれたっけ」
車椅子の上で妻の肩が震えていた。前を向いたまま笑っているようだ。
「かわいい。チョコミントアイスなんて」
「そうか?まあ子供だったからな」
エントランスの自動ドアをくぐると、高い天井の受付スペースが広がり、様々な年齢層の人々がいた。病気になるのは老人とは限らない。十代の若者でも死病に罹る子もある。
しかし。だからと言って…。
宮部は、“死”という忌まわしい単語を頭から追いやった。
「それでね」
「ん?ああ、なんだっけ」
「嬉しいっていう話よ」
「子どもの時のことか?」
「そうじゃなくて。こうやってあなたに優しくしてもらって嬉しい」
「…」
「いつも忙しいでしょ。事件が起きると朝まで帰ってこないなんて珍しくない」
「…ごめん」
「いいの。責めてるんじゃないのよ。刑事なんだから仕方がないわ」
担当の医師は若く見えた。栗色のショートヘアーにメタルフレームの眼鏡。診察室の入口にあったネームプレートの、田中圭子という名前の横に准教授とあったから、実際はそれなりの年齢なのだろう。テキパキと問診するクールな表情からは何も読み取れない。
「血液検査とレントゲン撮影をします。三日後に、またいらしてください」診断結果はその時に、と続けて、点滴をしましょうかと言った。
「だいぶ体力を消耗しているようだから。それに…」
田中医師の声が唐突に途切れ、宮部たちの背後に向けた視線が訝しげな色を帯びる。とっさに素早く振り返ったのは、刑事の勘だろう。細めに開いたドアの隙間からチラッと見えた見覚えのあるオレンジとブルー。ドアが閉まるのを待たず、ドアレバーに飛びついて引き開け、宮部は外に転がり出た。
しかしそれらしき姿は周囲に見当たらなかった。待合スペースのソファから、いくつもの咎めるような視線が宮部に突き刺さる。
あの女だ。あの、花柄のサマードレスの女が現れたんだ。でもどうしてこんな場所に?
「すみません」
誰にともなく小さくお辞儀をしてから、宮部は診察室に戻った。
「今のは…」
「先生。何を見ましたか」
「えっ。何をって言われても。そこから誰か覗いていたような。でもいったいどうしたんですか。いきなり血相変えて飛び出したりして」
「いえ。何でもないです。驚かせてしまったみたいですみません」




