Ⅺ 森へ
島貫の運転するパトカーで香川の家へ向かう。何かが起こるという予感が平川を突き動かしている。それは宮部も同じだ。
「平川さんは香川の妻を捕まえる気ですか?」
「もし会えるなら話を聞きたい。今はそれだけですよ」
そう答えてはみたものの、自分が何を期待しているのかわからない。
「実は、署では同僚たちの手前、あんな風に言いましたがね。俺は香川の妻はやはり死んでいると思うのです」島貫が前を向いたままつぶやくように言う。
「どうしてそう考えますか?」
「当時、香川が嘘を言っているようには思えなかった。その印象は今でも変わらない。平川さんは、宮部さんも幽霊とか亡霊は信じますか?」
平川は答えない。宮部は曖昧な返事をした。その宮部は、香川雄三を訪ねる前にバスの中で香川の妻に遭遇したことを話そうか迷った。しかし平川が黙したままなので言わないことにする。
「世の中には常識では説明のつかないことがある。自分は何度かそういう経験をしました」
「島貫さん。俺は幽霊など信じない。説明のつかないことを幽霊のせいにするのは、俺は嫌なんです」
それはいつか宮部に語ったセリフと同じだった。いかにも頑固な平川らしい。
香川の家は平川たちが訪問した時と何も変化がないように見えた。玄関ドアをノックしたが応答がないのも変わらない。
しかし「鍵が開いている」ノブを回した平川。失礼しますと声をかけてから、ドアを一気に引き開けた。
夏の、雨上がりのような、草いきれの酸っぱい匂い。カナカナという蝉の声。そこは森だった。平川に続いて家の中に入ったはずなのに、宮部は鬱蒼とした森の中にいた。
振り返ってみてもドアなど無い。平川も島貫の姿も見えない。何処ともしれない深い森が広がっているだけだ。
見上げると、空は遥か遠くに、高く聳え立つ樹々の間の、ほんの僅かな隙間に過ぎなかった。
どこかで声がした。荒い息遣いのような、うめいているようにも聞こえる。宮部はその声の方へ引き寄せられるように近づいていく。
太い幹と幹の間に白いものが見えた。緑色の分厚い苔に覆われた地面の上。なにか白いものがうねうねと蠢いている。
息を殺し、もっと近くに寄ってみる。うめき声が喘ぎに変わる。白く見えたのものは人肌だった。
苔の褥の上で交わる裸の男と女。
仰向けになった男に女の白い裸身がまたがり、肋骨が浮いた胸に手をついて、身体をくねらせる。そのたびに、ああっ、ああっと、女が甘く切ない喘ぎをこぼす。
白い胸乳が揺れ、男がそれを両手ですくい取り、柔らかく揉み立てる。女の喘ぎが大きくなる。
幹の影から宮部は固唾を飲んでその様子を見つめる。
男がむくっと起き上がり、喘いでいる女の身体を組み敷いた。むっちりした白い脚を折りたたむように抱え、痩せさばらえた腰をぶつけながら女を犯す。
交わる二人の淫靡な喘ぎが森にこだまし、カナカナという蝉の声に混じり合い一つに溶けていく。
犯されている女が誰なのか、それ以前に、ここは何処なのか自分はいったいどうしたのかすら宮部にはどうでもよかった。もはや女の白い身体しか目に入らない。宮部はその女に激しく欲情していた。
つむっていた女のまぶたが開いた。その濡れた眼がこちらを見たのは宮部の熱い視線を感じたかもしれない。宮部と女のねっとりした視線が絡み合う。
気づいたら女を組み敷いていた。猛り切った宮部の男性自身を、濡れた女の中心に夢中で突き入れる。そこは熱く、とろけるようにぬめっている。女がまた、ああっ、あっ、と喘いだ。
のしかかる宮部の頭を生白い腕でかき抱き、女が赤い唇をよせて甘ったるい声で囁いた。
「祐くん。いいわ。凄くいい」
ハッと女の顔を見ると、妻の由美だった。何処ともしれぬ深い森の中、宮部は妻の裸体を抱いて途方に暮れる。
「どうしたの、あなた。もっと、もっとちょうだい」
「由美・・・どうしてきみがここにいる」
「ああ、愛してる。愛してるわ」
「由美。僕も愛してるよ」
妻の女の中心がぎゅうっと収縮した。宮部の頭が欲望に赤く霞んでゆく。むっちりした太ももを抱え、強く腰を押し付けながら、熱く濡れた膣を奥まで何度もえぐる。
蝉が鳴いている。周り中でカナカナ、カナカナと、うるさいほどの蝉が哭いている。
「ああっ、あっ、いい!」
「由美、ああ由美」
「わたしを離さないで、たとえ・・・」
「?たとえ、なんだ?」
「たとえわたしが死んでも、わたしを忘れないで」
「・・・由美」
「ずっとあなたのそばにいたい。愛してるわ」
「僕もだよ。ああ、由美、由美」
「だから、これをあなたに」
喘ぐ妻にの手には黒いノートがあった。事態を飲み込めぬまま、宮部は妻の中で激しく達した。
「ああ、祐くん。わたしを離さないで」
ふっと我に返る。声だけを残して妻は居なくなっていた。その場から立ち上がり、ふらふらと蟬の哭く森を彷徨う。どこまで歩いても森は途切れない。疲れたので傍の木に寄りかかり、妻から手渡された黒いノートを開いた・・・。
「宮部。どうした」
「は、えっ」
「大丈夫か。突っ立ったまま急に動かなくなったから、どうしたのかと思ったよ」
「あ、ああ、はい」
「顔色が悪いぞ。具合が悪いなら車に戻っていて構わん」
「いえ。すみません。大丈夫です」
案ずるような平川の顔がある。香川の家に入った途端になぜか宮部は森にいた。そこで香川雄三と交わっていた女はおそらく夏那実。誘われるように夏那実を抱いたら急に妻の由美になった。
すべて幻だったのか?しかし幻でないならいったい何なのだ。
女を抱いた時の生々しい感触を思い出す。そして妻の声も。
"わたしを離さないで"
「踏み込んだ時には香川はいなかった。女もいない。家の中は綺麗に整頓されてゴミ一つない。ただ、居間のテーブルの上に手記のような日記のようなものがあった。読んでみろ」
平川から薄い大学ノートを受け取る。表紙には端正な筆致で"きみが還る夏"とある。
ノートといえば・・・あの不気味な森で妻から渡された黒いノートはどこに行ったんだ?
読んでみたが、あれは間違いなく白石麻里恵が書いたもの。酷く忌まわしい内容だった。
大学ノートを開き、最初から読んでみる。そこにはやはり端正な字で、久しぶりの妻との団欒の描写、続いてその妻を殺害した時の詳細な情景があり、なぜか首を締めて殺害したはずの妻が帰ってくる。そしてその妻との官能的な交わりが記されていた。香川雄三が書いたものなのだろう。
「平川さんはこれを読んだのですか」
「ああ。で、宮部はどう思う」
「香川の供述のとおりの内容ですね」
うむと頷き、平川は何とも言えない顔になった。
「その手記を信じるなら、夏那実は毎年の夏になると香川の元へ帰っていたらしいですな」島貫も平川と同様に複雑な表情をした。
「島貫さんの言葉を借りるなら、その手記を信じるとしたら、おそらく香川雄三はもう戻らないだろうな」
「妻と一緒に行ってしまった。そういうことでしょうか」
「今年で二十年目だ。二十年間、香川は孤独と罪の意識に耐えた。しかし二十年といえば十分すぎるほど長い」
身の回りを整理し、妻と一緒に行く覚悟を決めていた。宮部と平川が香川雄三に会った時はすでにそのような心境だったということか。そうなのだろう。
蝉の声に囲まれ、激しく愛し合っていた香川と夏那実の姿を宮部は思い浮かべる。男の痩せ細った薄い胸。女の豊かな白い裸身。
「ところでこの家、やけに寒くないですか。冷房の効き過ぎかな」そんな島貫の声に平川も宮部も何も答えない。
宮部は胸騒ぎがしていた。なぜ唐突に妻がと、そればかり考えていた。
"わたしを離さないで"
妻の由美の声が耳を離れない。
もしかしたら何かあったのかもしれない。宮部は平川に断ってから自宅へ電話してみることにした。
しかしいくら待っても出ない。妻のスマートフォンへ掛けても応答しない。
胸騒ぎが確信に変わった頃、宮部のスマホに着信があった。電話の相手は先日妻を連れて行った大学病院からだった。




