Ⅹ 過去へ
今からおよそ二十年前、自分の妹と一年以上も連絡が取れない状況が続いている、何かあった、具体的には妹の夫である香川雄三に殺されたのではないかという訴えが警察にあった。訴えたのは白石幸恵。当時三十二歳。
香川雄三の住まいがここ長野県K市であったことから、以降の調査についてはK市警察署の担当になった。
「香川の妻の名は夏那実。当時二十九歳でした」
「白石…」
行方がわからない香川の姪は白石麻里恵だ。ということは麻里恵は白石幸恵の娘なのか?
調書を読みながら平川は考える。
警察が香川宅を訪れた際、香川雄三は、妻はどこにいるという警察の問いかけに対し、自分が殺したことをあっさり認めたのですぐさま連行された。
「当時は私も捜査に加わっていたんです。だからなんとなく覚えていた」麦茶のお代わりを置きながら、島貫は平川たちの向かいの椅子に腰を下ろした。
署での取り調べでも香川は黙秘することもなく、自宅で妻の首を絞めて殺害したこと、夜になるのを待ってから遺体を車に乗せて運び、森の奥深くに穴を掘って埋めたと供述した。
しかし遺体を埋めた森の場所に関してはわからないの一点張りだった。山の方角へ夢中で走って気づいたら妻の遺体を担いで森の中を彷徨っていたと言う。
さらに香川雄三はおかしなことを言った。
「首を絞めて殺したはずの妻が帰ってくると言うのですよ」
「それは、どういう意味でしょう?」
「意味も何も文字通りです。自分が殺害したその日、八月の十日だった供述していましたが、一年後、その次の年も、その日になると、死んだはずの妻が何事もなかったかのように"ただいま"と帰ってくる。落ち着いた口調でそんなことを言うのです」
平川は言葉を失った。死んだ人間が帰ってくるなど狂人の戯言だ。だからそう言った。
「ええ。なので精神鑑定が行われました。ですが香川雄三の頭は正常。精神に異常を来している兆候はゼロでした」
調書には香川雄三の自白内容が詳しく記録されていた。妻の夏那実の浮気がわかり、本人もそれを認めたため、ついカッとなってしまい、首を絞めて殺害したこと。
外が暗くなるのを待ち、車に遺体を乗せて当てどなく走っているうちに、気づいたら遺体を担いで深い森の中を歩いていた。その森の奥に穴を掘って妻の遺体を埋めた。その妻が、殺害した一年後の同じ日になぜか帰ってきたと。ほぼ島貫刑事の話どおりだった。
「とにかく本人が妻の殺害を認めているのだから、遺体が見つからなくても送検しようと捜査が行われたんです」
「なるほど」
「するとですね。奇妙な話なんですが、殺害されたはずの香川夏那実を見かけたという近隣住人が現れたのですよ」
「えっ」
「雄三が妻を殺害したと言った一年後の夏に、八月に初めごろだったらしい。香川夏那実を自宅付近で目撃した人間がいる。しかも挨拶まで交わしたと」
「それは…ということは、香川夏那実は実は生きていると?」
目撃者がいるのなら生きている、ということになる。しかし。
「でも彼女の夫は彼女が息絶えるまで首を絞めたと。そして遺体を運んで埋めたと言った」
「ああ。ううむ」
「香川雄三が嘘をついているようには見えない。しかしそんな嘘をつく理由もない。さらにですね。その翌年の夏にも夏那実を見た住人がいるのです」
「また夏ですか」
「ええ。夏です。夏にしか目撃されていない。しかもおかしな点がある」
「おかしな点?」
「複数の目撃者の証言を総合すると、目撃された香川夏那実はいつも同じ格好、同じ服だったようです。ブルーとオレンジの花柄のワンピース。ほら、女ものの、なんと言いましたっけ。そこの調書には書いてあるはずなんですが」
平川は調書からハッと顔を上げ、そのままの姿勢で硬直した。隣の宮部が「サマードレス」と震える声でつぶやいた。島貫は二人のそんな異変に気づく様子もなく淡々と続ける。
「そう、それです。サマードレス。香川雄三に確認したところ、殺害した時に夏那実が着ていたのも同じ服だったらしい。なんでも夏那実のお気に入りの服だったとか。しかし、雄三は怒りに任せてそのサマードレスをビリビリに引き裂いたと。わけがわからないでしょう」
平川も宮部も確信した。急に現れては忽然と消えてしまうブルーとオレンジのサマードレスの女。あの女が香川夏那実であることは間違いない。
「結局、香川雄三は証拠不十分で釈放されました。自分の妻を殺害したという自白だけでは、それに当の妻を目撃した人間が複数いるとあっては起訴するのは困難ですから」
「首を絞めて殺したはずの妻が帰ってくるという雄三の供述は、どうなりました?」
「どうなるも何も、そんな話を信じられるわけがない。警察としては香川夏那実はどこかで生きているという結論に至りました。きっとその浮気相手と一緒にどこかで暮らしているのでしょうな。それで捜査終了です」
違う。平川の勘はそうじゃないと告げている。
確かに警察としてはそのような判断になるだろう。当時もしも平川が捜査に携わっていたら同じ判断をする。他に結論はない。
しかし今はそれが真実ではないと感じている。警察が結論付けたようにもしも香川夏那実がどこかで生きているのだとしたら、なぜ姉に連絡をよこさないのか?
そして白石麻里恵および神野彩花の件について香川夏那実がはたす役割は何か。きっと何らかの関係があるはずだ。その夏那実を香川雄三が絞め殺したのが二十年前であるという点が引っかかる。
二十年前といえば白石麻里恵は今年で二十歳だった。そしてその二十歳の誕生日を境に不可解な失踪を遂げた。
調書をめくり、島貫へふと思いついた質問をしてみる。
「香川雄三と夏那実には子どもはいなかったのですか?この調書の中ではその点は触れていないようですが」
「さあ、どうだったかな。少なくとも捜査の段階では子どもはいなかったはずだが。取り寄せた住民票の記載も夫婦だけだったような。添付資料にないですか」
「ああ、ええと、ありました。確かに住民票には夫婦二人しか載っていない。戸籍は取り寄せなかったのですね」
「捜査を開始してすぐに夏那実の目撃証言が得られたので、その時点で事件性は疑わしいと思われた。だからそれ以上の身辺調査は行われなかったのです」
殺されたはずの人間が、それ以降も第三者に目撃されているのだから無理もない。平川も宮部も夏那実に遭遇している。しかしあれは…脳裏に浮かんだ"幽霊"という言葉を即座に、馬鹿なと打ち消す。
白石麻里恵が夏那実の姉である白石幸恵の子だとしたら、その可能性が高いが、だとしたら変な話だ。妹を殺した疑惑のある男に自分の子を預けるだろうか。
あっ、と平川は声を上げた。そうだった。香川雄三は白石麻里恵にとって唯一の親族だった。ということは。
「香川夏那実の姉ですが、捜査終了後の消息はご存知ですか?」
「白石幸恵ですね」
「ええ」
そこで島貫は妙な顔になった。
「その後は香川雄三絡みの捜査も調査も行われていません。だから調書に追加するような正式な報告はない」
何か含むところがあるらしい。平川は黙って続きを待った。
「白石幸恵は関西に住んでおりました。昔、そっちの警察に自分の知り合いがいましてね。その知り合いから聞いた話です。香川雄三の件からだいぶ経ってからです」
それまでの要領を得た話し方の島貫とはまるで別人のように途切れ途切れで歯切れが悪い。
「白石幸恵には二人の娘がいたようです。その長女が行方不明になったとか。森で迷子になった妹を探しに森へ入ってそのまま。母親の白石幸恵から警察へ通報があり捜索が行われたが、とうとう見つからなかった」
「森ですか?」
「森と言ってもそれほど広い森ではなく、せいぜい小一時間も有れば隅々まで探せるほどの小さな森らしい。しかし子どもは発見出来なかった」
香川夏那実は森の奥に埋められた。そして確か・・・白石幸恵がいなくなる前、友人の神野彩花へ"あの人たちが迎えにくる。森へ行くんだ"と語っていた。そしてまたも森だ。
俺は偶然など信じない。だからこの符合は何らかの意味がある。暗い森の中を彷徨っている三人の女たちを平川は想像してみる。
「それからまただいぶ経ってから、十年前ほど前になるか。また白石幸恵の話を人づてに聞いたのです」
一旦、口を閉じた島貫が重い声で再びしゃべり始めた。
「娘が行方知れずになって以降、白石幸恵はどうやら精神病院へ収監されたようです」
「それは、なぜでしょう」
「さあ。私が知っているのはここまでですな。何ならその話を教えてくれた知り合いの連絡先を教えましょうか。あとはご自分で聞いてみたらいい」
「お願いします」
「ひ、平川さん」急に宮部が声を上げた。その目が壁のカレンダーに注がれている。
「今日は八月十日です」
「ああ。それがどうした」
「香川雄三が妻を殺害したのは二十年前の今日ですよ」
平川の背に電流が流れたような痺れが走った。すくっと立ち上がる。
「宮部。香川雄三の家に戻るぞ。島貫さん。お手数ですが今すぐ車をお借りしたい」




