出会いと別れ
老人は初代エルトリアを一度だけ見たことがある。
ヤシャの去った庭の空白を眺めながら、老人は不気味なほどに黒い天を見上げ、杯の残酒を一口含む。さすがに一息には飲み干せない。舌先で液体を転がしてゆっくりと流し込んだ。
ぽつりと鼻の頭を小さなものが叩いた。
「ああ、雨か……」
ふとかざした右手の平に、あるかないかの僅かな温もり。不意に訪れた水滴が木の葉を打つざわめき。
夏の雨だ。
そういえば、あの日も雨が降っていた。
昼時の山道。太陽は見えず、空は鈍い鉛色で肌よりも雨水の沁み込んだ衣服のほうがまだ温かい。道の端には灰色の草に覆われた人骨が見え隠れする。たった二日のうちに内臓や腿の肉はあらかた野犬が喰ってしまったのだろう。腹部は伽藍を見せつけ、背骨と肋骨を晒しているさまは最早人のそれではなく、あるいは物と断ずることも出来ない半端な何かだ。
あれから五〇年が過ぎていたというのに、老人は未だ襤褸のような服を着た彼ら、あるいは彼女らはの体には僅かにこびりついた肉と干乾びた皮が死者たちに生気を与えていたような気がしてならない。
葬られた死者ではなく、誰の記憶にも残らず費えていくモノたち。
それを生みだしたの戦の大局は二日前にこの地から過ぎ去って、後には踏み荒らされた畑と家族を亡くした一家が残る。
残ったからにはとりあえず食いつないでいかなければならなかった。
だから、そんな目で見るんじゃねえよ。
一体、一体死んでいることを確認する。手で触るなどという方法は使わなかった。使うのは手ごろな木の枝の先に短剣の刀身を取り付けた半端な槍で、僅かにでも動いたと感じたら念のために首を突いてから作業に移った。
占めて二十五の剣類と十四の鎧。どうやら来るのが遅かったようだ。状態のいいものは他の奴が持っていってしまったのだろう。
「行くか……」
最後に死体で埋もれた道を振り返って一瞥し歩き始める。求める物はここにはない、よしんばあったとしても時間と手間が割に逢わない。収集物を縄でまとめそれなりに恰好を整えてお手製のソリに載せる。
そうして一息。
視界の端で何かが動いた。弾かれるように身を翻すが、同じ目線に人のいる様子はない。それが逆に不安を煽り、混乱した焦点が右に左に異和感のもとを探り、
―――――いた。
それは死体の一つだった。すでに肉体を動かす熱は咽喉を抉った槍傷から大気に放散し、大地の温度と同化して二度と起き上がらぬ条理に囚われたものだった。
その死体が動いていた。
「……な、なんだよ」
それは死体だったはずだ。
頭皮は半分ほどはがれ、ざんばらな髪は赤黒い何かがこびりついている。身を覆う鎧は誰かに剥ぎ取られて、敗れた服の隙間から血まみれの肋骨が覗いていた。辛うじてつながっている肘から先が、直立と同時に不気味に揺れ―――――、
自らの対応が迅速だったなどと、老人は思っていない。
恐怖に反応、一拍おいてからようやく手製の槍を突き出す。目標などあってないようなもので、できたことといえば差し出された牛糞を遠ざけるようにただ出鱈目な槍の衾を形成する程度。槍衾といえば聞こえがいいが、実際は二、三の刺突を繰り出した過ぎなかった。
槍は面白いほど当たらなかった。活発な上半身とは反対に硬直した下半身。目標に近づこうと前に出る上半身と老人の意志、その実動作の要である腰が後方に逃げ出しており、ついに二足歩行可能な重心の限度を飛び越えた尻は必然的に背後への転倒を引き起こす。
起き上がった死体はまるで巨人だった。
一歩、一歩。大地を踏みしめてゆっくりとこちらに近づく死体に、震える手足で後退した。目の前の恐怖に進化の歴史などあっさりと覆されて、泥水を撥ね飛ばして距離を取る。
死体を恐れたことはなかった。奴らはもう動くことはないからだ。そうである以上、死体に群がる野犬共のほうがはるかに厄介、人の肉の味をおぼえた奴らは闇に乗じて人を襲うことがある。だが、目の前の怪異はそんな常識を超えて存在する。死んだはずの死体が動く。一個の価値観を破断させるありようは時間をおけばなれるのだろうが、しかし、それはいまではない。
「――――――――――――!」
声にならない声を上げ、首を切られた蛇のようにのたうちながら泥の海を遮二無二逃げる。幸いなことに死体の歩速は遅い。
いける。
このまま後退を続ければ、やつを引き剥がして安全圏に逃げられる。不意に頬が緩み、賽の出目を知る前のように呼吸が荒れた。飲み込み損ねた唾にげほげほ、と咳き込みながらさらに下がる。
は、ざまあみろ。ざまあみろ。やったぞ!畜生!
ゴっ。
歓喜に震える背筋から凄まじい衝撃。首だけがまわり後ろを確認すると巨大な柱があった。否、やはり慌てていたのだろう。上を見上げて巨樹の幹だとようやく気付き、そして再び前。動く死体との距離は……、
「、」
五メートルと離れていない。
死体との距離は五メートルと離れていない。そんな馬鹿なと思う目が再び対象をつぶさに捉えなおし、手を上げる動作を見てそこでようやく合点がいった。
俺が遅かったわけじゃない。そうではなく、死体が、次第に滑らかに動き始めている。
ならば、
斬、
――――逃げねば、
「‼」
動く死体の腰から上が宙を舞っていた。風に煽られた木の葉の様に宙を舞う死体の上半身と、それをなした右剣による横薙ぎの残心。大地に落下してなおも動こうとする上半身を左剣で縫い付け踏みしだく神話の英雄のようなその人。
初代エルトリアは傲然とそこに在る。
それは風景を一変させる出来事だった。目の前の風景だけでなく、さらに先に見えるものまでもを。
「爺様は庭にいますよ」
そういって霧崎を案内したのはいつぞやの孫だか姪だった。
「雨が、降っていますね」
庭へと通じるドアを開けるとポツポツと水滴が顔にかかる。どうやら霧崎が屋敷に入った僅かな間に天は気分を変えてしまったらしい。「ありがとウな、」
ここから先は血生臭い話になる。
霧崎はここまでの案内に感謝の言葉を告げて、雨が部屋に入らないように後ろ手で庭へと通じるドアを閉じた。
四角い庭に雨が降る。いまだ本降りというほどではないが、もう幾許かも経たない内に激しさを増すだろう。雨に打たれる老人は荒野に佇む枯れ木だった。
「爺さん、こんなとこデいると体冷やすぜ。いい齢なんだから自重しろヨ」
「うん、そうさのう」
雨に白髪を衣を濡らし、老人は口元に昏い笑みを刻む。無理もない。霧崎は老人の心中に無言のまま頷いていた。大方ギルド内部の弟子たちが例の訃報を知らせたのだろう。この年齢で手塩に掛けて育てた弟子が死んだとあらば、もはや術の真伝を伝ええる者は……、
「くくくく、はははははは、はははははははははははぁ‼」
呵々、と老人の大笑が雨音を打ち消す。それは一陣の強風のように、老人の体にある種の力を纏わせていた。
「何ガ可笑しい?」
霧崎の問いには答えず、老人は剣を抜いた。白蛇のような刀身が宙を奔り、切っ先から水滴を散らす。
「ここまで計画通りに行くとは思わなんだ。我が弟子の一人がヤシャめに一太刀くれて計画をぶち壊す程度の事は予測していたのだがのう」
「弟子五人にはそれぞれ一芸に特化させておいたが、それでも至らぬものばかりとは、やはり我らが流儀にはあの方が不可欠らしい」
っくくくく、と狂気が奔る。
「あンた、何言ってるんだ?」
「死にゆく者に教える必要はないの。まして生きて情報を持って帰られても厄介」
右手とは別に、背中に回した左手が言葉の終わりと共に霧崎の眼前に晒される。
「……二刀、」
ヤシャと構えを異にしながらも、霧崎は並び立つ二つの剣に、付け焼刃ではあり得ない凄味を覚えた。
「エルトリア流真伝―――――、エルトリアは乱世に生まれた流派、混戦での戦いに長けた流派よ――――本来はな」
「だが僅か五代の内に一刀の段階を超える者は消えてしまった」
しわがれた声を受け、二振りの剣が空に文目描いて奇怪に踊る。蝋燭の光に照るそれはさながら二匹の竜が雲海をまうが如く流麗柔靱、強風を受けそよぐ柳の枝のにも似て懐が深い。
霧崎は二振りの剣が描く軌跡を罠だらけの迷宮と見て取った。一角間違えれば即座に落とし穴が待ち受け、解除手順を誤れば槍の雨が降る魔宮である。
(さてどうするか……)
老人の抜刀と同時に霧崎も太刀を抜いていた。少なくとも以前ヤシャと戦ったときよりは幾分かましだ。
若いな……。
エルトリアは目の前の若者の戦い方を調べ尽くしている。霧崎は基本的に一太刀で勝負を決しに来るタイプだ。彼の剣の強さ、その秘訣とは恐らく山での生活の最中、獣の闘法に妙を得たものだろう。
彼の剣の強さ――――それは速さと威力だ。まず剣速が速い。それよりも踏み込みが速い。それよりもなお反応が速い。
エルトリアは速さという単語を二つに分ける。
一つに時速何キロ。音速なんたら。
これは比べることのできる速さだ。
もう一つに反応が出来ない、速さを比べることが出来ない速さ、というものがある。速さ―――速度を認識するのが人であるならば、認識できない動きは神速といえる。
獣の速さとは、なにか?それは反応と決断の速さだ。彼らは戦うと決めたら迷わない、そういう手合いには下手に虚偽の駆け引きを行うこと自体が隙を生み出すことになる。間合いに入れば即反応、駆け引きを仕掛けたこちらは、選択肢を選択しようとする脳波一コンマ分遅れをとり、そして意と動の間に遅滞がない対手に斬られることになる。
だが獣は目の前の肉の事しか考えない。小理を優先し大理を見落とす。
そして相手の剣先は天を突き、諸手で握る柄は右横顔の側に置かれていた。
エルトリアの脳内をリアルな未来図が流れていく。……左袈裟を誘う刺突、右剣で流し左剣は回転し右籠手を抑え、右剣は相手の首筋に斬り込む。あるいは左袈裟に左剣、右剣と順に斬り込み……。身に沁み込んだ型を、相手の動きに応じて変化させる。
兵は詭道なりという。この双剣は無数の罠を仕掛けた迷宮だ。
然り、エルトリアは老練の剣士だった。
そして霧崎の構えはあまりにも愚直すぎる。
人体は水である。あるいは水のようなものである。霧崎九郎にとって世界は確固とした物体ではない。木刀を構え静かに佇む霧崎が見ていたもの、感じていたもの。
水は嘘を付かない。嘘を付くのは外形だけだ。
外形を睨みあう限り戦いは騙し合い。だが、内部の水に目を転じれば一切の虚が白日の下に晒される。
そこに残るのは白刃の上を歩むがごとき戦場。取るべき行動が極端に制限された太刀筋。
――――――霧崎九郎は魔剣であった。
繰り出されるエルトリアの左の刺突。太刀と剣の間合いの差で霧崎は半歩後ろに左足を下げて避けた。沈墜。回避と同時にエルトリアの左剣の裏に潜り込むように太刀を跳ね上げる。
エルトリアの右剣は別の生き物のように蠢いて霧崎の太刀を止めた。一刹那の停滞。力と力が拮抗したような、力と力の線が結びついてしまったかのような一瞬、――――の後。
太刀が巡る。左足の踏み込みと同時に、虚空に輪を描いて老人の痩躯を左袈裟に斬断せんと迫る。予想の範囲内……右剣を動かそうとして……しかし、
それはエルトリアの予測を超えて間合いを浸食していた。
――――――とするならば、
太刀の停止は儂が創りだした虚構の……。
高速の切っ先はミリ単位の正確さで軌道を変え、右剣とぶつかる寸前で左の袈裟に変化していた。
エルトリアが捉えたのはその残影である。
右剣はもう間に逢わない。動いているというのに凍りついているのと同義。
(これが……魔剣。儂の憧れた……)
凍りついたように動かない躰を一条の灼熱が駆け下りていく。
く、
「ぁあああああ‼」
叫び声が分断されたエルトリアの上半身を動かした。左腕が力任せに横薙ぎの斬撃を送る。ただでは死なない。老虎の意志が最後の牙を剥く。霧崎の目には驚の色が浮かぶ。
きん、と忌々しい音が鼓膜に届いた。
「かは……」
届かなかった。
鬱だわ




