外伝3、夜話
どちらを助けるべきだったか、などという問いがそもそも成立すらしなかった。
樹木の迷路を逃走の果てに辿り着いた森の底。黒い葉の天蓋から僅かに日の光が差し込み、澱んだ空気が揺れる。
葉と枝の隙間に霧崎は闘争を見た。
一人はエルフとでも言うのだろうか。長い耳と金の髪を振り乱し、ナイフに似た短剣を手にしている。
もう一人は、ゴブリンなのだろう。霧崎が先程戦った相手にとてもよく似ていた。
うわあ。
怖過ぎてとてもじゃないが身動きできない。息を潜め、気配を断つ。どちらかを助けるべきなのだろうかと、一瞬道義心にも似た迷いが霧崎の頭をよぎったがすぐに消えた。どちらも味方するべきではないのだ。所詮霧崎は異邦人である。
彼らには彼らの事情が―――霧崎の知りえぬ裏があり、こうしてわざわざ戦っているのだろう。
このまま黙って見届けるのが正しいはずだと霧崎は思った。たとえ、エルフのほうが少女であり、ゴブリンのほうが大人のように見えたとしてもだ。こんな心の持ちようは大蛇を倒した直後ならばあり得なかったはずだ。喜び勇んで止めに入って混乱する二人に殺されていたに違いなく、故にこの理論は傍観者としてしかその場にいられなかった自らの無力を誤魔化すためのものだったのだろうと思う。
――――オラウータンとチンパンジーが戦っていたらどっちの味方をすればいいのかなどいう問いは、判断に値する問いではあるまい。だから、勝負の天秤は公平であるべきだ。この戦いは二人のためにあるべきなのだ。
森の日陰に刃を煌めかせて両者が絡みあう。肌も触れ合わん超至近距離での格闘は、ナイフの存在故に恐ろしく慎重なもので、恐らく決着は一瞬のできごとになるはずだ。
エルフが動き、ゴブリンが動く。
前進する二つの影は鏡写しにしたかのように同形。
一刹那に満たない刃の交錯はけれど、確かに片方に傷を負わせていた。ナイフは互いに斜めの軌道で、対角に軌跡を描いたはずだ。しかしてゴブリンの右手首からは鮮血が零れ落ち、エルフの肌には僅かに朱線が入るのみだった。
そしてそれは戦いの一光景に過ぎない。エルフの少女の反応は出血にもまるでひるむ様子を見せず―――
例えば。
これ以上は見たくないなと、それは霧崎が平和ボケしていたからなのだろうか。戦いに臨んだ二人が互いに傷つくことなくことが終わればそれが最善であると考えるのは甘いのだろうか。観客の視座に立つ霧崎は剣の交錯の刹那、揺れ落ちた木の葉がゴブリンの視界を僅かに塞いだのを霧崎の目は捉えていた。
戦い――――いや、殺し合いは終わりを向かえる。淡々と振り抜かれた刃はゴブリンの咽喉を無慈悲に掻き切り、洪水のように吹き出る血はエルフの少女を赤一色に染め上げて、それだけだった。
戦いの一切が終わる。太陽の光は相変わらず優しく、木の葉のさざめきは子守唄の様だった。
「…………」
最後に何事か呟いてエルフは消えた。後には血溜まりと、まだかすかに痙攣を続ける温もりのある死体と、胸を締め付ける沈黙だけが残っている。そういえばと、改めて観察しなおしたゴブリンの体にはつい最近になって付けられたような傷が胸部を斜めに横断していた。
別に特別な推論を必要としたわけではない。むしろ、ここまで解り安い手掛かりがあるならばこの死体の正体を判らないままでいろというほうが難しい。
「……この前の、あいつ」
ついこのあいだ出会った相手だ。
それでも、
わざわざ口に出して確認してようやく、霧崎は事の顛末に理解が追いついた。
「やべえ、やべえよ……」
ナイフを持ったあのゴブリンは間違いなく太刀をっ持った霧崎よりも強かった。あのエルフよりも、ひょっとすれば強かったかもしれない。体格の差に目を向ければやはり体重やリーチ、筋力の差は歴然だった。
けれども、彼は死んだ。木の葉に視界を塞がれるという思いもよらない偶然の働きによって、呆気なく勝てるはずの勝負に負けて退場した。
いつの間にか、地面が目の前にあった。あれほど近かった空がもう遠く、湿った土の匂いが鼻腔を樹林資する。
剛の者でも生きるに難い。
いわんや霧崎をや。
並外れた身体能力もなく、さりとて人より抜きんでた胆力があるわけでもない。手に握った太刀の柄はは頼りないにも程があった。この世界で生きていけるという確信は、結局のところ木刀で大蛇を打ち殺したというただ一度の奇跡が見せた幻であり、偶然の勝利には意味など全くない。
「意味など、ない」
もう一度、はっきりと声に出して心に刻む。
代わりに、目はもう開かない。指一本動かないでいた。
老人は若いゴブリンで、まだ若かった老人の相手は年老いたヒト種の剣士だった。
風の噂に聞いた話だが、帝国の首都を襲撃した黒龍が半年前から続くこの戦いの発端らしい。冬に入る少し前に現れた旅人の「牙欠け」は、ギ族の酒の席で、炎を見つめながら静かに話を始めたのだった………。
うん?近頃は「牙欠け」を知らない子供がいるのか。あれだ、年明けの狩竜祭りで長老たちの高座の……右端に座っている、灰色のマントを着た奴がいるだろう?
うむ、如何にもあれが太陽が昇る平原の向こう側、外海を渡り天地の果てを見届けて来た男だよ。
まあ、彼の話は婆さん達に訊けばいい。やつは昔から女達に人気があったからな。それでいいか、話を戻すぞ。
ごほん!ああ、最近は咳が酷くていかん。だれか背中をさすってくれんか?それで少しは楽になる、おお、おおありがたい。お前は「頬傷」の息子か。後で干し肉をやろう。すまんなあ。
それで戦だ、帝国と我らゴブリンの血で血を洗う殺し合いだった。平原と山の境の川は、ときに血で赤く染まり、宙を舞う死者の霊に悩まされぬ夜はなかった。
あの時は朝が来るのが本当に恐ろしかったものだ。敵が来た場合、だいたい見張りの「吼え獅子」が、その大声で伝えるものだが、その時の儂には本当に恐怖そのものだった。奴の声は始原の鋼竜のもののように山々を轟かすからな。あれで敵の軍勢を追い払うこともあったそうだ。
話は戻る。
半年も続いた戦は膠着状態に陥っておった。山と平原を隔てる川で、儂らは互いににらみあっていた。帝国の奴らとて馬鹿ではない。進んで森の中には入って来ぬよ。
本当に長い戦いだった、向こうも同じ思いだったんだろうよ。内政の関係から早急な事態の収束が求められたのやもしれん。
互いに一人づつ。もっとも戦いに優れた者を出し合い、両軍見守る河原の中州での決着をもってこの戦いの決着としよう。そういう内容の矢文が帝国側から届いた。矢文にはご丁寧にも帝国側の仕手の名まで記されておったよ、毒竜殺しの英雄キュロスの名がだ。儂らは強気で槍をかざしながらも、内心震え上がっていたものさ。英雄の威光は伊達ではないからのう。
ふむ、当時の儂では――――ゴブリンでも一、二を争う勇者とされた儂でもまず勝ち目はない相手だった。つまりゴブリンの誰も勝てない相手ということだ。わかるか?誰も勝てないのだぞ。
大方、敵は英雄の名をだせば儂らも降伏条件を飲むと考えていたのだろう。まあ、はっきりと言えば嘗められていたわけだ。ゴブリンのすむこの山々は帝国からすれば咽喉に刺さった棘の様なモノ、しかし、当時は王国とも戦争をしていた帝国は棘ぬきにも力を無駄には使えんかった。
こういうわけで、牙欠けが戦いの代理を探すために旅に出たのが一カ月前の話の事だった。
ううむ、牙欠けは人と我らの間の子、故にある程度は人に紛れ込めたのよ。
で、どうなったかというと。
ふうむ、結果は無駄じゃった。まあ英雄に匹敵する傑物がその辺に転がっていようはずもない。牙欠けがこれはと見込んだ猛者もゴブリンの勇者より強いかと比べれば、実にどうということもない。生まれついて我らは人に比べれば遥かに強い。だから、むしろ英雄の方が異常だったのさ。
仕方がない。俺と親友のどちらかが行くことになったが、俺はあいつを死なせるわけにはいかないしゴブリン全体としても負けるわけにはいかない戦いだった。
などと、口上だけは一人前だが内心は実に臆病で震えていた。無理だ、こりゃ勝てぬと河原のほうに走っていって、ことが始まる前に一人でどこかに逃げてしまおうかと思っていた。
ああん?耳が遠くていかんな、うむ、結果として俺は生きている。何故ならあの方に出合ったからさ。
夏の、暑い夜で、川の一番奥の水も生温かった。
始めは奇妙な形の岩かと思ったがよくよく見ると実はそうではない。あまりにも呼吸が静かで動きが少ないから岩と勘違いしてしまったのだよ。
なんだこいつは。
そう思って俺は石を投げつけたが、まあ、むしゃくしゃしていたのだ。ものの見事に躱された。背後から投げたから躱せるはずがないと、目が合った。
と思ったら相手は急に倒れ伏した。病だよ肺の病だったんだ。俺はそんなこと判らなかったがね、しかしその時は丁度、夏至の日だったからゴブリンの領域に入ったものは誰であろうと生かして出さなければならない、そういう決まりがあるのだよ。年若いお前たちは知らぬだろうが、しかし、当時はあったし儂はふとそのことを思い出して、慌てて老人を抱えて祈祷師のもとまで走っていった。
さすがは祈祷師カミラというべきかな。老人は一時間も経たない内に回復して、ついでにゴブリン語も理解できたらしい。俺にこう尋ねて来たんだ。
「お困りの様ですが、私が代わりに戦いましょうか?」と。
そりゃ、驚いたが藁にも縋る思いだった俺は老人を広場に連れ出して何とか周りを説き伏せた。問答無用、この老人の実力は俺との戦いによって証明されるだろう。
反対の声を上げる者はいたが、お前が前に出て戦ったらどうだといったらみんな黙ったね。
「さあ、やろう」
俺の声に老人は少し困ったような笑い方で答えた。それを了解と受け取った俺は腰の大鉈を抜いて、切っ先を老人に向け旋回させた。
俺はまだ若く、相手は年老いたヒトの剣士だった。
実のところ、老人の実力を誰よりも疑っていたのは俺だった。
腰までの長さの木の枝を、奇妙な事に両手で持って構えた姿はどう考えても隙だらけだ。身体が正面を向いているというの頂けない。半身のほうが明らかに被弾面積が狭くなるというのにだ。
迷いを払拭するために容赦なく、打ち込む。
右手に衝撃が奔った。僅か半歩の動きで男は俺の手首を切り落としていた。飛んだり跳ねたりはしなかったし、ましてや剣をこねくり回すこともなかった。本当にただ一打だ。空を斬る太刀の路が見えていたというのに俺は躱せなかった。それは何回打ち込んでも同じことで、不審に思った他のものが打ち込んでも同じように対応されたよ。
さて、老人と英雄の話はまた今度だ。もう眠れ、月が頂点に達する前に。




