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第8話 本当の姿

第8話 本当の姿


 咲良が蓮と踊り終えると、広間を満たしていた弦楽器の音が静かに止んだ。朝露を思わせる銀糸のドレスは、歩くたびに淡い水色へ変わり、裾に縫いつけられた小さな花が燭台の明かりを受けて輝いていた。頬には乾いた泥がわずかに残っていたが、咲良はそれを隠そうとはせず、乱れた髪を耳へかけてから給仕の持つ盆へ空の杯を戻した。踊る前に厨房でもらった焼きたての胡桃パンを半分しか食べられなかったことを思い出し、夜会が終わったら残りを料理人と一緒に食べようと考えていると、入口のほうから靴音が荒々しく近づいてきた。


「その女を捕まえてください。咲良は泥棒です!」


 百合の声が広間の天井へ突き刺さり、貴族たちが一斉に振り返った。百合は桃色の絹のドレスを着ていたが、急いで走ってきたため肩の飾り紐が片方だけ外れ、白粉の浮いた額には細かな汗がにじんでいた。その後ろから現れた静江は、濃い紫色のドレスの裾を握り、胸元の真珠飾りを何度も指で確かめていた。二人のそばを通った給仕が甘い葡萄酒をこぼし、絨毯から熟れた果実の匂いが立ち上ったが、静江はそちらを見ることもなく咲良を指さした。


「そのドレスをどこで盗んだの。うちには、そのような高価な品を買うお金などありません。皆様、この娘の言葉を信じてはいけません」静江は息を継ぐと、いつも屋敷の台所でしていたように、右手の人差し指で卓上を何度もたたいた。そこには蜂蜜をかけた焼き林檎が置かれており、皿の縁から垂れた蜜が白いクロスへ丸い染みを作っていた。

「咲良は昔から手癖の悪い娘です。母親を亡くしてから私が食べさせてやったというのに、恩を仇で返したのです」静江が言い切ると、百合も勢いよくうなずいた。

「私の宝石箱から首飾りもなくなりました。きっと咲良が持ち出したのよ。下働きの娘が、こんな場所で領主様と踊れるはずがないでしょう」


 咲良の指先が冷たくなり、ドレスの脇に縫われた小さなポケットを探った。中には毎晩書き続けてきた「言葉のノート」が入っており、擦り切れた表紙に触れると、屋敷の屋根裏部屋で過ごした夜が浮かんだ。薄いスープの底に沈んだ豆を一粒ずつ拾って食べたことも、百合の服を洗ったあと、ひび割れた指へ台所の油を塗ったことも覚えていた。けれど、その記憶を静江たちへ投げつけても、過ぎた日々が戻らないことを咲良は知っていた。


「咲良、君は黙っている必要はない。ここで話してくれれば、私が聞く」蓮は咲良の前へ立ち、静江たちの視線を遮った。深緑色の正装には先ほど井戸端で咲良を助けたときについた泥が薄く残り、磨かれた長靴にも小さな傷が見えていた。

「君が何をされ、どのように暮らしてきたのか、君自身の言葉で話してほしい」蓮の声は穏やかだったが、組んだ両手には力が入っていた。咲良はその背中を見上げ、守られるだけではなく、自分の口でこれからの道を選びたいと考えた。


「ありがとうございます、蓮様。私からお話しします」咲良は蓮の隣へ進み、静江と百合をまっすぐ見た。喉は乾き、昼から何も飲んでいなかったため、声を出すたびに胸の奥がかすかに痛んだ。それでも、誰かを傷つけるためではなく、自分の暮らしを取り戻すために話すのだと思うと、曲がっていた背筋が少しずつ伸びた。

「静江お義母様、百合お義姉様。私はお二人の宝石も、お金も盗んでいません。このドレスは、私が盗んだものでも、お屋敷から持ち出したものでもありません」


「嘘をおっしゃい。では、誰が下働きのお前にそんな服を与えるというのです」静江は声を張り上げたが、先ほどまでより語尾が揺れていた。周囲の客が距離を取り始めると、彼女は扇を開いて口元を隠し、百合の腕をつかんだ。

「この子は口がうまいのです。殊勝なふりをして、いつも人をだますのです」静江の扇からは強い薔薇の香油が漂っていた。その匂いを嗅いだ咲良は、毎朝その扇を柔らかな布で磨き、香油の瓶を決められた向きにそろえていたことを思い出した。


「咲良さんは盗んでなどいません」庭師の老人が、人々の間から一歩前へ出た。茶色い上着の袖には土がつき、夜会のために新しい靴を履いていたものの、かかとが合わないらしく何度も片足を浮かせていた。

「会場へ運ぶ花が足りなくなったとき、咲良さんは泥まみれになって手伝ってくれました。礼を渡そうとしても、温かいお茶だけで十分だと言った娘です」老人が話し終えると、厨房から白い帽子をかぶった料理人も姿を見せた。

「うちでも同じです。焦がした菓子を運ぼうとした見習いを叱らず、一緒に焼き直してくれました。腹が減っていただろうに、胡桃パンを半分残して、あとで皆と食べると言ったんですよ」


「私も咲良さんに助けられました」若い給仕が続き、葡萄酒でぬれた布を胸の前に抱え直した。百合にぶつかられて盆を落としかけたとき、咲良が杯を受け止めてくれたのだという。八百屋の主人、仕立屋の女主人、泣いていた子どもの母親も、次々と咲良から受け取った言葉について話した。咲良自身は忘れていた短い挨拶や何げない一言が、人々の中には残っていた。


「皆、だまされているのよ!」百合は耳飾りを揺らしながら叫び、咲良へ近づこうとした。しかし、慣れない細い靴のかかとが絨毯へ引っかかり、卓上の焼き林檎へ手をついた。皿が床へ落ちて割れ、蜂蜜と林檎が桃色のドレスへ飛び散ると、百合は顔を赤くして給仕をにらんだ。

「何をしているの。早く拭きなさい。私のドレスが台なしでしょう!」給仕が布を持って膝をつこうとすると、咲良がその腕へ手を添えた。

「あなたのせいではありません。まず割れた皿を片づけましょう。手を切らないようにしてくださいね」


 広間から話し声が消え、暖炉で薪のはぜる音だけが響いた。咲良はドレスの裾を押さえてしゃがみ、料理人と一緒に大きな破片を拾った。甘く煮た林檎は絨毯に潰れ、香辛料の匂いが立ち上っていた。誰も命令していないのに床を片づける咲良と、汚れた服を見て給仕を責め続ける百合を見比べれば、長い説明など必要なかった。


「もう十分だ」蓮が告げると、警備の者が静江と百合の前へ進んだ。蓮は二人をすぐに連行させず、まず家令へ命じて屋敷の帳簿と使用人たちの証言を確認させていた。調査を担当した家令は一冊の帳面を開き、咲良の母親が残した財産が、静江の衣装代や百合の宝石代として使われていたことを読み上げた。帳面の端には油の染みがあり、ある頁には百合が試し書きしたらしい花の絵まで残っていた。


「違います。それは、この家のために使ったお金です」静江は扇を落とし、慌てて帳面へ手を伸ばした。しかし家令は帳面を閉じ、静江から一歩離れた。

「咲良様の食費として記録された日に、咲良様は厨房の残り物しか与えられていません。複数の使用人が証言しています」家令の言葉を聞き、静江は唇を動かしたものの、今度は声が出なかった。百合も蜂蜜のついた手をドレスで拭き、母親の背後へ身を寄せた。


 咲良は二人の前まで歩き、ゆっくり頭を下げた。幼い日に熱を出したとき、静江が一度だけ薬湯を運んでくれたことを覚えていた。百合がまだ小さかった頃、庭で拾った木の実を二人で並べ、どちらが丸いか笑い合った午後もあった。よかったことまで嘘にする必要はないが、それを理由に自分を傷つける暮らしへ戻る必要もないと、咲良はノートを握りながら考えた。


「今まで育ててくださって、ありがとうございました」咲良の声が広間に広がると、静江は勝ち誇ったように顎を上げた。しかし咲良は頭を上げ、逃げずに言葉を続けた。

「食べるものをくださった日も、薬湯を作ってくださった日も忘れません。でも、私を役立たずと呼び、母の財産を奪い、働かせ続けたことまで、なかったことにはできません。私はもう、お二人のお屋敷には戻りません」


「恩知らず。私がいなければ、お前は生きてこられなかったのよ」静江は咲良へ手を伸ばしたが、警備の者が間へ入った。咲良はその手を見つめ、幼い頃のように肩をすぼめそうになったものの、ドレスのポケットにあるノートへもう一度触れた。

「そうかもしれません。それでも、これからの私がどこで、誰と、どんな言葉を聞いて暮らすのかは、私が決めます。感謝することと、傷つけられ続けることを受け入れるのは、同じではありません」


「私はあなた方を罵りません。ですが、盗んでいないものを盗んだとも認めませんし、していない罪のために謝りもしません」咲良は静江と百合へ告げ、それから蓮や集まった人々へ向き直った。胸元で揺れる銀色の花飾りより、泥の残った頬より、震えながらも最後まで言い切った声へ人々の目が集まっていた。

「私は、自分にもほかの人にも、二度と『生まれてこなければよかった』とは言いません。今日からは、自分の未来を守る言葉を選びます」


 蓮は咲良のそばへ立ち、白い手袋を外して手を差し出した。その手には剣の稽古でできた硬い豆があり、指先には古い切り傷が残っていた。咲良が手を重ねると、冷えていた指に蓮の体温がゆっくり伝わった。窓の外では雨がやみ、濡れた庭から土と草の匂いが夜風に乗って流れ込んできた。


「君の言葉を信じる。これからは、君が望む場所で生きればいい」蓮は咲良の手を強く握るのではなく、いつでも離せるように掌へ乗せた。

「私は君の隣にいたい。だが、それも君が選んでくれるなら、だ」その言葉を聞いた咲良は、今朝まで水仕事で荒れていた自分の手を見つめた。この手で床を磨き、服を洗い、毎晩一行を書いてきたからこそ、これから始まる一頁も自分で書けるのだと思えた。

「はい。私も蓮様の隣で、明日の言葉を一緒に探したいです」


 静江と百合が警備の者に付き添われて広間を出ると、客たちは道を開けた。二人の紫と桃色のドレスは豪華だったが、すれ違う者の中に声をかける者はいなかった。反対に、咲良の周りには庭師や料理人、給仕たちが集まり、冷めてしまった胡桃パンを温め直そうという話になった。料理人が「今度は焦がさないぞ」と胸を張ると、見習いが「さっき焦がしたのは親方です」と言い、広間に小さな笑いが起こった。


「では、蜂蜜を少しだけ塗ってください。皆さんで分ければ、きっともっとおいしいです」咲良はそう言って、残しておいた半分のパンを取りに厨房へ向かった。美しいドレスをまとった彼女が、いつもの癖で空いた皿まで重ねようとすると、給仕たちが笑いながら止めた。銀糸の裾にはまだ泥の跡が残っていたが、咲良はもうそれを恥じなかった。美しい服は夜会が終われば脱ぐものだが、自分で選んだ言葉は明日の朝も心に残り、新しい暮らしを作ってくれると知っていた。



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