第9話 未来は言葉どおりになる
第9話 未来は言葉どおりになる
夜会から十日後、静江と百合の屋敷には領主館の調査官が訪れていた。客間の窓は昼になっても閉め切られ、紫色のカーテンには長年焚き続けた香の匂いが染みついていた。卓上には静江が朝に残した固いパンと冷めた豆のスープがあり、その隣には領収書や借用証が積み上げられていた。静江は濃紺のドレスの上へ毛皮の肩掛けを羽織り、帳簿をめくる調査官の指先を落ち着かない様子で見つめていた。
「そのお金は、咲良のために使ったのです。親を亡くした娘を育てるには、ずいぶん費用がかかりましたから」静江は扇を開いたが、いつも使っていた薔薇の香油を買えなくなり、扇からは古い木と汗の匂いがした。調査官は返事をせず、油の染みがついた帳面と、咲良の母親が残した遺言書を並べた。
「咲良様の食費として毎月銀貨三十枚が記録されています。しかし、厨房の仕入れ帳には一人分の食材が増えた形跡がありません。銀貨は百合様の衣装代を扱う商店へ支払われています」
「違うわ。そのドレスはお母様が買ってくれたのよ。咲良のお金だなんて知らなかったもの」百合は水色の部屋着をまとい、寝台の上へ散らばった宝石箱を抱え込んだ。髪は昼過ぎまでとかされておらず、昨夜食べた砂糖菓子の包み紙が枕元に丸めて置かれていた。
「私は何もしていません。全部、お母様が決めたことです」百合が訴えると、静江は椅子を鳴らして立ち上がった。
「何を言うの。お前が新しいドレスを欲しいと泣きわめいたからでしょう」
調査官は二人の言い争いが収まるまで、黙って帳面を閉じていた。廊下では、残っていた使用人が荷物を縄で縛っており、古い木箱を引きずる音が何度も響いた。給金が三か月も支払われていないため、料理人も侍女も今日で屋敷を去ることになっていた。それを聞いた百合は寝台から立ち上がり、扉へ向かって声を張り上げた。
「勝手に出ていくなんて許さないわ。恩知らず!」百合が怒鳴っても、廊下から返事はなかった。やがて玄関の扉が閉まり、馬車が石畳を進む音だけが遠ざかっていった。静江は娘へ向き直り、扇の骨が折れるほど強く握った。
「お前が毎日使用人を役立たずと呼ぶから、誰も残らなかったのよ」
「お母様だって、何かあるたびに泥棒だの怠け者だのと言っていたでしょう。私はお母様のまねをしただけよ」
二人の悪事は、その日のうちに正式に明らかになった。咲良の母親が残した財産の横領、使用人への給金の未払い、商人から借りた金を返さずに虚偽の証文を作ったことまで、帳簿にはっきり残っていた。屋敷と宝飾品の大半は差し押さえられ、売却した金は咲良や使用人、商人たちへ返されることになった。調査官が決定を読み上げる間、静江は何度も「私は悪くない」と繰り返し、百合は爪の飾り石を一つずつむしり取っていた。
「どうして私たちだけが、このような目に遭うのです。咲良が余計なことを言わなければ、何も起きなかったではありませんか」静江が問い詰めると、調査官は書類を革の鞄へ収めた。彼は玄関脇に置かれていた咲良の古い木靴を見つけ、底が薄く擦り減っていることを確かめた。
「咲良様は、事実を話しただけです。あなた方を困らせたのは咲良様の言葉ではなく、あなた方自身が行ったことです」調査官は木靴も証拠品として布に包み、屋敷を出ていった。
それから一月もたたないうちに、静江と百合は町外れの小さな借家へ移った。以前の寝室ほどしかない家には台所と居間が一つずつあり、寝台も二人で使わなければならなかった。静江は茶色い毛織りの服を着て、慣れない手つきで芋の皮をむいたが、刃を厚く入れすぎて食べられる部分まで小さくしてしまった。鍋では塩を入れ忘れた芋のスープが煮えており、窓辺には洗った百合の靴下が二足、形も整えられずに干されていた。
「こんなもの、食べられないわ。味がしないもの」百合は木の匙でスープを一口飲み、すぐに器を押し返した。以前なら料理人を呼びつけていたが、狭い家には二人のほかに誰もいなかった。
「文句を言うなら、自分で作りなさい。私はお前の使用人ではありません」静江は鍋を乱暴に卓上へ置いた。
「私だって、お母様の世話をするためにここへ来たのではないわ。こんな暮らしになったのは、お母様が咲良のお金を使ったからでしょう」
静江は口を開きかけたが、言い返す言葉が見つからず、匙で鍋の底を何度もこすった。窓の外では隣家の家族が洗濯物を取り込みながら、今夜は焼いた魚を食べようと話していた。香ばしい匂いが風に乗ってくると、百合は腹を鳴らし、冷えたスープへもう一度匙を入れた。二人には声をかけてくれる知人も、食事に招いてくれる親戚も残っていなかった。
「明日、叔母様のところへ行きましょう。少しくらい援助してくださるはずよ」百合が言うと、静江は顔をしかめた。静江はこれまで、その叔母を貧乏くさい女と呼び、贈られた手編みの肩掛けまで暖炉へ投げ入れていた。
「無理よ。あの人は私を嫌っているもの」
「では、商人の奥様はどうなの。毎年、お茶会へ来ていたでしょう」
「あの女には、品のない成り上がりだと言ってしまったわ。お前も娘の帽子を笑ったでしょう」
二人は知っている者の名前を順番に挙げたが、誰の名前にも、以前口にした悪口がついて回った。病気の見舞いを頼める者、鍋を分けてくれる者、雨の日に傘を貸してくれる者さえ思い浮かばなかった。悪事が明らかになったから人が去ったのではなく、人を見下し、疑い、否定する言葉を長年投げ続けたため、助けたいと思う者が残っていなかったのである。静江はスープの表面に浮かぶ芋を眺め、自分が書き続けてきた不満の手帳を暖炉の脇から取り出した。
「今日は料理人が気に入らなかった。百合の友人は礼儀を知らない。咲良は何をさせても役に立たない」静江が古い頁を読むと、百合は匙を置いた。次の頁にも、その次の頁にも、誰かを責める言葉ばかりが並んでいた。
「お母様、楽しかったことは何も書かなかったの?」
「楽しかったことですって。書くほどのことではないでしょう」静江は答えたが、手帳を閉じる指が途中で止まった。
一方、咲良は領主館の東側にある明るい部屋で、新しい朝を迎えていた。豪華すぎる部屋では落ち着かないと頼んだため、家具は小さな寝台と机、本棚だけだった。窓辺には庭師からもらった黄色い花が飾られ、椅子の背には昨日洗った白いブラウスと若草色のスカートがかけられていた。咲良は井戸水で顔を洗い、厨房から届いた焼きたての丸パンに杏のジャムを塗りながら、いつものノートを開いた。
「今日は、パンが温かい。窓から入る風が気持ちいい。庭の花が一輪咲いた」咲良は一つずつ声に出してから、文字を書き込んだ。夜会で着たドレスは大切にしまわれていたが、今の咲良は動きやすい服を選び、自分で寝台を整える暮らしを気に入っていた。机の端には厨房の見習いからもらった、少し焦げた胡桃入りの焼き菓子も置かれていた。
「焦げたところも香ばしくて、おいしいです。今日もついています」
「それは本当に褒めているのか」開いた扉から蓮が現れ、焼き菓子をのぞき込んだ。彼は黒い長衣の上へ灰色の外套を羽織っていたが、急いで来たらしく、襟が片方だけ内側へ折れていた。咲良が笑って直そうとすると、蓮は少し照れた顔で自分の襟を押さえた。
「料理長は、あの見習いにもう一度焼かせると言っていたぞ」
「では、次のお菓子も食べられますね。ますます、ついています」
「君にかかると、失敗まで次の楽しみになるのだな」
蓮は向かいの椅子へ座り、咲良が淹れた薄いハーブ茶を口にした。以前の彼は、毒を入れられるかもしれないと言って、他人が用意した飲み物へなかなか手をつけなかった。近頃は厨房へ顔を出し、料理人の名前を覚え、庭師とも天気の話をするようになっていた。それでも何か問題が起きると、「どうせ人は変わらない」という昔の口癖が喉まで出かかり、そこで一度息を止める癖が残っていた。
「昨日、商人たちとの会議で意見が割れた。私はまた、誰も信用できないと言いそうになった」蓮は茶の中で揺れる葉を見つめ、杯を両手で包んだ。
「でも、言わなかったのですね」
「ああ。代わりに、もう一度話し合おうと言った。すると、私が見落としていた帳面が出てきた。危うく、誠実な人間まで追い払うところだった」
「蓮様が言葉を選び直したから、皆さんも話すことができたのだと思います」
蓮は懐から一冊の小さなノートを取り出した。咲良のものより新しい革表紙だったが、角にはすでに何度も開いた跡がついていた。最初の頁には「今日、信じてみてよかったこと」と書かれ、その下に料理人、庭師、家令の名前が並んでいた。最後には少し大きな文字で、咲良と書かれていた。
「君のまねをして始めた。だが、毎日書くのは思ったより難しい」蓮は気まずそうに鼻の横を指でこすった。
「一行でよいのです。書けない日は、温かいパンがおいしかったでも十分です」
「では今日は、焦げた菓子を食べたが腹は壊さなかった、と書こう」
「それでは見習いさんが泣いてしまいます。次はもっとおいしくなる、と書いてください」
二人が笑っていると、窓辺に一羽の雀が降り立った。雀は黄色い花の鉢をつつき、こぼれた土を机の上へ散らした。咲良が小皿へパンくずを置くと、雀は首を傾けてから、一粒だけくわえた。その姿を見た咲良は、雨の庭で四つの言葉を教えられた日のことを思い出した。
「未来は、本当に言葉どおりになるのでしょうか」咲良が尋ねると、蓮はすぐには答えなかった。窓の外には、働き始めた使用人たちが見え、洗いたての白い布が朝日に揺れていた。厨房からは玉葱を炒める匂いが流れ、庭では老人が新人へ花の植え方を教えていた。
「言うだけで何もかもかなうとは、私は思わない。だが、毎日『裏切られる』と言っていた頃の私は、差し出された手まで疑っていた。信じてみようと言葉にした今は、その手を見落とさずに済む」
「私も、うれしいと言えば、いつでもうれしくなれるわけではありません」咲良は使い込んだノートを開き、涙で文字がにじんだ頁を蓮へ見せた。そこには「今日は苦しかった。でも、私は悪い子ではない。明日は庭の花を見に行く」と書かれていた。
「つらい日は、つらいと書きました。そのあとに、明日の私へ一つだけ言葉を残したのです。だから朝になったとき、もう一度起き上がれました」
「言葉は、現実から逃げるためではなく、次に進む道を見つけるためにあるのだな」
蓮は椅子から立ち、咲良の前へ右手を差し伸べた。その掌には剣の稽古でできた豆があり、袖口には朝食のジャムがほんの少しついていた。完全に整った王子様のような姿ではなかったが、咲良は、その小さな汚れを見て肩の力を抜いた。蓮も自分と同じように食べ、迷い、失敗しながら暮らしている一人の人間なのだと思えた。
「君となら、明日の言葉も信じられる」蓮は咲良の返事を急がせず、手を差し出したまま待った。
「これから先、うまくいかない日もあるだろう。私が昔の言葉へ戻りそうになったら、君に止めてほしい。その代わり、君が自分を役立たずだと思いそうになったときは、私が何度でも違うと言う」
「では、お互いに忘れないよう、毎日言葉を贈り合いましょう。今日は私から言います」
咲良は蓮の手に自分の手を重ねた。目の縁からこぼれた雫が頬を伝ったが、彼女は袖で急いで拭わず、窓辺の雀を見て微笑んだ。焼きたてのパンと杏の甘い香り、朝露にぬれた花の匂い、蓮の手から伝わる温かさが、今ここにあるものとして胸へ入ってきた。かつて言わされていた「役立たず」ではなく、自分で選んだ言葉を、咲良ははっきり口にした。
「世界一、しあわせです」
雀が一声鳴き、青い空へ飛び立った。咲良は新しい頁を開き、蓮と並んで今日の言葉を書き始めた。未来は、書いただけで突然与えられるものではなかった。それでも二人は、自分と誰かを大切にする言葉を選び、その言葉に似合う一日を、自分たちの手で作り始めていた。




