第10話 言葉は未来へ咲き続ける
第10話 言葉は未来へ咲き続ける
咲良と蓮が結婚して三年目の春、領内で最初の学校が完成した。白い壁に赤茶色の屋根を載せた二階建ての校舎には、大きさの違う机と椅子、自由に読める本を並べた棚、雨の日にも体を動かせる広間が用意されていた。校庭の隅には庭師の老人が植えた杏の木があり、薄桃色の花の下で子どもたちが朝から追いかけっこをしていた。咲良は薄黄色のブラウスに若草色のスカートを合わせ、焼きたてのパンとゆで卵を入れた籠を腕にかけて、蓮と一緒に校門をくぐった。
「咲良様、走ってはいけないと言っても、誰も聞いてくれません」若い教師が困った顔で駆け寄ってきた。彼女は青いワンピースの上へ白い前掛けをつけていたが、裾には子どもが飛ばした泥が点々とついていた。その後ろでは、二人の少年が一本の棒を剣に見立てて取り合い、赤い髪の少女が「先生が来たよ」と知らせながら、自分だけ先に教室へ逃げ込んでいた。
「朝から元気なのは、よいことです。でも、窓を割る前に棒は預かりましょう」咲良が答えると、蓮は少年たちのところへ行き、棒一本と引き換えに昼休みの剣術ごっこへ参加すると約束した。
教室へ入った咲良は、窓から差し込む光と、新しい木の机が放つ匂いに足を止めた。机の上には子どもたちが朝食に食べた林檎の芯や、布に包まれた焼き芋が残り、床には削った鉛筆の木くずが落ちていた。文字の練習帳へ魚の絵ばかり描いている子もいれば、靴下の片方を脱ぎ、足の指で机の脚を挟んでいる子もいた。きれいに整えられた夜会の広間より、誰かが食べて笑い、失敗した跡の残るこの教室を見て、咲良の頬は自然に緩んだ。
「皆さん、おはようございます」咲良が声をかけると、子どもたちは立ち上がったが、挨拶の速さはそろわなかった。
「おはようございます、咲良様」
「領主様もいるぞ」
「ねえ、籠の中は何ですか」
「パンです。きちんとお話を聞けたら、あとで皆さんと食べようと思います」
「では、ぼくは誰よりも聞きます。二個ください」
咲良は笑いながら籠を教師へ預け、持ってきた木箱を机の上へ置いた。蓋を開けると、赤、青、緑、黄色の布で表紙を包んだ小さなノートが何十冊も入っていた。製本所の職人が一冊ずつ手で縫ったため、糸が少し曲がっているものもあり、表紙の隅には職人の子どもが誤って押した花の印まで残っていた。咲良はその一冊を手に取り、子どもたちへ表紙を見せた。
「これは『言葉のノート』です。毎日、自分が聞いてよかった言葉、誰かへ贈りたい言葉、その日に見つけたよかったことを書きます」
「字を間違えたら、叱られますか」前列の少女が、短くなった鉛筆を両手で握りながら尋ねた。
「叱りません。間違えたところへ線を引いて、隣に書き直せばよいのです。私の最初のノートにも、書き損じがたくさんあります」
「領主様も書くのですか」
「もちろんだ。私は今でも字を急いで書くと、同じ文字を二度続けてしまう」
蓮が自分のノートを取り出して見せると、教室に笑い声が広がった。革張りの立派な表紙とは違い、中には書き直した跡や、こぼした茶の丸い染みが残っていた。ある頁には「料理長のスープはうまかった」と書いた下へ、「塩を入れ忘れたが」と小さく付け足されていた。教師が笑いをこらえて口元を押さえると、蓮は咳払いをしてノートを閉じた。
「失敗を書いてもよい。ただし、誰かを笑いものにするためのノートではないぞ」蓮が言うと、後ろの席にいた少年が手を挙げた。棒を取り合っていた一人で、名前はトーマといった。彼は茶色い上着の肘へ母親が縫いつけた四角い当て布を指でこすり、隣の少年を横目で見た。
「嫌なことをされた日は、悪口を書いてもよいですか。こいつ、ぼくの父さんのことを臆病者と言ったんです」
「だって、魔獣が出たときに逃げたって、みんなが言っていたから」隣の少年も椅子から立ち上がり、唇をとがらせた。
教室の空気が変わり、窓の外から聞こえていた鳥の声まで遠くなったように感じられた。トーマの父親は農具を作る鍛冶職人で、魔獣が村へ現れたとき、戦うのではなく鐘を鳴らして住民を避難させた人物だった。大人たちの中には、それを逃げたと笑う者もいたが、鐘を聞いて助かった家族も大勢いた。咲良は二人の間へ行き、膝を曲げて目線を合わせた。
「トーマは、その言葉を聞いたとき、体がどうなりましたか」
「胸の中が熱くなりました。拳が勝手に固くなって、こいつを殴ろうと思いました」
「そう言ってくれて、ありがとう。では、あなたはなぜ、その言葉を言ったのですか」
「父さんがそう言っていたからです。ぼくも同じことを言えば、強そうに見えると思いました」少年は答えながら、自分の靴先で床の木くずを集めた。
「聞いた言葉は、知らないうちに心の中へ入ります。そして、何度も聞いた言葉を、自分の言葉のように話してしまうことがあります」咲良は自分が幼い頃に使っていたノートを開き、擦り切れた頁を二人に見せた。そこには震えた文字で、「今日は役立たずと言われた。でも、庭の花はきれいだった」と書かれていた。
「私は長い間、役立たずと言われて育ちました。その言葉を毎日聞いていると、本当に自分には何もできないと思うようになりました。でも、この一行を書くたびに、見つけたものを言葉にできる自分まで、役立たずではないと思い直せたのです」
「嫌な言葉を聞いたら、どうすればよいのですか」トーマが尋ねると、咲良はすぐに答えず、窓辺へ目を向けた。杏の花びらが風に運ばれ、一枚だけ開いた窓から教室へ入り、蓮の肩へ落ちていた。咲良が指で知らせると、蓮は花びらをつまんで自分のノートへ挟んだ。
「嫌だった、やめてほしいと伝えてよいのです。我慢して、うれしいふりをする必要はありません。ただ、相手が投げた言葉を拾い、それよりもっとひどい言葉にして投げ返すかどうかは、自分で選べます」
「では、ぼくは『父さんを臆病者と言うな』と書いてもよいですか」
「もちろんです。その次に、お父さんが何をしたのかも書いてみましょう」
「父さんは鐘を鳴らしました。隣のおばあさんを背負って、丘まで走りました」
「それなら、あなたがお父さんへ贈りたい言葉は何でしょう」
「みんなを助けてくれて、ありがとう」
トーマが答えると、隣の少年はうつむき、自分の上着の釦を何度も回した。やがて机の上の新しいノートを開き、鉛筆を持ったものの、最初の一文字がなかなか書けなかった。トーマは急かさず、椅子へ座って待っていた。少年は大きく息を吸い、少し曲がった文字で一行を書いた。
「ひどいことを言って、ごめんなさい」少年が読み上げると、トーマは書かれた文字をじっと見た。
「もう言わないなら、いいよ。でも、父さんにも今度謝って」
「分かった。鍛冶場へ一人で行くのは怖いから、一緒に来てくれる?」
「しょうがないな。帰りに焼き栗を買うなら、ついていくよ」
二人が握手すると、教室のあちこちから自分も書きたいという声が上がった。咲良は全員へノートを配り、黒板に七つの言葉を書いた。「ありがとう」「がんばったね」「だいじょうぶ」「うれしい」「楽しい」「しあわせ」「ついてる」という文字を、子どもたちは声に出して読んだ。まだ字を覚えていない小さな子には、年上の子が手を添えて鉛筆の動かし方を教えた。
「わたしは、お母さんに『洗濯してくれてありがとう』と書きます。昨日、雨が降って二回も洗ったからです」
「ぼくは弟に『がんばったね』です。初めて一人で靴を履けました」
「私は自分に『だいじょうぶ』と書きます。計算を三つも間違えたけれど、一つは正解だったからです」
「僕は『ついてる』。今日のパンに葡萄がたくさん入っている気がするから」
「まだ配っていないのに、どうして分かるのですか」
「匂いで分かります。僕の鼻は特別なんです」
教師が籠からパンを配ると、最後に話した少年の分には本当に干し葡萄が三つ多く入っていた。子どもたちは大騒ぎし、本人は得意そうに鼻を押さえた。咲良も丸パンを半分に割り、中へゆで卵と塩漬けの胡瓜を挟んだ。小麦と卵の匂いが教室を満たし、蓮は子どもに頼まれて、自分のパンから干し葡萄を一粒だけ分けた。
「一粒だけですか。領主様なのに」
「領主でも腹は減る。全部渡したら、私の昼食がなくなる」
「では半分あげます。ぼくは今日、誰かを幸せにする言葉と行動を選びます」
「言葉だけではなく、私のパンまで狙っているだろう」
「ばれましたか」
食事が終わると、咲良は黒板の前へ立った。子どもたちは口の周りについたパンくずを袖で拭き、教師に布を使うよう注意されながら、ノートを胸の前へ抱えた。咲良は全員の顔を見渡し、雨の庭で雀から教わった言葉を思い出した。あのとき小さかった自分へも届けるつもりで、ゆっくり話し始めた。
「心は、聞いた言葉、読んだ言葉で作られるの。だから、心へ入れる言葉を大切にしてね」咲良は黒板へ耳と本の絵を描いた。絵はあまり上手ではなく、本が四角いパンのように見えたため、子どもたちが笑った。
「笑ってもよいのですよ。でも、下手だから描くなではなく、次はもう少し本らしく描いてねと言ってください」
「咲良様、次は題名も書けば本に見えます」
「よい考えですね。教えてくれて、ありがとう」
咲良は絵の上へ題名を書き足し、今度は口と鉛筆の絵を描いた。子どもたちは、先ほどより本らしくなったと拍手した。咲良は自分のノートを閉じ、両手で大切に持った。
「未来は、話した言葉、書いた言葉で作られる。だから、誰かを幸せにする言葉を選び続けましょう。ただし、自分を傷つける人へ、無理にうれしいと言う必要はありません。やめてください、助けてください、私は悪くありませんという言葉も、自分の未来を守る大切な言葉です」
「誰かを幸せにする中には、自分も入りますか」赤い髪の少女が尋ねた。咲良はその質問を聞き、幼い頃には自分を後回しにすることが優しさだと思っていた日々を思い返した。濡れた服のまま百合の湯を沸かし、自分の夕食が冷えても誰にも言えなかった頃の手は、今では温かなノートを抱えていた。
「もちろんです。自分へ贈る言葉を、最後に残してはいけません。あなたも、言葉を受け取る大切な一人です」
授業が終わる頃には、どのノートにも最初の一行が記されていた。早く書き終えた子は杏の花を描き、文字を間違えた子は消さずに線を引いて書き直した。トーマの頁には、「父さん、みんなを助けてくれてありがとう。そのことを知らない人には、ぼくが話します」と書かれていた。隣の少年の頁には、「聞いたことをそのまま言う前に、本当か考える」と、不揃いながらも力のある文字が並んでいた。
咲良と蓮が校庭へ出ると、春の風が杏の花を揺らしていた。子どもたちはノートを鞄へしまい、帰り道に誰へどんな言葉を渡すか話し合っていた。教師は泥のついた前掛けを外し、井戸端で水洗いしながら、明日は着替えを持ってこようと笑っていた。校舎の屋根には一羽の雀が止まり、咲良たちを見下ろしていた。
「今日は、何と書く」蓮が尋ねると、咲良は杏の木の下で自分のノートを開いた。古い頁のあとには、蓮と暮らし始めた日、学校を建てると決めた日、子どもたちのノートを注文した日が続いていた。咲良は新しい頁へ日付を書き、その下へ一行を加えた。
「今日、言葉の種をみんなでまきました。花が咲く日を見られて、世界一しあわせです」
蓮も隣で自分のノートを開き、「妻の絵は本よりパンに見えた」と書いた。咲良が頬を膨らませると、彼は慌てて線を引き、その下へ「それでも、皆を笑顔にした」と書き直した。二人の頭上から雀の鳴き声が聞こえ、校舎からは子どもたちの「ありがとう」が次々に響いた。そこで交わされた言葉は家庭や市場や鍛冶場へ運ばれ、受け取った人から別の人へ渡されながら、今日も新しい未来を作り始めていた。




