第6話 一番苦しい日に選ぶ言葉
第6話 一番苦しい日に選ぶ言葉
夜会から戻った翌朝、屋敷の庭には昨夜の雨が残り、石畳には小さな水たまりがいくつもできていた。咲良はいつもの生成り色のワンピースに白い前掛けを結び、台所で焼き上がった黒パンと温かい野菜のスープを急いで食べ終えると、洗い終えた洗濯物を籠へ入れて庭へ運び出す。まだ乾ききっていない白い布から石けんの優しい香りが漂い、咲良は袖口を整えながら一枚ずつ物干し竿へ掛けていった。
百合は窓からその姿を見つめると、昨日の夜会で使用人たちから咲良へ向けられていた笑顔を思い出し、眉をひそめた。庭の隅には雨で濁った水が溜まった桶が置かれており、百合は何も言わずにそれを持ち上げる。咲良は気配に気付いて振り返ろうとした、その瞬間だった。
ばしゃり、と鈍い音を立てて泥水が全身へ降りかかった。白い前掛けは茶色く染まり、髪からは泥水がぽたりぽたりと落ちていく。洗濯したばかりの布にも泥が飛び散り、咲良は握っていた洗濯ばさみを一つ、静かに地面へ落とした。
「その姿がお似合いよ。」
百合は口元だけで笑うと、そのまま屋敷の中へ戻っていった。
咲良はその場に立ったまま動けなかった。胸の中で何かが重く沈み、いつも自然に浮かんでくる四つの言葉も見当たらない。冷たい泥が袖口から指先へ流れ落ち、朝食に飲んだスープの温かさまで遠くへ消えてしまったようだった。風だけが静かに洗濯物を揺らし、庭には何も聞こえない時間が流れていく。
その静けさを破るように、一羽の小さな雀が物干し竿へ舞い降りた。雀は咲良を見上げ、小さく首をかしげると、いつもの優しい声で話しかける。
「言葉は、元気な日に使うものではありません。」
咲良は泥で濡れた袖を見つめたまま、小さく息をのんだ。
「一番苦しい日に、未来の自分へ贈るものです。」
その言葉を聞くと、咲良は震える手で胸元を押さえた。涙が一粒だけ頬を伝い、泥で汚れた前掛けへ静かに落ちる。子どもの頃、父と庭で花の種をまいた日のことがふと頭をよぎり、「雨の日も土の中では育っているんだよ」と笑っていた声が耳の奥によみがえった。
「……うれしい。」
声はかすれていた。それでも咲良は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
「楽しい。」
泥水が袖から滴り落ちても、その言葉は消えなかった。
「しあわせ。」
頬を流れる涙は止まらない。それでも咲良は未来の自分へ届けるように、最後の一つを口にする。
「ついてる。」
その瞬間、朝日が雲の切れ間から庭へ差し込んだ。泥で汚れていたワンピースは淡い光に包まれ、朝露をまとった花びらのように透き通る美しいドレスへと姿を変えていく。胸元には小さな白い花の刺繍が咲き、袖には露の粒のような光が揺れていた。雀は満足そうに小さく羽ばたき、咲良は新しいドレスの裾をそっと握りしめながら、未来へ贈った四つの言葉を静かに胸へ刻んだ。




