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第4話 凍った心

第4話 凍った心


蓮は夜が明ける前に目を覚ました。領主館の寝室にはまだ薄暗さが残り、暖炉の火は灰の下で赤くくすぶっていた。深い藍色の寝間着の襟元を整え、枕元に置かれた銀の時計を見ると、いつもより一時間も早い。昨夜は商人組合から届いた陳情書を読んでいる途中で灯りを消したが、眠りは浅く、目を閉じるたびに広場で見かけた黄土色のワンピースの少女が浮かんできた。


寝台の脇には、夕食として運ばれた鶏肉の香草焼きが手つかずのまま残っていた。脂は白く固まり、添えられた豆も乾いて皿の縁へ張りついている。蓮は食欲を感じなかったが、冷めた紅茶だけを一口飲み、顔をしかめた。子どもの頃、母は冷めた茶を口にするたび、「まずいものを黙って飲むのは立派なことではありません」と笑っていたが、その声も今ではずいぶん遠くなっていた。


母が亡くなったあと、蓮の周囲には急に親切な人間が増えた。家臣は若い領主を支えると言い、親族は家のためだと言い、婚約を望む娘たちは心から尊敬していると口にした。だが、蓮が一度でも弱みを見せれば、彼らはその言葉を利益へ換えようとした。領地の金を横流しした家臣も、秘密を他家へ売った親族も、発覚する直前まで変わらぬ笑顔で忠誠を語っていた。


扉をたたく音がして、執事の冬馬が入ってきた。灰色の上着を隙なく着込み、銀縁の眼鏡の奥には、すでに一日の仕事を始めている者の目があった。手には朝の予定表と、新しく届いた封書が三通載せられている。


「お目覚めでしたか。朝食は食堂へご用意いたします。」


「ここでいい。」


冬馬は手つかずの夕食へ一度だけ目を向けた。何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は封書を机へ置いた。蓮はその様子を見て、また心配を装って命令に口を挟むつもりかと考えた。


「何だ。」


「いえ。今朝は白パンと卵、それに林檎の煮たものをご用意しております。」


「食べるかどうかは私が決める。」


冬馬は静かに頭を下げた。


「承知いたしました。」


蓮は自分の言い方が必要以上に冷たかったことに気づいたが、謝る言葉は出なかった。冬馬は長年仕えているが、それでも完全に信用しているわけではない。誰かを信じて裏切られるくらいなら、初めから距離を置いたほうがよい。その考えを何度も繰り返すうち、人の善意まで疑うことが習慣になっていた。


朝食が運ばれると、蓮は白パンを半分だけちぎった。黄身の柔らかい卵へ塩を振り、林檎の煮たものには匙をつけなかった。冬馬は予定表を読み上げながら、午後の視察について確認した。


「南側の共同井戸で、滑車の軸が傷んでいるとの報告がございます。本日、修理前の確認をなさいますか。」


「役人に任せればいい。」


「先月も役人へ任せた橋の修理費が水増しされておりました。」


蓮は卵の殻を匙の先で砕いた。報告書では立派な言葉が並び、実際の現場では粗悪な木材が使われていた。どうせまた誰かが自分の取り分を増やそうとしているのだろうと思うと、朝から胃の奥が重くなった。


「分かった。自分で見る。」


冬馬は予定表へ印を付けた。


「では、昼前に出発いたします。」


「護衛は少なくていい。大勢で行けば、現場を取り繕われる。」


「二名にいたします。」


蓮は残った白パンを皿へ戻した。昨日の少女なら、この冷めたパンを見ても何かよいところを見つけるのだろうかと思ったが、すぐに馬鹿らしい考えだと打ち消した。明るい言葉を口にする者ほど、裏では別の顔を持っている。自分は何度もそれを見てきた。


「どうせ、また裏切られる。」


無意識にそうつぶやくと、冬馬のペンが一瞬止まった。蓮はその視線を感じたが、何も言わず紅茶を飲んだ。


昼前、蓮は黒い外套の下に濃紺の上着を着て、共同井戸へ向かった。空には薄い雲が広がり、昨夜の雨で石畳のところどころに泥が残っている。馬車ではなく徒歩を選んだため、冬馬と二人の護衛が少し後ろを歩いた。通りの店では干した魚が軒下へ吊るされ、パン屋の前には焼きたての丸パンを求める客が並んでいた。


蓮は人々の挨拶へ短くうなずくだけで通り過ぎた。領主へ笑いかける者の中に、税を減らしてほしい者や、息子を役所へ入れてほしい者がいることを知っている。肉屋の主人が「今日はよい天気で」と話しかけてきても、その後に何を頼まれるのかと身構えてしまう。何も求められないまま通り過ぎると、かえって落ち着かなかった。


共同井戸は市場から少し離れた住宅街にあった。石で囲まれた広場の中央に古い井戸があり、朝から何人もの女性や使用人が水をくみに来ている。洗濯籠を抱えた女、空の水瓶を二つ持つ少年、野菜の泥を落とす料理人が順番を待っていた。井戸のそばには魚の鱗が落ち、誰かが置き忘れた赤い布巾が風でめくれている。


役人の権田は、蓮の姿を見ると慌てて帽子を脱いだ。茶色い上着の腹回りがきついのか、深く頭を下げるたび釦が引っ張られている。滑車は問題ないと説明したが、蓮が自分で縄を引くと、木の軸から嫌な音がした。


「これで問題がないと言うのか。」


「音はしますが、まだ使えます。交換となれば費用もかかりますので。」


「縄が切れて人が落ちてからでは遅い。」


権田は額の汗を袖で拭った。


「そのようなことは、めったにございません。」


「めったにないなら、起きてもよいのか。」


周囲の人々が会話を聞きながら、視線を伏せた。蓮は壊れかけた滑車よりも、役人が責任を避けようとする言葉に腹を立てた。安全を守ると言いながら、実際には費用を惜しんでいる。人の言葉など、結局は自分を守るための飾りにすぎないと思った。


「今日中に交換しろ。費用の内訳は私の机へ直接届けろ。」


権田が何度も頭を下げていると、広場の端から水瓶のぶつかる音がした。蓮が振り向くと、黄土色のワンピースに灰色のカーディガンを重ねた少女が、二つの水瓶を地面へ置いている。昨日、街で見かけた娘だった。


咲良は朝から静江に命じられ、台所の水瓶を満たすため井戸へ来ていた。白い前掛けには小麦粉が付き、木靴の片方には昨日縫った革の継ぎ当てが見えている。朝食には黒パンの端を野菜スープへ浸して食べたが、静江が急かしたため半分ほど残してきた。井戸へ着いた時点で腕はだるく、昨日の洗濯で荒れた指先には細かなひびが入っていた。


広場に領主がいると気づいた咲良は、邪魔にならないよう列の後ろへ回った。黒い外套を着た蓮は、昨日馬車の窓に見えた人かもしれないと思ったが、顔をじっと見るのは失礼だと考え、足元へ視線を落とした。順番が来るまでの間、井戸の脇に咲いていた小さな黄色い花を見つけると、今夜の日記に書くことができたと少しだけ口元を緩めた。


ようやく咲良の番になると、修理前の滑車を使わず、横に置かれた予備の縄で桶を下ろすよう言われた。縄は太く、雨を吸って重くなっていた。咲良は両手でしっかり握ったが、桶へ水が入った瞬間に体が前へ引かれた。


「無理なら誰かに頼め。」


近くにいた護衛が声をかけたが、咲良は振り返って頭を下げた。静江から、誰かに手伝わせて帰りが遅れたら承知しないと言われていた。自分でできると答え、足を踏ん張って縄を引いた。


桶が井戸の縁まで上がったところで、濡れた縄が咲良の手の中を滑った。咲良は慌てて握り直したが、肘が水瓶へ当たり、一つが石畳へ倒れた。空の水瓶は割れなかったものの、転がった先のぬかるみへ落ち、跳ねた泥が咲良のワンピースと頬へかかった。


もう一つの水瓶まで倒れそうになり、咲良は手を伸ばした。だが、縄と瓶を同時に支えることができず、足元が滑った。体が井戸の縁へ傾いた瞬間、黒い外套の腕が咲良の肩をつかんだ。


蓮は咲良を後ろへ引き、水瓶を片足で止めた。護衛がすぐに縄を受け取り、桶を引き上げる。咲良は石畳へ片膝をつき、両手を泥につけたまま、自分が井戸へ落ちかけたことを理解するまで数秒かかった。


「何をしている。危ないだろう。」


低い声が頭上から降ってきた。咲良は顔を上げ、昨日馬車の中から見ていた青年だと気づいた。近くで見る蓮は整った顔立ちをしていたが、目元には眠れていない者のような影があり、眉間には深い皺が寄っていた。


咲良は立ち上がろうとしたが、膝が泥で滑った。蓮は一度手を引こうとしたものの、咲良がまた転びそうになったため、肘を支えた。黒い手袋へ泥が付き、外套の裾にも水がはねた。


「申し訳ありません。お召し物を汚してしまいました。」


「服のことではない。なぜ無理をした。」


咲良は何と答えるべきか迷った。静江に命じられたと言えば、家のことを外で話したと叱られるかもしれない。けれど、自分ができると思ったことも事実だった。


「水を持ち帰らなければならなかったので、自分でできると思いました。」


「できていない。」


蓮の言葉は厳しかったが、静江の言葉とは少し違っていた。咲良そのものを役立たずと言うのではなく、今の行動が危険だったと指摘しているように聞こえた。咲良は泥の付いた前掛けを見下ろし、それから蓮へ頭を下げた。


「助けてくださって、ありがとうございます。」


蓮は返事をせず、泥だらけの咲良を見た。頬には茶色い泥が付き、カーディガンの肘も濡れている。水瓶の一つはぬかるみへ転がり、くみ上げた水も半分ほどこぼれてしまった。普通なら泣くか、恥ずかしがるか、助けた相手へ言い訳をする場面だった。


ところが咲良は、倒れた水瓶が割れていないことを確かめると、小さく息を吐いた。


「今日は、ついていました。」


蓮は聞き間違えたのかと思った。


「何だと。」


咲良は水瓶を起こし、泥を袖で拭おうとして余計に広げてしまった。自分の失敗に少し困った顔をしたが、それでも言葉を言い直した。


「水瓶が割れませんでした。それに、井戸へ落ちる前に助けていただきました。だから、今日はついていました。」


蓮は眉を寄せた。昨日もこの少女は、誰かに何かをしてもらうたび、うれしい、ありがとうと口にしていた。あれは周囲へ好かれるための振る舞いだと思っていたが、今は見物人へ愛想を振りまく状況ではない。


「その姿で、よくそんなことが言えるな。」


咲良は自分の服を見た。黄土色のワンピースは泥で茶色くなり、白い前掛けには大きなしみができている。静江に見つかれば、洗い直す石鹸代まで責められるだろう。帰り道のことを考えると指が冷えたが、口にした言葉を取り消したいとは思わなかった。


「嫌なことがなくなったわけではありません。」


蓮は黙って咲良を見た。咲良は人前で長く話すことに慣れておらず、前掛けの端を指でつまんだ。昨夜の紙へ書いた言葉と、雀から教わった言葉を思い出しながら、ゆっくり続けた。


「でも、嫌なことだけを何度も話すと、その言葉を未来の私も聞くことになります。」


蓮は意味が分からず、さらに眉をひそめた。


「未来の自分が聞く?」


「はい。未来の私は、今日の私が話した言葉を聞いて生きていくからです。」


広場を風が抜け、井戸のそばに落ちていた赤い布巾が石畳の上を少し滑った。修理人たちは作業を始め、古い滑車を外すため木槌を打っている。周囲の日常は動いているのに、その言葉だけが蓮の耳の中へ残った。


「誰かにそう教えられたのか。」


咲良は一羽の雀を思い浮かべた。人の言葉を話す雀の話をすれば、頭がおかしいと思われるかもしれない。それでも嘘は書きたくないし、話したくもなかった。


「庭で会った方に教えていただきました。」


「どこの誰だ。」


「私にも、よく分かりません。」


蓮は疑わしそうに咲良を見た。名も分からない相手の言葉を信じているなど、無防備にもほどがある。そんなものはいつか裏切られると思ったが、咲良は蓮の顔を見て、少し首を傾けた。


「領主様は、どんな言葉をよく話されますか。」


冬馬と護衛がわずかに身じろぎした。領主へそのようなことを尋ねる者はほとんどいない。蓮自身も答えるつもりはなかったが、朝、自分が口にした言葉が頭へ浮かんだ。


「どうせ裏切られる。」


それが、いつからか口癖になっていた。言葉にするたび、用心深くなれると思っていた。だが、同じ言葉を何度も聞いてきた未来の自分が、今ここにいるのだとしたら、咲良の話は笑い飛ばせないところがあった。


「余計なことを聞くな。」


蓮がそう言うと、咲良はすぐに頭を下げた。


「申し訳ありません。」


その素直な返事を聞き、蓮はなぜか落ち着かなかった。怒鳴ったわけではないのに、静かな声で謝られると、自分が必要以上に壁を作ったように感じられる。蓮は泥の付いた手袋を外し、護衛へ渡した。


「水瓶を満たしてやれ。」


護衛が驚いた顔をしたが、すぐに井戸の水をくみ始めた。咲良は慌てて手を振った。


「そこまでしていただくわけにはまいりません。」


「また落ちるつもりか。」


「今度は気をつけます。」


「気をつけるだけで事故がなくなるなら、滑車の修理もいらない。」


咲良は言い返せず、口を閉じた。権田が気まずそうに顔を伏せたため、冬馬は眼鏡を直しながら咳払いをした。護衛が二つの水瓶へ水を満たすと、蓮は近くにいた荷運び人へ銅貨を一枚渡した。


「この娘の家まで運べ。」


「承知しました。」


咲良はますます困った。家まで領主の使いが来れば、静江に何を言われるか分からない。前掛けの端を強く握り、蓮へもう一度頭を下げた。


「お気持ちはうれしいのですが、途中までで大丈夫です。」


「なぜだ。」


咲良は静江のことを話すべきか迷い、泥の付いた木靴を見た。何も言わずに断れば、かえって不自然になる。


「家の者が、領主様のお手を煩わせたと知れば、よく思わないかもしれません。」


蓮はその答えを聞き、咲良の服や荒れた手を改めて見た。前掛けは何度も繕われ、カーディガンの袖口には青い糸が見える。共同井戸へ来る家の娘にしては、身なりがあまりにも粗末だった。


「お前は、あの家で使用人をしているのか。」


咲良は少し間を置いた。


「家族です。」


その言葉のあと、咲良は無意識に唇を結んだ。蓮はそれ以上聞かなかったが、冬馬と視線を交わした。冬馬は何も言わず、咲良の水瓶を運ぶ男へ、屋敷の少し手前で渡すよう指示した。


「ありがとうございます。」


咲良は深く頭を下げた。頬の泥はまだ残っていたが、目元には先ほどより力が戻っている。


「本当に、今日はついていました。」


蓮は呆れたように息を吐いた。


「今度から、無理なものは無理だと言え。」


咲良は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「はい。気をつけます。」


咲良が荷運び人とともに去ると、蓮はその背中をしばらく見送った。水瓶を持っていないため、歩き方は軽い。それでも途中で立ち止まり、道端へ落ちていた青い布を拾い、近くの家の塀へ掛けてから再び歩き始めた。


冬馬が隣へ立った。


「珍しいこともございますね。」


「何がだ。」


「見ず知らずの娘の水を運ばせるとは。」


蓮は井戸の修理へ視線を戻した。


「目の前で事故を起こされては面倒なだけだ。」


冬馬はそれ以上何も言わなかった。だが、眼鏡の奥にわずかな笑いが見えたため、蓮は不機嫌そうに外套の襟を直した。


修理の確認を終えたあと、蓮は館へ戻った。昼食には牛肉と根菜の煮込み、焼いた白身魚、胡桃入りのパンが用意されていたが、咲良の泥だらけの姿を思い出すと、料理へ集中できなかった。魚の皮をナイフで外しながら、未来の自分が今日の言葉を聞いて生きるという話を何度も考えた。


「馬鹿げている。」


口に出すと、給仕がびくりと肩を揺らした。蓮は誰に言ったわけでもないと手で示し、パンを一口食べた。胡桃の香りが広がったが、咲良が昨日広場でもらっていた焼き菓子にも同じものが入っていたのではないかと思った。


午後の会議では、北地区の農民と商人が水路の使用を巡って言い争った。農民は商人が水を奪ったと言い、商人は契約どおりだと主張する。互いに相手を嘘つきと呼び、机の上には証文と帳面が積み上げられた。


いつもの蓮なら、書類の内容だけを確認し、違反した側へ罰を与えて終わらせていた。だが今日は、二人が何度も繰り返す言葉が気になった。「信用できない」「あいつらは強欲だ」「どうせ約束を破る」。その言葉を何年も話し続ければ、互いを信用できない未来しか作れないのではないかと思ってしまった。


「相手が守った約束は一度もないのか。」


蓮が尋ねると、二人は口を閉じた。農民の代表は、以前の干ばつで商人が井戸を開放したことを認めた。商人も、農民たちが冬の荷運びを無償で手伝ったことを思い出した。


蓮は自分が咲良と同じようなことをしていると気づき、急に居心地が悪くなった。それでも会議を途中で投げ出すわけにはいかず、過去に守られた約束を確認したうえで、新しい水路の使用時間を決めた。会議が終わる頃には、二人は完全に納得したわけではないものの、相手を嘘つきとは呼ばなくなっていた。


夕方、執務室へ戻ると、机の上には朝の封書がまだ残っていた。窓の外では庭師が落ち葉を集め、厨房から焼いた玉ねぎと香草の匂いが流れてくる。蓮は外套を脱ぎ、椅子へ座ったが、書類を開く前に手が止まった。


机の右端には、母が使っていた古い革表紙の本が置いてあった。中には領地の歴史や家族の記録が書かれ、ところどころに母の小さな字で覚え書きが残されている。蓮は長い間、その本を開いていなかった。過去の言葉を読んでも何も変わらないと思っていたからだった。


何となく表紙を開くと、幼い蓮が熱を出した日の記録が目に入った。母の字で、「蓮は苦い薬を飲み、泣かずに朝まで耐えた。強い子だが、強がらなくてもよいと教えたい」と書かれていた。蓮はその一文を二度読み、指で文字の上をなぞった。


母が亡くなってから、自分は弱みを見せるな、誰も信じるなと言い聞かせてきた。だが、その前には、強がらなくてもよいと言ってくれた人がいた。聞いた言葉と読んだ言葉で心が作られるのなら、自分は母の言葉より、裏切った者たちの言葉ばかりを選んで残してきたことになる。


扉が開き、冬馬が夕方の報告書を持って入ってきた。机の上の本を見た冬馬は少し驚いたが、何も触れずに書類を置いた。


「共同井戸の滑車は、本日中に交換が完了する見込みです。」


「そうか。」


「朝の娘についても、家の近くまで無事に水瓶を運んだとのことです。」


蓮は顔を上げた。


「誰がそこまで報告しろと言った。」


「ご不要でしたか。」


冬馬の顔は真面目だったが、わざと聞いていることは分かった。蓮は本を閉じ、椅子の背へ寄りかかった。


「名前は分かったのか。」


「咲良というそうです。静江という女性の家に住んでおります。」


「家族だと言っていた。」


「そのようです。」


冬馬はそれ以上を話さなかった。蓮も詳しく調べろとは命じなかったが、咲良という名前だけは頭へ残った。花の名前のようだと思い、すぐに自分らしくない考えをしたと眉をひそめた。


夕食後、蓮は寝室へ戻った。暖炉には新しい薪が入り、寝台の上には白い寝間着が用意されている。窓辺の小卓には温め直した紅茶と蜂蜜が置かれ、皿には林檎の薄切りが並んでいた。朝は手をつけなかったが、今夜は一切れだけ口へ入れた。


甘く煮た林檎は柔らかく、母が作らせていたものと同じ味がした。蓮は小卓の引き出しから紙とペンを出し、何かを書こうとしたが、手が止まった。領主としての命令や署名以外を、自分のために書いたことはほとんどない。


未来は、話した言葉、書いた言葉で作られる。


咲良の声が耳へ戻った。蓮は紙へペン先を当てたものの、何を書くべきか分からなかった。「誰も信じない」と書けば、これまでと同じ未来が続くような気がした。だからといって、「人を信じる」と書くほど素直にもなれなかった。


長い間迷った末、蓮は短い一文を書いた。


「今日は、名も知らない娘が私に礼を言った。」


書いたあとで、すでに名前を知っていることを思い出した。蓮はその部分へ線を引き、書き直した。


「今日は、咲良という娘が私に礼を言った。」


ただそれだけの文章だった。だが、破り捨てることはせず、紙を母の本の間へ挟んだ。蝋燭を消す前、いつもの言葉が口から出かかった。


どうせ裏切られる。


蓮はそこで唇を閉じた。代わりの言葉はまだ見つからなかったが、今夜は何も言わないことを選んだ。暗くなった部屋の中で、咲良の言葉だけが静かに残っていた。



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