第3話 言葉が街を歩く
第3話 言葉が街を歩く
朝の台所には、焼いた黒パンの匂いと、鍋の底へ焦げついた燕麦粥の匂いが残っていた。咲良は薄い黄土色のワンピースへ白い前掛けを重ね、袖口のほつれを青い糸で縫い直してから、静江に渡された買い物籠を持った。籠の底には肉屋、八百屋、パン屋で買う品を書いた紙と、品物の代金が入った小さな革袋が置かれている。静江は濃緑色の部屋着のまま食卓へ座り、半熟卵の殻を銀の匙で細かく割りながら、咲良へ釣り銭を一枚でも間違えれば夕食はないと言い渡した。
「玉ねぎを六つ、人参を四本、じゃがいもを一袋。肉は脂の少ないところを選ばせなさい。古いものを押しつけられたら、あなたが食べるのよ。」
咲良は紙を折って前掛けのポケットへ入れた。百合は朝から淡い水色の外出着を鏡の前で合わせ、襟元へ真珠色の飾りを付けるかどうか迷っていた。咲良が玄関へ向かうと、百合は香油の瓶を開けたまま振り返り、街へ出るなら自分の名前を口にしないよう命じた。
「そんな古い服で歩かれたら、うちまで貧しいと思われるでしょう。知り合いに会っても、私の妹だなんて言わないでね。」
咲良は木靴の紐を結びながら、胸の内へ入りかけた言葉を押し戻した。昨日書いた「私は役立たずじゃない」という一行を思い出すと、百合の声は少し遠くなった。扉を開けると、雨上がりの空には薄い雲が残り、石畳の隙間には小さな水たまりが光っていた。
「行ってまいります。」
誰も返事をしなかったが、咲良は扉を静かに閉めた。
街へ続く道には、朝市へ向かう荷車が何台も並んでいた。荷台には土のついた蕪、木箱へ詰めた卵、布をかぶせた焼き菓子が積まれ、車輪が水たまりを踏むたび泥が跳ねた。咲良はワンピースの裾を少し持ち上げ、籠を両腕で抱えながら歩いた。道端の垣根には赤い実がいくつもなり、雀が二羽、枝から枝へ飛び移っていた。
昨日の雀とは違うと分かっていても、咲良は立ち止まって見上げた。二羽は人の言葉を話さず、落ちた木の実をつついている。咲良は少しだけ笑い、誰にも聞かれない声で四つの言葉を唱えた。
「うれしい。楽しい。しあわせ。ついてる。」
言い終えると、道の先から牛乳売りの老人がやってきた。茶色い帽子をかぶり、腰を曲げながら二つの缶を運んでいる。咲良が道を譲ると、老人は帽子のつばへ手を当てた。
「朝からご苦労さん。」
「ありがとうございます。今日は少し暖かいですね。」
老人は空を見上げ、白い息が出ないことを確かめるように口をすぼめた。
「本当だ。昨日は指がかじかんで、蓋も開けられなかったよ。」
「今日はきっとよく売れますね。」
老人は一度目を丸くしたあと、口元を緩めた。
「そうなるといいな。あんたも気をつけて行きな。」
咲良は頭を下げ、再び歩き始めた。特別なことを言ったつもりはなかったが、老人の背中は先ほどより少し伸びて見えた。
街の入口へ着くと、朝市はすでに多くの人でにぎわっていた。魚屋の台には銀色の鯖が並び、隣の店では干した香草や石鹸が吊るされている。焼き栗を売る屋台から甘い匂いが流れ、揚げた魚を紙へ包んでもらった子どもが、熱そうに指を持ち替えていた。咲良の朝食は冷めた燕麦粥を二口食べただけだったため、腹の奥が小さく鳴ったが、籠の金には手をつけられなかった。
最初に入った八百屋では、店主の源造が腕を組み、店先のじゃがいもを睨んでいた。源造は太い眉と赤い鼻を持つ大柄な男で、値切る客にはすぐ声を荒らげることで知られていた。今日は朝から仕入れた葉物の一部が傷んでおり、妻からも仕入れ方が悪いと叱られたらしく、店の奥には割れた木箱が転がっていた。
「何だ、買うなら早く決めろ。眺めていたって芋は安くならんぞ。」
咲良は籠を足元へ置き、紙を開いた。怒鳴られると肩が縮みそうになったが、店先の人参が昨日よりみずみずしく、葉の付け根にまだ土が残っていることへ気づいた。咲良は一番太い人参を手に取り、源造へ向けた。
「この人参、とても立派ですね。葉も元気です。」
源造は眉をひそめたまま、人参を見た。
「今朝、北の畑から来たやつだ。曲がってるが、味は悪くない。」
「曲がっているから、切りやすそうです。煮込みにしたら甘くなりそうですね。」
源造は鼻を鳴らしたが、口元が少し動いた。咲良が玉ねぎとじゃがいもも選び、代金を渡すと、源造は傷のついた小さな人参を一本、籠の端へ入れた。
「そいつは売り物にならん。持っていけ。」
「よろしいのですか。」
「捨てるよりましだ。勘違いするなよ。」
咲良は両手で籠を持ち直し、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。とてもうれしいです。」
源造は耳の後ろをかき、隣の店へ聞こえるほど大きな声で笑った。
「人参一本でそんな顔をする客は初めてだ。今度は曲がった大根もやるよ。」
店の前にいた客たちもつられて笑い、重かった空気が少しだけ動いた。咲良は源造が笑った理由を深く考えず、買い物紙へ人参の値段を書き込んだ。
八百屋を出ると、広場の噴水近くで小さな女の子が泣いていた。赤い毛糸の帽子をかぶり、片方の手袋をなくしたらしく、濡れた手を胸へ押しつけている。周囲の大人は忙しそうに通り過ぎ、女の子の足元には紙袋からこぼれた焼き菓子が一つ落ちていた。
咲良は籠を地面へ置き、女の子の目の高さまでしゃがんだ。泣き声を止めようと慌てて慰めれば、かえって怖がらせるかもしれないと思い、まず落ちた焼き菓子を拾った。砂が付いていたため、食べられないことを伝えると、女の子はさらに顔を歪めた。
「お母さんがいないの。」
「一緒に探しましょう。お名前は何ですか。」
「ミナ。」
「ミナちゃん、赤い帽子がとても素敵ですね。遠くからでもお母さんが見つけやすいですよ。」
ミナは泣きながら帽子へ手を当てた。咲良が帽子の房を整えると、女の子の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「お母さんも赤い帽子?」
「青い肩掛け。」
「では、赤い帽子と青い肩掛けを探しましょう。きっとすぐ会えます。」
咲良はミナの手を握り、広場を見回した。ほどなく、魚屋の向こうから青い肩掛けを揺らしながら、一人の女性が走ってきた。女性はミナを抱きしめ、何度も名前を呼んだあと、咲良へ向かって頭を下げた。
「本当にありがとうございます。少し目を離しただけなのに、どこにも見えなくなって……。」
「見つかってよかったです。ミナちゃんが赤い帽子をかぶっていたので、すぐ分かりました。」
ミナは母親の腕の中から咲良を見つめ、涙で濡れた頬のまま小さく笑った。
「お姉ちゃん、ありがとう。」
その声を聞いた咲良は、自分の胸の奥にも温かいものが残るのを感じた。
「こちらこそ、ありがとう。会えてうれしかったです。」
母親は潰れていない焼き菓子を一つ、包みから出して咲良へ渡そうとした。咲良は遠慮したが、ミナが両手で差し出したため、受け取ることにした。丸い焼き菓子には蜂蜜と胡桃が入り、まだ少し温かかった。
咲良は広場の端にある石段へ座り、焼き菓子を半分だけ食べた。残りは包み直し、夜に日記を書くとき食べようと思って籠の内側へしまった。噴水の水は朝の光を受けて白く跳ね、近くでは鳩がパンくずを奪い合っている。人を助けたという大げさな気持ちはなく、ただミナが母親へ会えたことと、自分の腹へ甘いものが入ったことをありがたく思った。
「今日も、ついてる。」
そうつぶやいて立ち上がると、今度は通りの向こうから激しい言い争いが聞こえた。乾物屋の前で、店主の夫婦が荷車を挟んで向かい合っている。夫は灰色の上着の袖をまくり、妻は小麦粉の付いた前掛けのまま、腰へ両手を当てていた。
「だから、樽を外へ出すなと言っただろう!」
「あなたが昨日、朝一番で並べろと言ったんじゃない!」
「そんなことは言っていない!」
「言ったわよ。魚のスープを二杯も飲んで、覚えていないだけでしょう!」
通りの人々は面白そうに足を止め、品物を見るふりをしながら耳を傾けていた。咲良はその前を通り過ぎようとしたが、夫が荷車を押した拍子に、積まれていた乾燥豆の袋が一つ落ちた。袋の口が緩み、茶色い豆が石畳へ散らばった。
咲良は籠を置き、すぐに豆を拾い始めた。妻もしゃがみ込んだが、夫はまだ腹を立てたまま、どうせ汚れて売れないと吐き捨てた。咲良は溝へ入りかけた豆を指先で取り上げ、掌へ集めた。
「たくさんこぼれましたが、袋が破れなくてよかったですね。」
夫婦は同時に咲良を見た。咲良は拾った豆を妻の前掛けへ乗せながら、店先に積まれた乾燥茸を見上げた。
「こちらのお店は、いつもきれいに品物が並んでいます。お二人で準備されるのは大変でしょうね。」
妻は豆を拾う手を止め、夫のほうを見た。
「並べているのは、この人なの。私は値札を書くだけ。」
夫は鼻の下をこすった。
「値札がなきゃ売れんだろう。」
妻は何か言い返そうとしたが、咲良が落ちた最後の豆を拾って差し出すと、声を飲み込んだ。咲良は二人の顔を交互に見た。
「お二人とも、このお店を大切にしているのですね。素敵だと思います。」
夫は妻の前掛けについた小麦粉を見て、少し目をそらした。
「今朝からパンまで焼いていたのか。」
「昼に食べるものがないと、あなたがまた機嫌を悪くするでしょう。」
「昨日の魚のスープは、うまかった。」
妻は唇を結んだまま、散らばった豆を袋へ戻した。やがて、小さな声で言った。
「樽のことは、私も聞き間違えたかもしれないわ。」
夫は荷車の取っ手を握り直した。
「俺も、言ったことを忘れたかもしれん。悪かった。」
周囲で見ていた人々は興味を失ったように散っていった。咲良は二人が喧嘩をやめたことに気づいたが、自分の言葉が何かを変えたとは考えなかった。ただ、豆を拾うあいだに、二人が互いの仕事を思い出したのだと思った。
妻は店の奥から細長い干し肉を一本持ってきて、咲良の籠へ入れた。
「手を汚させたお礼よ。塩気が強いから、スープへ少しずつ入れるといいわ。」
「ありがとうございます。とてもおいしそうです。」
夫は咳払いをし、妻へ向き直った。
「昼のパン、俺も手伝う。」
「それなら、店先の樽を先に片づけて。」
二人の声はまだ少し硬かったが、先ほどのような怒鳴り声ではなかった。咲良は籠を持ち上げ、乾物屋をあとにした。
肉屋とパン屋でも、咲良は品物を受け取るたびに礼を言った。肉屋の若い店員が脂の少ない肉を丁寧に包むと、「きれいに切ってくださってありがとうございます」と伝えた。パン屋では少し焦げた丸パンを店主が隠そうとしたため、「香ばしくておいしそうです」と言うと、店主は照れたように袋へ一つ余分に入れた。
買い物籠は重くなったが、咲良の歩みは朝より軽かった。八百屋でもらった人参、ミナから受け取った焼き菓子、乾物屋の干し肉、パン屋の丸パンが籠の隙間へ収まっている。どれも高価なものではなかったが、今日交わした言葉と一緒に持ち帰る品のように思えた。
その頃、広場の反対側を黒塗りの馬車がゆっくり進んでいた。車体には領主家の紋章が入り、窓には薄い灰色のカーテンがかかっている。馬車の中には、若き領主である蓮が深い藍色の上着を着て座り、膝の上へ何通もの書類を広げていた。
蓮は朝から税収の不足、壊れた橋の修理、農地を巡る争いについて報告を受けていた。向かいに座る執事の冬馬は、銀縁の眼鏡を直しながら次の予定を読み上げている。蓮の脇には朝食として用意された白パンと燻製肉の皿があったが、白パンは一口かじられただけで硬くなり、紅茶もすでに冷めていた。
「午後は北地区の代表者との面会、その後は商人組合から陳情がございます。」
「どれも自分の利益の話だろう。」
蓮は書類から目を上げずに答えた。誰かが笑顔で近づけば、金か地位か便宜を求めていることが多かった。幼い頃から信じた相手に裏切られ続けた蓮は、人の言葉より契約書の印を信用するようになっていた。
馬車が広場へ差しかかったとき、窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。蓮が顔を上げると、赤い帽子の女の子が母親へ抱かれながら、黄土色のワンピースを着た少女へ手を振っていた。少女は古い木靴を履き、大きな籠を抱えたまま、何度も頭を下げている。
「止めろ。」
冬馬が驚いて御者へ合図すると、馬車は道の端へ寄った。蓮はカーテンを指で少し開き、少女の様子を見た。今度は乾物屋の前で、先ほどまで怒鳴り合っていた夫婦が少女と話している。何を言っているかまでは聞こえなかったが、夫婦の顔から少しずつ険しさが消え、最後には夫が妻の持つ袋を受け取っていた。
「何を見ておられるのですか。」
「分からない。」
蓮はそう答えながら、少女を目で追った。少女はパン屋の店主へ笑いかけ、何かを受け取ると両手で大切そうに籠へ入れた。服装は質素で、髪も飾り気なく一つに結ばれている。裕福な家の娘には見えず、商売人のように品物を売り込んでいるわけでもなかった。
「知り合いでございますか。」
「いや。」
少女が馬車の近くを通った。蓮が見ていることには気づかず、籠の重さで少し傾きながらも、道を譲ってくれた荷運び人へ頭を下げている。
「ありがとうございます。助かりました。」
荷運び人は汗を拭いながら笑った。
「その籠じゃ、腕が抜けちまうぞ。途中まで持ってやろうか。」
「大丈夫です。でも、声をかけてくださってうれしいです。」
少女が去ったあとも、荷運び人はしばらく笑顔のまま立っていた。蓮はカーテンを閉じず、遠ざかる背中を見つめ続けた。
「変わった娘だな。」
冬馬は窓の外を確認したが、どの娘のことか分からないようだった。
「何がでございますか。」
蓮は膝の上の書類へ目を戻した。けれど、書かれた数字は先ほどより頭へ入りにくくなっていた。
「何でもない。行け。」
馬車が動き出すと、咲良は石畳の端へ寄り、車輪が通り過ぎるのを待った。黒い馬車の窓に誰かの顔が見えたような気がしたが、すぐに灰色のカーテンが閉じられた。領主家の紋章には気づいたものの、自分には関係のない人だと思い、咲良は屋敷へ戻る道を歩き始めた。
帰り道、咲良は籠の中身を何度も確かめた。釣り銭は合っており、買い忘れもない。風が強くなり、パン屋の袋から香ばしい匂いが立つと、腹がまた小さく鳴った。咲良はミナにもらった焼き菓子の残りを取り出し、道端の石へ腰掛けて少しずつ食べた。
蜂蜜の甘さと胡桃の香りが口へ広がった。朝、静江や百合から受け取った言葉はまだ消えていなかったが、源造の笑い声やミナの「ありがとう」、乾物屋の夫婦の会話も同じように心へ残っていた。どの言葉を何度も思い出すかは自分で選べるのだと、咲良は少しずつ分かり始めていた。
「今日は、たくさんの人と話せた。」
独り言を口にすると、近くの木にいた雀が一羽だけ鳴いた。咲良は立ち上がり、買い物籠を持ち直した。
「うれしい。楽しい。しあわせ。ついてる。」
その夜、静江は曲がった人参を見て、売れ残りを押しつけられたのではないかと文句を言った。百合は干し肉を貧乏人の食べ物だと笑い、丸パンの焦げた部分を皿へ残した。咲良は台所で、その残されたパンへ野菜スープを染み込ませ、干し肉をほんの少し裂いて入れた。
温かいスープから人参の甘い匂いが立った。咲良は食べ終えると屋根裏へ戻り、服飾店の広告を束ねた小さな紙のノートを開いた。今日のことは一行では収まらない気がしたが、何を書くか迷った末、一番残したいことを選んだ。
「今日は、ありがとうをたくさん話した。ありがとうをたくさん聞いた。」
その下へ、いつもの言葉を書き足した。
「今日も、ついていました。」
咲良はまだ知らなかった。自分が渡した言葉が、八百屋の主人の笑顔になり、迷子の子どもの安心になり、夫婦が互いの働きを思い出すきっかけになったことを。そして心を閉ざした若い領主の中にも、消えずに残る小さな疑問を生んだことを。
咲良は鉛筆を裁縫箱へ戻し、残しておいた丸パンの半分を布で包んだ。明日の朝、少し温めて食べようと思いながら、毛布へ入る。窓の外では街の灯りが一つずつ消えていき、その間を一羽の雀が領主の館の方角へ飛んでいった。




